そして、君にたどり着くための、いくつかの偶然
キートン
君への羽ばたき
その日、僕はいつもより三分、早く家を出た。 いつもならぎりぎりまで布団にしがみついている僕が、なぜそうしたのか、自分でもよくわからない。
ただ、なんだかそわそわして落ち着かず、もう家にいられないような気がしたのだ。後になって思えば、これが最初の「羽ばたき」だった。ほんの些細な、意識さえしない選択の違いが。
いつも利用する地下鉄の駅まで、いつもとは違う道を歩いた。これも特に理由はない。単に信号待ちの時間がもったいなく感じられただけだ。その路地裏の小さな喫茶店の前を通り過ぎようとした時、ドアが内側から勢いよく開き、一人の女性が飛び出してきたのだ。
ぶつかる。というよりも、彼女が僕に突っ込んできた、というのが正しい。
彼女の持っていたカバンが開き、中身がばら撒かれた。鍵、財布、スマートフォン、そして無数の万年筆が路面に散らばる。
「あっ! ご、ごめんなさい! 大丈夫ですか!?」
彼女は慌てふためき、まずは僕のことを心配するよりも先に、散乱した万年筆へと手を伸ばした。どれもどっしりとした、味のある万年筆ばかりだ。僕は咄嗟に、転がりそうになった財布を拾い上げた。
「ええと…こちらこそ。大丈夫ですよ。お手伝いします」
そう言って、彼女と一緒に路面の品々を拾い集めた。彼女は「すみません、ありがとうございます」を繰り返し、顔を上げるたびに、耳のあたりがほんのり赤くなっているのが見えた。髪は少し寝癖がついていて、焦っているのか、額にうっすらと汗をにじませている。でも、その瞳は驚きと焦りで、きらきらと輝いていた。
ほんの数分の出来事だった。すべてをカバンに収め、彼女は深々とお辞儀をすると、「本当にすみませんでした! 急いでるので!」と言い残し、小走りに去っていった。
僕はその場にぽつんと立ち、彼女が消えた角を見つめていた。そして、自分の手の平を見る。彼女の財布を拾った時、ほんのりとオレンジの香りが移っていた。
その晩、大学のサークルで飲み会があった。友人の隆司が、最近知り合ったという女性を連れてきた。 「おう、遅いぞ、哲央」 「すまん、実験が長引いてな」
席に着き、ビールのジョッキを手にした時、隆司の隣に座っていた女性が顔を上げた。
目が合った。 そして、二人同時に声をあげた。
「あ…!」 「あなたは…!」
そうだ。昼間、喫茶店でぶつかった、あの万年筆好きの女性だった。 「え?なに? 知り合いなの?」隆司が驚いた顔で二人を見比べる。 「いや、それがさ…」と僕が言いかけると、彼女は照れくさそうに言った。 「今日、道でぶつかっちゃって…。私、慌て者でして」 「そうなんだ。はは、彩花らしいエピソードだな」 隆司は彼女の名前を「アヤカ」と呼んだ。
彩花。いい名前だ。 その日から、僕と彩花の距離は急速に縮まっていった。隆司を通じて自然と会う機会が増え、二人きりで出かけることも当然のように始まった。喫茶店でコーヒーを飲みながら、彼女はいつもスケッチブックに何かを描いていた。デザインの勉強をしているという。僕はその真剣な横顔を、こっそりと眺めていた。
彼女はよく言った。 「ねえ、哲央くん、偶然ってすごいよね」 「ん?どうして?」 「だって、あの日、あなたがいつもと違う道を歩いてなかったら、私たち知り合えなかったんだよ?私がいつもは絶対しない万年筆の手入れを、その朝たまたまカバンに入れたまま出かけなかったら、あんなに散らばらなかったし。ぶつかることもなかった」
彼女はそう言って、コーヒーカップを傾け、不思議そうな顔をした。 「ほんの少しの違いで、人生って大きく変わるんだね。まるでバタフライエフェクトみたいに」
僕は笑った。 「そんな大げさな。ただの偶然だよ」 「偶然が積み重なって、必然になるんだよ。きっと」 彩花はそう言い、いたずらっぽくウインクした。
やがて、僕と彩花は付き合い始めた。隆司は少し複雑な顔をしたが、結局は「まあ、しょうがないか」と笑ってくれた。彼女との日々は、驚きと発見の連続だった。彼女の世界はカラフルで、時に予測不能で、そして何よりも愛おしかった。
ある雨の日、彼女のアパートで古いアルバムを見ていた。子供の頃の彩花は、今とまったく変わらないきらきらした目をしていた。 「あ、これ」彩花が小学三年生の時の運動会の写真を指さした。「この時、転んじゃって、一等賞を逃しちゃったんだ。すごく悔しくて泣いたのを覚えてるよ」
その写真には、転んで膝を擦りむき、泣きじゃくる小さな彩花が写っていた。そのすぐ後ろで、一人の男の子が慌てて手を伸ばしている。その子のゼッケンには「42」と書いてある。
僕は息を呑んだ。 自分のアルバムにも、全く同じ瞬間を写した写真があったはずだ。僕はその運動会で、前に転んだ女の子を助けようとして、自分もろとも転び、結局最下位になって父にこっぴどく怒られたのだ。ゼッケン「42」。それは僕の番号だった。
「彩花」 「ん?どうしたの?」 「もしかして、その転んだ時…後ろからぐちゃっと潰されたような感じじゃなかった?」 「え?」彩花は目を丸くした。「…そういえば、誰かが後ろから突っ込んできたような気が…。それ、どうして知ってるの?」
僕はゆっくりと説明した。十五年前の、とある地方都市の小学校の運動会のこと。一位を争う二人の児童。前に転んだ女の子。彼女を助けようとしてよろめ、その上に覆い被さるように転んでしまった、間抜けな男の子のことを。
彩花は信じられないという顔で、そして次第に、目を潤ませていった。 「じゃあ…あの時、私にぶつかってきたのは…」 「多分、僕だ」 「それで、あなたも転んで、最下位に…」 「父にめちゃくちゃ怒られたよ」
しばらくの沈黙。そして、彩花は突然、ぷっと吹き出した。 「ばかなの!そんなことあったんだ! あなたの人生狂わせちゃったかもしれないじゃない!」 「いや…」僕は言った。「狂わせたんじゃない。ちゃんと、ここに導いてくれたんだ」
僕は彼女の手を握った。 「あの日、僕がなぜか三分早く家を出たのも、いつもと違う道を歩いたのも、全部、十五年前の運動会で僕がとった選択の結果なんだとしたら?君にぶつかり、君の万年筆を拾い、隆司を通じてまた君に出会うための、長い長い連鎖だったんだとしたら?」
バタフライエフェクト。 僕は笑いながら、彼女がかつて言った言葉を返した。
「ほんの少しの選択の違いが、人生を大きく変える。偶然が積み重なって、必然になる。君がそう言ってたろ?」
彩花の目から、一筋の涙が零れた。 「…ずいぶんと時間がかかったね」 「ああ。でも、ちゃんとたどり着けた」
僕は、十五年前には知る由もなかった、この運命の恋人をぎゅっと抱きしめた。 ほんの小さな羽ばたきが、時空を越えて、そしてようやく、優しい嵐を起こしたのだ。
そして、君にたどり着くための、いくつかの偶然 キートン @a_pan
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