夏来にけらし
猫小路葵
夏来にけらし
僕の家は、新興住宅地にある。
父がそこに家を建て、春休みのあいだに家族で引っ越してきた。
父、母、僕、妹。いま流行りの核家族だ。
妹は四月から中学へ、僕は高校へとそれぞれ進学した。
妹は近くの中学に自転車で通っているが、僕はここからバスに揺られ、さらに電車に乗り換えて学校に行っている。
新生活が始まった春は駆け足で過ぎていき、季節はもうすぐ夏になろうとしていた。
バス停の前には、「天乃病院」という古い建物がある。
病院というにはかなり規模が小さいけれど、一応ベッドの数は病院の基準を満たしているのだろう。
白髪の医師が院長で、基本的になんでも診てくれる。地域住民は「何かあったら天乃さんへ」が合言葉なんだと聞いた。
病院は和洋折衷の二階建てで、時計台があった。
僕は毎朝、バス停に着いたら時計を見るのを日課にしていた。
病院の屋上には物干し場があって、若い看護婦さんがよく洗濯物を干していた。
だいたいいつも決まった時刻に看護婦さんは屋上に現れる。
僕は、その時刻よりいつも少し早めにバス停に着くようにして、時計を見ながら看護婦さんが出てくるのを待った。
彼女は白いナースキャップを被り、白衣にきりりと身を包んで、髪はいつもきれいにまとめられていた。
色白の肌に、涼し気な目元。
看護婦さんは、洗濯物を干す合間に、よく空を仰いだりもしていた。
空に微笑みかける日は、何かいいことがあったのかな、と僕は思った。
浮かない顔の日は、空に悩みを打ち明けているようにも見えた。
晴れた日も、曇りの日も、彼女はいつも空を見ていた。
その様子は、どことなく天女が空を懐かしんでいるようにも思えた。
そんな彼女の姿を、僕はここから眺めるのが好きだったのだ。
だから、雨の日はとてもつまらなかった。梅雨なんかなければいいのにな、と僕は思っていた。
彼女の年齢はいくつぐらいだろうか。
まだ若そうだけど、僕よりいくつくらい年上なのかな。
いつか話す機会があったら、勇気を出して聞いてみたいけど、あいにく僕はすこぶる健康で、天乃病院に行く用事は当分なさそうだった。少し残念。
それはそうと、僕はいま、百人一首の暗記に苦戦している。
古文の先生が課題を出したのだ。
百人一首の歌と、その意味を覚えること。
毎時間、授業の冒頭で無作為に指名され、あてられた生徒は起立して、歌と現代語訳を暗唱する。
古典に興味がある者はいいが、僕は、どちらかといえば苦手な方だ。
家でやろうとすると、これがなぜかすぐ気が散ってしまってだめだった。
一番集中できるのは、通学のバスや電車の中。
今朝もこうして、副教材である「古典の学習・小倉百人一首」を手に、バス停まで来た。
先週最後のページまで終わったので、また最初のページから繰り返しますとの先生の言葉に、教室のあちこちで静かな溜息が聞こえた。
時計台に目をやると、時間まであと少し。
今日はよく晴れている。
僕が副教材の最初の歌をなぞったところで、看護婦さんは屋上に出てきた。
看護婦さんは大きなかごを重たそうに運んできて、足もとに置いた。
かごはまだ他にもあったようで、看護婦さんは一度引っ込み、また別のかごを持って出てきた。
そして、屋上に整列している物干し竿に、看護婦さんは真っ白なシーツを掛けた。
シーツは朝の光を浴びて、バス停にいる僕の目にもきらきらと輝いているのが見えた。
看護婦さんがシーツの形を整える。
次は掛布団のカバー、それから枕カバー……看護婦さんが着ている白衣も、みんな真っ白だ。
朝の太陽が反射してまぶしいくらいで、その光景は、まるで天女が羽衣を干しているみたいだった。
そうやって彼女の仕事を眺めていると、屋上にもう一人、誰かがやってきた。
骨折したのか、片腕を吊っている男の人――天乃病院の入院患者だった。
看護婦さんが振り返る。
男の人だとわかると、看護婦さんは、はにかんだ笑顔を見せた。
男の人も微笑みを浮かべていて、屋上の手すりまできて、そこから景色を見た。
看護婦さんも仕事の手を止めて、男の人の横に立った。
少し先にある低い山を眺めているのか、男の人が何か看護婦さんに話しかけると、看護婦さんも頷いて答えた。
「もう、夏なんですね」
はじめて聞く彼女の声は、風が運んできた。
屋上に並んだ二人を、僕はバス停から見上げていた。
初夏の風にはためく、真っ白な洗濯物の群れ。
いつも空に焦がれていた天女は、いまは隣に立つ人のことだけを見つめていた。
僕は、手にした副教材に目を落とした。
――春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣干すてふ 天の香具山
二ページ目に載っているこの歌を、僕はこれからもきっと忘れることはないと思った。
終
夏来にけらし 猫小路葵 @90505
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