「私」チャレンジ

梶田向省

「私」チャレンジ

「すみれちゃんさー、『私』チャレンジしようよ」

 教室、午後一時、昼休み。美穂乃に言われた時点から、嫌な予感はしていた。ざわ、ざわと胸が騒ぎ、室内なのに、生暖かい風が吹き抜けたような気さえしてくる。

 なんとかチャレンジなるものが、いったいどんな内容なのかは予想もつかなかったが、説明を受ける前から、「いや、今日はいいや」と断ってしまいたくなるくらいに確信があった。楽しいものであるはずがない。

「んー? 何それ」

 すみれは柔らかく相づちを打った。聞きたくはないが、いきなり拒絶するのは、間違いなく空気をかき乱す。自分の確固たる意思を示すことは、それだけ対立のきっかけを増やすことと同様である。すみれが常々思っていることだった。

「何それー」と、近くにいた本庄さんも会話に参加してきて、より逃げ場がなくなる。

「すみれちゃんってさ、自分のこと名前で言うでしょ? 『すみれは~』ってさ」

「あー、言う言う。確かに」

 ここ最近、悩んでいた一人称のことを突かれて、すみれは息苦しくなる。今すぐにでも、この場から逃げ出したい衝動に駆られた。

「あれさ、いいんだけど、いいんだけどね、皆気になってるよ」

「え……そうなの」

「うん。だってさ、私たちもう高校生だし。ちょっと珍しいよ。ねえ、本庄さん?」

「や、まあ……ね」

 言われずとも、クラス内で若干浮いている自覚はあった。「可愛い子ぶってるんじゃない?」とささやかれているのも気づいていた。この歳にもなれば、一人称はほぼ統一されたようなもので、男子は「俺」、女子は「私」。個性がないと言えばそれまでだが、すみれは、自分が1人で大衆性に逆らっているような気がして恐ろしかった。

「だから、すみれちゃんのために、一人称を矯正してあげようじゃないか、という企画」

「えー! いいじゃん! 面白そう!」

 本庄さんが嬉しそうに言った。対比してすみれの気分は、加速度的に沈んでいく。 

 一人称が名前であることに関して、とくべつ強いこだわりがあるわけではない。昔から、この呼び方に慣れ親しんでいたため、なんとなく「私」呼びに抵抗があるだけだ。

 それに、両親に感謝する、というわけでもないが、すみれは自分の名前をそこそこ気に入っている。他人に強引に、干渉されるいわれはない。

 そんな思いは、おくびにも出さず、愛想笑いを続ける。こういう自分を受け入れている。

「だからさ、すみれちゃん、明日から自分のこと『すみれ』って言うの禁止ね」

 命令口調に気が滅入る。だが、不本意そうな態度を見せると、美穂乃は機嫌が悪くなる。

「――うん、分かった。でも、忘れちゃうかもなー」

「えーじゃあ、『すみれ』って言うごとに罰金十円ね」

 なぜ、自分の名前は禁句のように扱われなければならないのか。

「美穂乃ちゃん、厳しっ……」

 何がおかしいのか、本条さんは腹を抱えて笑っている。すみれ――「私」は、この甲高い声が苦手だった。

 その日はあまり授業に集中できなくて、窓の外ばかり眺めていた。


 布団の中で考えた。美穂乃は忘れっぽい部分がある。明日になれば、馬鹿げたチャレンジのことはすっかり頭から抜け落ちているかも知れない。今までだってそういう事があった。気にしていたのは自分だけ。覚えていたのは自分だけ。相手に恥ずかしささえ与えてしまうような、そういう子だ。

 そうだ。いつものパターンじゃないか。


 翌朝登校すると、教室に入って真っ先に、美穂乃に声をかけられた。

「あ! すみれちゃんおはよー。覚えてる?昨日の『チャレンジ』。罰金だからね」

 私の視界は暗転して、何も考えられなくなった。頭がホワイトアウトしたみたいだ。深い絶望が腹の底を泳ぎ始める。

「ふふっ。すみれちゃん、忘れてたの?」

 本庄さんも言う。何の悪気もなさそうな笑顔。苦しさが倍増する。

 ある意味、確かにいつものパターンだった。私は皆が忘れていることを期待していた。忘れていてほしかった。けれど、美穂乃も本庄さんも、はっきりと記憶していた。私だけが取り残されている。焦りが身体を包む。

「いや、忘れてないって!」

 忘れたかったんだけどね。心のなかでそう唱えたとき、絶大な疲れに気づいた。精神が疲弊すると、気のせいか肉体も疲労が感じられるのはなぜだろう。

 授業は、昨日以上に身が入らなかった。淡々と、退屈な談義を続ける教師は、私がどんな痛みを感じているのか、どういう辛さを抱えているか、何も知らない。それが凄く薄情なことであるかのように感じられた。

 教師の言葉が一言も頭に入ってこないので、机に伏して暗い空間を見ていた。頭と腕の隙間にできる、狭い世界に閉じこもっていた。

 普段であれば周りからなんと思われるか分からないので、こんなことは絶対にしない。無難に授業を受ける、優等生を演じている。

 だがこの席は窓際の列の最後尾なので、誰にもバレない。せいぜい隣の谷川君くらいで、あとは教師からの評価が下がるくらいか。どうでもいい。頭が重くて仕方がない。

 教師の声だけが聞こえる。歴史の授業だった。大政奉還だの桜田門外の変だの、およそ無関係としか思えない事柄が、私がかぶった殻にぶつかっては消えていく。

「じゃあ、この人物の名前……昨日やったよな。えー、二十七日か。二十七番は……村瀬さん」

「え、ボクじゃないです」

 透き通るような綺麗な声で、彼女が答えた瞬間、私は思わず顔を上げていた。

 ボクっ娘。

 村瀬茜。背が高く、ショートヘアがよく似合う女子。学年で唯一、スカートではなくスラックスを希望して履いている。我が道を往くスタイルと、物怖じしない話し方から、敵は多い。美穂乃も彼女を嫌っていて、ことあるごとに「茜クソうぜえ」とこぼしている。「特にあのショートがイタいよね」と。

 私は、言うことができなかった。「村瀬茜って、カッコいいよね?」と。

「ボクは二十六番なんで、二十七番は村田さんだと思います」

「ああ、そうか。先生間違えてた、ごめん」

 美穂乃と、本庄さんがひそひそと話している。私にも、「キモい」「ウザい」といった攻撃的なワードの断片が聞こえてくるので、茜に聞こえていないはずもないが、彼女はどこ吹く風である。

 何の躊躇もせずに、「ボク」を連呼する美穂乃。一人称を、自分を、さらけ出す。何を恥ずかしがることがあるか、とでも言うように。そこには限りない清々しさがあった。

 途端に、気分が一転して、私を取り巻く世界は、愉快になっていった。肩の荷が下りるように、心も軽くなる。小悪魔的な美穂乃、無邪気な本庄さん、退屈な先生、私を漠然とした不安でがんじがらめにしていた、すべての要素が、滑稽に見える。

 これも、テーマこそ違えど、例によって比較思考だった。私が重く受け止めて枷としていたものを、茜は一笑に付し、思いっきり向こうに蹴り飛ばした。すると、不思議なことに、自分の小ささを思い知らされる。

 チャイムが鳴って、私は果てしない解放感を味わった。重くて、長い授業が終わった。耳に、美しい旋律が聞こえてくる気がした。

「ねえ、すみれちゃんさ、今日、本庄さん家で勉強会しない?」

 美穂乃が誘ってくる。あいにく、今日は、千歩ちゃんという子と、図書館で勉強をする先約が入っている。

 いや、と言いかけて留まる。自分の思いつきに笑みがこぼれる。

「すみれ、今日約束があるんだ。ごめんね」

 美穂乃は、あ、そうと応えて身体を戻しかけ、一拍遅れて振り向く。本庄さんも気づく。

「あっ! 罰金!」

 なんだ、やっぱり忘れてたんじゃないか、と思った。財布を取り出して十円玉を見つける。手に握ったまま周りを見渡す。

「あ、村瀬さーん、これ」

 十円玉を放ると、茜は反射的に手を伸ばしてキャッチした。当然戸惑った顔を見せるので、ニカッと笑ってやる。すると、たぶん状況は読めていないだろうに、茜もはにかんだ笑顔を見せた。前から思っていたことだが、彼女は非常に綺麗な顔立ちをしている。

 美穂乃は怒る。本庄さんも困惑している。

「え、マジイミフ。なんであんな奴にやったわけ? ちゃんと私達にも罰金払いなよね」

「やだー。あのね、すみれのチャレンジは成功したの。私チャレンジは」

 強さを備えたすみれは、明日になれば消えてしまうかもしれない。でも、それでいい。

 人間にはきっと、はっきりした転換点なんて存在しない。けれど、と思う。けれどだからこそ変われるんだ。羽ばたくその日を夢に見るからすみれは胸を張って自分の名前を名乗れる。

 すみれの中の「すみれ」に従う。

「あ、これ百円」と茜が言う。「え、うそ」すみれは身を乗り出す。「うそー」

 からからと笑う茜の口から白い歯がちらりと覗く。笑い返す自分も今までよりずっと自然に笑えているだろうと、すみれは思った。

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「私」チャレンジ 梶田向省 @kfp52

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