大先生

六蟬

第1話

 ああ退屈だ。

 こんなことになるなら学力の低い学校を受験しなければよかった、と日向大ひゅうがだいは思った。

 今行われている授業は数学。一生中学校の復習しかしない。それはこのクラスのほとんどが馬鹿だからに他ならない。もちろん、大はこの内容を完璧に知っている。まるで、ひらがなの書き方を説明されているかのような気分だった。とにかく、退屈だった。

 なんでこんな事になっているかと言うと、大は高校受験で私立と公立を両方一校ずつ受験する予定だった。私立の方がレベルが高く、公立は余裕で受かるが大のレベルにそれなりに合うため保険として受けることになった。だが、不幸なことに家が火事になって、学費の高い私立の受験を断念させられた。公立しか受けられなくなったがまあいいか、と思っていたが、不幸は重なり、公立受験当日に通り魔に遭って足止めを食らい、結果的に受験ができなかった。というより、怪我をして行けなかった。そして、二次募集で受けた偏差値の低い学校に滑り込み、今に至る。正直、後悔しているというよりかは、なぜあんなにも不幸が立て続けに起こったんだと不思議に思っている。

 部活にも入らず、友達も作らず、教室の隅で黙々と勉強している大のことを、クラスメイトは奇妙なものを見る目で見ている。最初の頃はかなりの苦痛だったが、彼らに自分の過去は知らないはずだし、そもそも自分より圧倒的に馬鹿なのだから理解できないのもやむないのだと考えると、やがてそれも気にならなくなった。周囲の人間を見下していないと、この場所にいることはできないと確信したのだ。

 退屈だ。つまらなすぎる。大は暇を持て余し、周囲のクラスメイトを観察した。まともにノートを取っている者は、大も含めてほとんどいない。こいつらは何のために学校に来ているのと言うのか。少なくとも勉強目的ではないのだろうなと思う。

 低気圧で頭が痛い。早く帰りたいと思いながら、板書をぼんやりと眺めていた。


 授業が終わり、部活へ向かう人たちを避けるように横を通り、帰路へ着く。今日は雨が降っていて、憂鬱な気分だ。制服の裾は濡れるし、頭痛も起きる。電車に乗れば、他の人の濡れた傘が当たって濡れることもある。危険な持ち方をしている人もいる。そういう人に出くわさないといいなと思いながら、友人同士で話していて騒がしい廊下を一人で歩く。

 昇降口で靴を取ろうとした時、

「日向くん」

 と、誰かが大を呼ぶ声がした。この学校の生徒とまともな会話をしたことのない大は、一瞬反応が遅れた。気のせいかと思ったからだ。

 見ると、そこには同級生の女子、原田はらだ舞依まいが立っていた。そこまで快活ではなく、むしろ地味で無口なタイプだ。出席番号が大の一つ前だが、挨拶すら交わしたことがないのに、話しかけてきたことが驚きだった。理由を考えて、大はしばらく呆然と立っていた。

「……どうしたの?」原田が不思議そうに大の顔を覗く。

「あぁ、いや。ごめん。俺、なんか落としたかなって」

 短時間で導いた答えは、原田が大の落とし物に気がついて渡しに来てくれた、だ。それ以外で話しかけてくる可能性は限りなくゼロに近いだろう。同級生とはいえ、完全な他人なのだから。

「落とした?」原田はきょとんとした。「日向くんは何も落としてないよ。わたしはただ、一緒に帰ろうって言うつもりだったの」

 え、と大は思わず零してしまった。何故? という疑問で頭が一杯になった。しかしそれも誘いに乗ればわかることだ。そして大には断る理由がない。

「いいよ」と頷いた。

 すると原田はほとんど表情を変えずに「ありがとう」と言い、大の下駄箱の一つ上からローファーを出した。

 先に出口のすぐそばで立って待っていると、靴を履くなり原田は慌てて駆け寄ってきた。そのせいで一瞬転びかけたのを、大が手を取って支えた。

「ごめん、ありがとう」

 恥ずかしそうに顔をそらしながら原田は言った。

 原田は頭の悪いクラスメイトの中でも真面目な方だが、いかんせん頭が足りない。おまけに運動神経も足りない。いつも教室でイヤホンをして音楽ばかり聴いていて、同級生と会話をしていないのを大は知っていた。

 傘をさして二人で並んで歩いた。自然に、大が車道側へ行った。原田の方を向くと、スクールバッグに見たことのないキャラクターのアクキーやら缶バッヂやらがついているのが分かった。

「これって何のキャラなの?」大はその缶バッヂの一つを指さした。

「え? あー、えっと……」原田はいきなり話を振られて動揺していた。目が露骨に泳いでいる。「キャラ、では、ない。こんな見た目の歌手? がいて」

「へえ。VTuberみたいな?」

「まあ、うーん」原田は曖昧に頷く。

「なんていう人?」大は話を広げようとさらに質問する。

「『オーディン』って名前」少し間を開けて続ける。「この人、すごく歌が上手いんだよ」

「そうなんだ。今度、YouTubeで探してみよう」

「聞いてみてよ」原田は少し笑った。

 話が途切れてしまった。大はなんとかこの状況を打破せねば、と話題を考えた。が、その前に原田の口が開いた。

「日向くんって、歌うの好き?」

「歌? いや、そんなに、上手くないよ俺」

 音楽の類は苦手だ。楽譜は読めないし楽器もできない。美術に比べたらマシだとは思うが、中学校の時は合唱コンクールの練習がいつも億劫だったのを思い出す。

「上手い下手じゃなくて、好きかどうか、だよ」

 原田は今日で一番真っ直ぐな視線を向けてきた。じっ、と大の顔を見ている。こうして見ると、原田の目は結構大きい。親しみやすい丸い目だった。

「まあ、好きではある。そんなに歌わないけど、カラオケとか行くのは好きだよ」

「ほんと?」原田の顔が明るくなった。「じゃあ今度、一緒にカラオケ行かない?」

「別にいいけど」原田の様子が随分変わったので大は内心驚く。

 ふと、なぜ原田は大と一緒に下校しようと思ったのかを気になっていたことを思い出し、原田に聞いてみることにした。

「そういえば、どうして俺に一緒に帰ろう、って誘ってきたの? そんな接点もないのに」

 できるだけ何気ないようにと心がけたが、原田の表情はさっきと比べて少し曇った。

「嫌だった?」原田は俯きがちにそう呟いた。

「いや、そういうことじゃなくて、なんで俺なんか、って思ったんだよ」

 ちょうど横断歩道のところへ来ていた。まだ信号は赤く、大と原田の他に信号待ちをしている人はいない。

「……わたし、ほとんどクラスの人と話してないの。話せないの。なんかわたしが余計なことして、いじめられたりするかもしれないって思うと、怖くて。だから、好きなことに逃げてたら、友達できなくなったの」

 原田は赤く光る信号を見つめていた。「でも、日向くんはきっとそんな人じゃないと思ったの。もう、入学してから……二カ月? くらい経ってるけど、後ろの席なのに話してないのもおかしいなって思って。日向くんもずっと勉強してるから、話しかけづらかったけど、今日は勇気を振り絞って、一緒に帰ろうって言ってみたの」

 原田の視線が、おもむろに信号から大へと移り変わる。傘と雨粒越しに、大きくて丸い目が大の瞳を見つめていた。

「そう、だったんだ」返す言葉が見つからなくて、そう答えた。「話しかけづらくてごめん」

「大丈夫だよ。わたしの方が、いつもイヤホンとかしてて、話しかけづらかったでしょ」

 信号が青になる。大がそれに気づき、前に一歩踏み出すと、原田がついてくるように歩き出した。

「あれって、いつも歌を聴いてたの?」

「そう。わたしね、色々歌えるようになりたいなって思って。合唱部だし」

「そうだったの?」大は今日で一番びっくりした。部活に入ってたなんて知らなかった。「今日は、部活休み?」

「そうだよ。平日は水曜日だけ休みなんだ」

 大は、自分があまりにも同級生に興味がなかったことを知って、軽く絶望していた。学力の低い学校にいる自分を誤魔化すために、皆同じような馬鹿でしかない、と見下して来たけれど、それこそ馬鹿みたいなやり方で、愚かで、最低だったことに、なぜこれまで気づけなかったんだろう。

 泣きそうになった。

「じゃあ」大は泣くのを堪え、それを原田に悟られもしないように心の奥底へ押し込んだ。「ますます、カラオケが楽しみになったよ」

 原田は嬉しそうに笑った。今まで見た原田の表情の中で一番幸せそうだった。こんな顔は今まで見たことがなくて、少しだけ可愛いと思った。

「ねぇ、下の名前で呼んでもいいかな? 名字呼びって、慣れてなくて」原田はにこにこしたまま訊いた。

「え、いいけど。別に許可とか」

「じゃあ、大くん。……なんか、大工みたいで嫌だなぁ」

「俺は気にしないけど」

「わたしが気になるよ」

 うーん、と原田はしばらく考えていた。気づけば、いつものあの無口で暗いオーラはどこにもなくなっていた。

「じゃあ、頭良いし、『』で」原田はちょっと悪戯っぽく笑った。

「ええっ? それ俺が気になるよ」予想外すぎて、吹き出してしまった。「大先生なんて言われるほど立派じゃないし」

「いいんだよ。わたしが呼びたいように呼んでいいでしょ。大先生も、わたしのことどう呼んでもいいからさ」

「俺は普通に舞依って呼ぶよ」

 その時、大は不思議と新鮮な気持ちになった。それは原田の名前を初めて呼んだからだと遅れて気がつく。

「大先生、今度勉強も教えてよ。わたし、前のテストで赤点取っちゃって、親に怒られちゃったんだよね」

「え、まじで? 簡単すぎて物足りなかったんだけど」

「うそ! そんなことある? 全然分かんなかった」

「あんなの、ほぼ中学校の復習の範囲内だよ」

「うそだあ。やっぱわたし馬鹿なんだなぁ」

 その言葉に、大は一瞬ドキッとしたが、原田は何の気なしに言ったらしく、普通にしている。むしろ、さっきよりも元気そうに見えた。

「大丈夫だよ」大は笑いかける。「俺が教えてあげるから」

「『大先生』だもんね」原田は冗談っぽく笑った。

「そういう意味じゃなくて」

 駅が見えてきた。確か、原田の出身中学校からして、路線は違うはずだ。少しだけ寂しい気持ちになっている自分がいた。大は念の為、原田と帰りの電車が違うことを確認した。

「そっか、じゃあ駅までだね」

 原田も、悲しげな顔をしているように見えたが、それは大の気のせいかもしれない。そうこうしている間に、駅に到着してしまった。

「大先生、じゃあまた明日学校でね」舞依が笑いながら手を振った。

「またね」大も笑顔で手を振り返した。

 原田はすぐに人波に溶け込んで、見えなくなってしまった。一人になった大は発車時刻まであと数分なのを確認して、改札の方へと歩き出した。

 その時、ズボンの裾が冷たいのに気がついた。ふと目をやると結構濡れていた。原田といたときは気がつかなかったのに。それに、頭痛もほとんど感じない。どうしてだろう、と思いながら、携帯をかざして改札を抜けた。

 大先生。そう呼ばれて、本当は嬉しかった。また明日の朝、あの声が聞けるなら、そしていつか原田の歌声が聞けるなら、と思うと、自然と足取りが軽くなった。

 同級生を見下す必要なんてなかった。ただ話せばよかっただけだった。そんなことを、入学して二カ月と二週間目で気づく俺は実に馬鹿だな、と一人苦笑した。

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大先生 六蟬 @Roku_Zemi

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