明日世界は終わるらしい。

凪星

第1話

 7月5日、日本は滅亡するらしい。


「え、なに、どした?」


「知らないの?いや、私もあんま知らないけど、明日、地球無くなるんだって。」


 帰り道、唐突にそんな話を振られた。温暖化の影響なのか、放課後も日差しがきつい。アスファルトを踏みしめながら5分ぶりにカバンを一通り漁り、改めて日傘を家に置いてきてしまったことを再確認する。額の汗を拭ったところで、汗拭きシートも置いてきたことに気づき、そういえば今朝の星座占いでも順位が低かったことを思い出して、思わず漏れ出そうになるため息を飲み込んだ。学校は2週間後に迫る期末テストに生徒全体が焦りに包まれていて、帰るときにちらりと覗いた自習室は、明らかに空気が張り詰めて、息がしづらそうだった。何かがのしかかるように前傾姿勢で机に齧り付いていたうちの1人は成績上位者で有名な同級生で、成績優秀な人ほど必死そうな様子は、なぜだか少し苛ついてしまう。

 さっきまで何の話をしていたか、あまりのインパクトで忘れてしまったが、それこそテストの話だったように思う。古文が覚えられないだとか、数学の問題集が終わらないだとか、そんな当たり前な話の日常の中の唐突な特異点に、とうとう熱中症になったかと心配が勝つ。


「体調大丈夫?」


「何その目、明らかに軽蔑されてる気がする。」


「てかさっき日本って言ってなかった?」


「あ、そうだ日本日本。」


 言い間違えちゃった、といいながら笑っている百瀬ももせを横目に、スクールバックを肩にかけ直す。百瀬はスクールバックを振り子に、こちらを覗き込んだかと思ったら、すぐに前を向いた。じゃらじゃら揺れるキーホルダーやぬいぐるみは全体的に蛍光色で目がちかちかする。昔からかばんにありったけのキーホルダーを引っ掛けていたのは知っていたが、最近はミニチュアのぬいぐるみをつけるのにもハマっているらしく、どこで見つけているのか尋ねたら、「クレーンゲームで弟が取ってくれるの。でも取るのだけ好きらしくて、景品は私にくれるんだ。どうせならイヤホンとか取ってきてほしいよね。」と言っていた。不満げに口を尖らせながらも愛おしそうな視線でぬいぐるみの頭を撫でているところを見ると、いうほど嫌がっていないのだと思う。少し先を歩く彼女の三歩後ろを歩く。遠くから聞こえる運動部の掛け声をBGMにして、横断歩道を渡りながら、機嫌良く話を繋いだ。


「よく聞く、『明日地球が滅ぶなら何する?』って質問、こんな真面目にする日がくると思ってなかった。」


「え、されるの?」


「する気しかない。」


 また規模が大きくなってる、とは言わなかった。百瀬にとって、そこはどうだっていいのだろう。


「で?天音あまねは何したいの?」


「そういうの、言い出しっぺからいうものじゃない?」


 そうだな、とわざとらしく頬に手を当てながら歩く速度を緩めた。あと一歩で横に並ぶ。


「めっちゃでっかいパフェ食べたい。あと遊園地貸し切り!あ、海外もいいね。ひたすら家こもってドラマ見まくるのも楽しそうかも。」


 声が空で弾ける。きらきらの瞳は、到底世界が終わるとは思っていないように見えた。言い淀む隙もなく言葉を紡ぐのは、あらかじめ答えを用意していたからなのか。で、天音は?あっけらかんとしたその声には、期待も興味もそこまで感じなかったけれど、先に答えを聞いてしまえば、答えない選択肢はないだろう。


「カラオケ行く。かな。」


「何それ地味。」


「人の最期にケチつけるなよ。」


 くふふ、と笑い声が降ってくる。駅に向かうまでの坂道はそこまで急ではないけれど、学校終わりの疲労とこの暑さでは足が堪える。しばらく音のない空間で、ただ坂を登った。両脇に見える住宅街の日陰に入りたくて、左斜め前に歩みを進めた。心の安らぎ程度にしか期待していなかったが、どうやら打ち水をしていたらしい。ほんのり漂う冷気が、私に息をさせる。公園行かない?と誘われた声に気付いたのも、冷気のおかげかもしれない。


「え、今?高校生にもなって公園で何するの?」


「あのブランコ乗れるのも今日が最後かもしれないんだよ?付き合ってよー。」


「そもそも信じてないし。絶対そんなわけないじゃん。」


「天音は夢とロマンがないねぇー。」


 そんなことを言いながら、さも当然のように公園に入っていく。なんだかんだで逆らえない百瀬の視線は、恐らく人を惹きつける何かを持っている。昔から決まりきっていたことのように、私は百瀬のわがままを聞き続けている気がする。仕方ない、と脳内で呟きながら、百瀬の後に続く。毎日見かけながらも一度も入ったことのなかった公園は、長い坂道の途中にある。閑静な住宅街に馴染むように、子供が遊んでいる様子を見たことはない。小さなブランコが二つと滑り台、名前はわからないけれど、幼い頃誰もが乗ったことがある、バネのようなもので前後に動く動物を模った遊具が二つ程。大袈裟なアスレチックは見当たらない。いわゆるマンション付属のような公園。近くには自販機があって、百瀬は何か飲み物を買いに自販機に近づいていた。公園の最奥に木陰とベンチがあったので、スクールバックを先に置き、スカートの裾を手でそわせながら腰掛ける。しばらくしてから戻った彼女の手には二つの飲み物があった。何も言わないままスクールバッグを自分に寄せる。問答無用で私にアイスココアを差し出した百瀬は横に座りながら炭酸水を開け、およそ半量を一気に飲み干して私に話しかける。


「別に私も、本気で信じてるわけじゃないけどさ、こんなにも多くの人が信じてるってことは、もしかしたらみんな望んでるのかな。」


 時々、百瀬はどこか本質をつくような話をしだす。そういう時、彼女は決まって遠くを眺め、見えないものに焦点を合わせている。


「さあね。現実逃避みたいなもんじゃない?」


 だから、私も適当に返す。百瀬がどこまで本気かは分からないけれど、本気で返すには、まだ私の心は羞恥に勝てなかった。答えのない問いを考えることがどこか寒いとされる風潮を良しとは思えなかったけれど、真っ向から反抗する気もさらさらない。納得したのか、そもそも答えなど望んでいないのか。曖昧に返事した後、そういえば、と続ける。


 地球は大きなシナリオに則ってるって先生も言ってた。

 誰が言ってたのそんなこと。

 科学の。吉村先生。

 うわ、そういうこと言いそう、あの人。


 もらったココアが手の中でぬるくなっていく。どうでもいい話を続けていると、いつのまにか空の色が変わっていた。夏は日が長いけれど、落ちていく速度はあっという間で、瞬く間が比喩として生まれたのは多分夏なんだろうと思う。かれこれ数時間の雑談を終え、じゃあ私帰らないと、立ち上がり、声を上げる前、不意に百瀬が呟く。


「なんで部活辞めたの。」


「え?」


 決して聞こえなかった訳ではない。あまりに唐突に、明日何する、くらいの気軽さで聞かれたそれは、一瞬思考を奪う。疑問符をつけたのにも関わらず、向こうは黙ったまま、こちらをじっと見つめてくる。視線が刺さる。彼女の視線に映る自分が揺らいだ気がして、目を逸らしてしまった。


「んー、なんとなく。」


 手の中で転がしていた缶を開封し、一口飲む。甘さが喉と脳を溶かしていく。

 多分彼女が求めていた返答ではない、と心のどこかで気付いてもなお、当時の心境を正しく映し出せる言葉を、私は「なんとなく」しか持ち合わせていない。自分に才能がないこともわかっていた。

 だから、辞めた、だけ。

 部活を辞めたのは去年の冬で、もちろん彼女もそれを知っている。今の今まで、話題に出されたことはなかった。気を遣われているのかとも思ったけれど、わざとらしく避けている様子もなく、それが心地よかった。


「私は天音が演技してるとこもっと見たかった。」


「何それ。今までそんな話してなかったのに。」


「最後の公演、台本必死に覚えてたじゃん。冬休みの間何度も部室行ってたのも、放課後に毎日練習してたのも知ってる。演劇部の他の子に聞いたけど、オーディションにも出なかったんでしょ。ねえなんで?」


 声が荒い。思わず彼女の方を向く。何かを噛み締めるように俯きながら、スカートの裾をきゅっと握りしめている。毎日アイロンがけをしているプリーツが綺麗な生地にシワがよる。珍しい。百瀬は普段、そんなに感情任せに話さない。いや、聞こえは悪いけれど、騒がしくはある。ただ、マイナス面の感情を前に押し出して話すことは、長年付き合ってきても見たことがない。悲しさと怒りと絶望を混ぜ合わせたような背中を呆然と眺める。


「本当に,理由なんてない。」


 これは本当。


「才能ないんだなって思ったのはあったけど、」


 半分嘘。


「今思えば、あの練習も無駄だったのかもね。」


 嘘。


「嘘つかないでよ、あの時の天音は、才能とか無駄とか、そんなこと言わなかったよ。ただまっすぐ直向きに努力して、自分の実力で戦ってたじゃん。」


「…努力が必ずしも報われる訳でもないでしょ。」


 オーディションの話は半分嘘だ。私は、確実にオーディション会場に向かった。第二音楽室前、扉に背を預け、一つ前の演者の演技を聞いていた。


 圧倒的だった。


 私の何日も重ねてきた練習を軽々と超える、なんの迷いもないセリフ運びと抑揚。いわゆる憑依型だろう、声だけだったのに、そこに確かにキャラクターが生きていた。敵わない。そこにいるだけが限界だった。震える足は、部屋に入ることを拒んだ。指先が冷たい、頭が熱い。セリフが抜け落ちていく。喉の奥の熱い塊がずっとつっかえたまま、私から呼吸を奪う。演者の最後の一呼吸が終わった途端、私は気付けば走っていた。そして改札にいた。毎日繰り返してきた動作を、また今日も反芻する。スクールバックの脇ポケットから定期を出し、青色の楕円形にかざす。エスカレーターに乗っている間に、ヘッドホンの電源を入れて,スマホと繋ぐ。台本を録音した音源をファイルから開き、何度も何度も聞いた。吐き気がした。涙が止まらなかった。私は報われなかった。私の前の演者は、秋から入ってきた、一年生の転校生だった。私の努力は、無駄になってしまった。喪失感と絶望で目眩が止まらなかった。そこからどう帰ったかは覚えていない。幸いなことに冬休み期間は部活の参加は任意だったこともあって、その日から冬休み明けまで学校には行かず、そのままなんとなく部活を辞めた。いまだに消化し切れてはいないけれど、前を向かないといけないと思っていたのに。こいつは。


「私には、ずっと苦しそうに見えるよ。」


「そんなこと」


「ねえ、どうせ明日終わるんだからさ、最後。一回だけ。まだ覚えてるでしょ。」


 何も言えない。忘れなければいけないとわかっているのに、いまだに取り残されているなんて、百瀬だけには知られたくなかった。


『君は、才能とはなんだと思う?』


「え、?」


 聞き覚えがある、なんて一言では片付けられない。あの日から毎日聞いてきた、最終公演第3幕、実際、オーディションで使った場面のセリフ。いつの間にかじっとこちらを見つめる黒翡翠は私を捉えて離さない。ため息をひとつつく。何故だか、乗ってみようと思ってしまった。やはり、彼女の目は危険だ。


『…才能?馬鹿らしい。考えたこともなければ、興味もないね。』


『どうしてだい。君は世間からあれほどまでに才能の原石と呼ばれていたじゃあないか。』


『人の努力を才能と一蹴する奴らの思考に興味が湧くと思うか?俺に才能はない。』


『私は、それさえも才能のように思うがね。』


『はあ。』


『努力という才は、他の何よりも秀でる。聞いたことはあるかい?』


『無いね。誰の言葉だ?』


『今俺が作った。』


 楽しい。けれど同時に、なんとも言えない苦しみからも逃れられない。

 一度逃げた者がそう簡単に足を踏み入れていい場所ではないと、心の中ではわかっているのに、言葉を紡ぐ口は壊れたダムのように、音は濁流のように、私の中から溢れて止まらない。


『随分とお気楽思考のようだね。実際、俺が負けたその空間に、あんたは居合わせたのに。努力はそう簡単に報われない。』


『それは単なる、』


 負け惜しみだ。努力不足を、才能がなかったなんて言葉で雑に片付けてはいけないよ。

 この後に続くセリフはわかっている。当時はその言葉を糧にして努力を続けていたし、今となっては1番聞きたくない言葉でもある。


「逃げなんじゃない?」


「…は?」


「自分自身の積み上げてきた努力に自信がなくなって逃げただけなんじゃないの?そんなの、ズルだよ。ずっと近くで見てきたから知ってる。ずっと練習に付き合ってきたから知ってる。間違いなく、努力を積み重ねてきてたことくらい。苦しくて辛くても、ずっとずっともがき続けながらも、やっぱり楽しそうで、目をきらきらさせながら頑張るその姿が私は大好きだった。自分の頑張りを、自分で否定しちゃダメだよ。無駄なんて言葉で終わらせないでよ。」


「……何それ。」


 彼女の搾り出すような、さながら独白のようなそれは、私を少しずつ蝕んでいく。


「もういいの。私がどれだけやっても、あの子には敵わないって、もうわかりきってたんだよ。割り切ろうとしてるのに、なんでそんなこと言うの。」


「……それでも、私は演じてほしかった。見ていたかった。報われないとしても、せめて、あの頑張りが誰かの目に留まってほしかった。」


「私は、そこまで感傷に浸れるほど、自分が頑張ったかどうかなんて、今わかんない。やれるだけのことはやった。それでもダメだった。悔しかった。どうしようもなかった。……それでも、もっと頑張ってたら、って思っちゃってる。でもそんなんじゃ苦しいままなの。敵わないって思い切らないと、ずっと前を向けないの。」


 あの日、目眩と吐き気が止まらない中、私の中で渦巻く一番大きな感情は悔しさだった。もっと頑張っていたら、もっと練習していたら、あの空間に飛び込めたかもしれない。自信を持って演じることができたかもしれない。けれど、私は逃げたから。もうどうやっても戻れないなら、割り切ってしまう方が楽だった。冬休みの間、毎日のように涙を流し抜け殻のようになっていた私は、そうでもしないと生きて行けそうになかった。

 手のひらに爪が刺さる。ささくれがぴりぴりと痛む。それでもなお強く握っていないと、自分が崩れそうだった。こんな話、する予定はなかったのに。


「それでもいいじゃん。」


 糸に引かれるように隣を向く。相変わらずこちらを見つめるその目に映る私は、揺れて歪んで、頬を流れた。


「明日がちゃんと来るかなんてわかんない。毎日そう。明日死ぬかもしれないし、今日地球が終わるかもしれないし、今何が起きるかだってわかんない。後悔しないで生きろ、なんて規模が大きい話じゃないし、無理に前を向く必要だってないと思う。たくさん後悔して、引きずって、別にいいじゃん。抱えたままでもいいじゃん。だから、頑張った自分を無駄なんて言わないでよ。どうしても辛いなら、私が無駄じゃなかったよって言うから。」


 思わず息を呑む。立ち止まっていてもいいなんて言われたとこは一度もなかった。淀みのない瞳は私を見つめ続ける。彼女は、あの頃から動けなかった私に、手を差し伸べてくれた。彼女が私を救おうなんて意図があったかどうかは分からないけれど、まっすぐな言葉は私の中に入り込んで、今まで負ってきた傷を治す訳でも抉る訳でもなく、ただ寄り添って、自然に治るのを待っている。すとん、となにかが落ちる音がして、胸にあったわだかまりがどこかに溶けていくような気がした。何も言えないまま、ただ彼女を見つめる。


 どれくらい経ったか、公園の街灯が灯る。いつの間にか空は闇の帷に包まれていて、目を凝らさないと、黒に溶けてしまっている周りの景色は見えなかった。空気が緩んだ感覚を感じ、なんとはなしに言葉を紡ぐ。


「台本、途中から違ったけど。」


「私が書いた台本なんだから、私が正解なの。それに、今の方が面白かったでしょ?」


「まあ、悪くはなかったんじゃない。」


「素直じゃないんだから。」


 くふふ、と笑う彼女の目元は、もう潤んではいなかった。スクールバックを肩にかけ直し、反動をつけて立ち上がる。


「はーあ。疲れた。コンビニ寄って帰ろ。全財産使うくらいスイーツ買い込みたい。」


「地球最後の日にコンビニスイーツ爆食い?やっぱ地味ー。」


「エンドレスドラマよりはマシ。」


「絶対そんなことないって。」


「……ねえ、百瀬。」


 いつの間にか横に並んでいた彼女より、一歩前を歩く。長い坂道はまだ続く。不思議と足取りは軽い。息がしやすい。


「ありがとね。」


顔は見られなかった。後ろの気配が一瞬立ち止まる。そして、歩き出す。


「……うん。」


しばらく無言で坂を登り続けたけれど、その静寂は心地よかった。改札に着く。百瀬と別れる。


「じゃあ、またいつか。」


「うん、また会えたらね。」


スクールバックの脇ポケットから定期を出し、青色の楕円形にかざす。エスカレーターに乗っている間に、ヘッドホンの電源を入れて,スマホと繋ぐ、気にはならなかった。背をドアの端に預け、広いガラスから見える黒を呆然と眺める。もしかすると、これで最後。そう考えたら、見慣れた風景さえ愛せるような気がした。




 次の日、私はスマホのアラームの2分前に目を覚ました。後から鳴らないように、アラームごとリセットをかけて、布団に投げる。カーテンから薄く溢れる光に眉間を寄せて、スマホを開き、見慣れたメッセージアプリをタップ、青くピンが止まったMomose の文字にメッセージを飛ばす。


「世界、終わった。」


 確かに世界は終わった。私が持っていた小さな世界は、確実に昨日に置いてきた。


 数分と待たず、スマホが二回シーツを揺らす。


「wwwww」


「じゃ、今日からまた始めよ。」

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明日世界は終わるらしい。 凪星 @Nagi-Nico

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