死体に愛を囁いている。
別槻やよい
死体に愛を囁いている。
――音無ナツミは遺骨を持ち歩いている。
そんな噂が同級生の間に流れたのは、彼女が大学に入学してすぐの夏だった。
それが一体誰の遺骨なのか、はたして本当に遺骨なのか、そもそも誰がそんな事を言い出したのかは定かではない。ただ確かなのは、彼女が常に身につけているロケットペンダントから、何かが転がっているような音がする事だけ。
見目麗しく控えめで、授業も真剣に受けている優等生。そんな高嶺の花に不可思議な点があるというのは、新しい環境に慣れつつある新入生達にとって、十分魅力的な話の種だった。
都会の緑化運動に触発された校内は過剰とも思える緑が青々と茂り、緑のカーテンに瑞々しいゴーヤが実っている。食堂に置かれた植木鉢も数が多く、正直少しだけ減らしてその分テーブルを置いてほしいという希望が学生たちから上がっていた。
お昼の席取り合戦を制したナツミと友人たちは、それぞれ注文してきたご飯を机に並べる。
「ね、ナツミ。結局あの噂、どうなの?」
「噂って?」
「えぇ、ちょっと、今?ご飯中に聞きたい話題じゃなくない?ナツミちゃんだって話したくない事かもしれないし。」
「でもこういうとき以外に時間取れないじゃん。」
いただきます、と本日のおすすめ定食に口をつけようとしていたナツミはきょとんとした顔で友人の一人、チカを見る。その視線にバツが悪そうなチカは、もう一人の友人であるカレンに目配せをした。
「私、噂になるようなことしたっけ。授業初日から遅刻してきた田島君のほうがよっぽど注目を集めてたと思うけど……。」
「あぁ、あれは確かに。未だに教授にいじられててちょい可哀そうだよねぇ。」
「もう、話をそらさないでよ。ナツミの噂って言ったら、そのいつも着けてるペンダント以外ないじゃん。」
「これ?……あぁ、もしかして、中身が気になっちゃった?歩く時、音がするもんね。」
友人に指をさされ、ナツミは胸元に下げているロケットペンダントを持ち上げた。そのロケットの中で何か軽い小石のようなものが転がるような、カラカラという音にどよめきが走る。
驚いた顔、好奇心を抑えきれない顔。いつの日にか見た覚えのある表情に、ナツミは少しからかいたい気持ちが生まれた。――もう少しもったいぶるべきかな?とも考えたが、今後ずっといじられキャラとして定着するのは自分の性格的に少々やりづらいものがある。
それならばと、ナツミは友人たちや周囲の不躾な視線を涼しい顔で受け止めながら、事も無げにロケットを開いて見せた。
「きゃあ!……あれ?これってもしかして、珊瑚?」
「そう、枝珊瑚。高校の時、修学旅行で行った沖縄の浜辺で拾ったんだ。小さくて白くて可愛いでしょ?」
くすくすと笑うナツミに、友人たちは安堵のため息をついた。周りで聞き耳を立てていた他の生徒もすぐ様興味を失って、何も聞いてませんとでも言いたげに別の話題で盛り上がる。
触ってみる?というナツミの言葉に、恐るおそるといった様子でチカは珊瑚を指先でつついた。
「なあんだ……ただの珊瑚か。じゃあ『ナツミのペンダントには遺骨が入っている』ってのは、噂を流した奴の見間違いってことね。」
「えぇ、遺骨?そんな物騒なもの持ってくるわけないじゃん。」
「あはは、だよねぇ。そんなことだろうと思ってた。」
安心したように笑う友人達に、ナツミは珊瑚をペンダントに仕舞いながら、ふと思いついたように囁いた。
「……なんて、ね?」
「んぐぇっ!?」
「あ、あぁ〜!チカちゃんのラーメン、結構伸びてない?」
「やば!いただきまーす!」
渡りに船といったところか。カレンの助け舟に乗っかるように、ナツミの言葉に顔色を悪くしたチカは具の少ないラーメンを啜り始めた。それはもう大袈裟に、必死の形相であり、カレンはあんまり虐めないであげてよ、と笑っていた。
ナツミはその様子に堪えきれないと言ったように笑みを浮かべながら、再びお箸を動かし始めるのだった。
***
高校三年生の冬の日。
同級生たちは大学受験を控え、空気が重くピリピリとしていた教室。中には推薦入試を終えて、そのプレッシャーから一足先に抜け出している子もいたけれど、周りの空気に耐えかねて席を外しているのが殆どだった。
ナツミは一般入試組なので、その日も大人しく席に着き、机の上に小難しい参考書を広げていた。いつもこの位の時間には親友のアカリが机にやってきて雑談を始めるのだが、今日はそれが無いためやめ時を見失っている。
クラスメイトの話に耳を傾けると、どうやら夜明け頃から降り始めた雪の影響で交通機関が麻痺しているらしく、電車通学の生徒が遅れているらしい。アカリも電車で来ているため、きっと息を切らせて教室に飛び込んでくるだろうなと窓を見やった。
「今日は皆さんに、大事なお知らせがあります。」
普段より遅く始まったホームルームの時間。担任の先生が教室に入ってくるなり、そう切り出したのをよく覚えている。
いつも穏やかな微笑をたたえていた口元は元気がなさそうに萎れ、手に持ったプリントも窮屈そうにしていた。
――室戸アカリさんが、昨晩交通事故でお亡くなりになりました。お通夜、告別式については今から配るプリントに場所と時間を纏めてあります。時期もありますし、強制ではありません。
冷静であろうとしているのがわかる、淡々とした調子で紡がれる担任の先生の言葉が教室に広がり、ナツミの口から思わず「えっ。」と小さく声が出た。
声に反応したのであろう、教室中の視線が集まるのを感じる。気遣わしげなものから、好奇心によるものまで、全ての意識がナツミに突き刺さっていた。
それもそのはず。クラス中の全員が、ナツミとアカリがいかに仲が良かったかを知っていたのだから。
葬儀場となっているお寺には、ナツミが思っていたよりもずっと沢山の人が参列していた。
アカリの母親はハンカチで顔を覆って、声を出さずに震えていた。初めて見かけた彼女の親族はそんな子を失った母親を労り、沈痛な面持ちを浮かべている。
参加する余裕のあった同級生たちが長いお経にソワソワと体を揺らしている中、ナツミはただ呆然と祭壇の前に置かれた棺の箱を眺めていた。いつも隣にいたアカリが自分のそばにおらず、白い箱の中で静かに横たわっている。そんな現実が信じられなくて、でもアカリの姿はどこにもない。一体どちらが現実なのか、親友が本当に死んでしまったのか分からないまま、式は進み続けた。
読経、焼香と続き、とうとう棺に花を入れる順番が回ってきた。
渡された百合の花を手に、ナツミはアカリの横たわる棺に近づく。部屋の奥でこちらを見下ろす極楽浄土の写し身が、金色の光を視界に焼き付けてくる。
――ナツミ、久し振り!びっくりした?
悪戯に成功した時の、こちらを揶揄うように微笑むアカリの声が聞こえた気がした。
数日振りに目にしたアカリは化粧のお陰か血色もよく、本当に眠っているだけのように見える。交通事故にあったとは思えないほど綺麗に整えられた彼女の周りには、好きだといっていたお菓子や読んでいたらしい小説、見覚えのあるお気に入りの洋服などが一緒に花の海に揺蕩っていた。
ナツミは一輪の花をアカリの顔の横に添える。そのまま彼女は、いけないことだとはわかっていながら、そぅっと眠るアカリの頬に手の甲を当てた。
密かにずっと触れてみたいと思っていたそれは、何のぬくもりも感じない空虚な冷たさを返してくる。ナツミはその冷たさが血管を伝わるように腕を登り、心臓に棘を刺したように感じた。
「……アカリ。」
胸の痛みに息が詰まる中、その言葉だけがナツミの口から零れ落ちた。ダムが決壊したように溢れる悲しみで視界が歪み、空気が吸えずに引きつった声が漏れる。
後ろにまだ花入れの順番を待っている人がいることもわかっていたため、ナツミは壁にぶつかるようにして場所を譲ると、場の空気を崩さないために会場を後にした。心配して付いてきてくれたクラスメイトも、ナツミの涙に触れて堪え切れなくなったのか鼻を啜って俯いていた。
塩と砂糖を間違えちゃった、と頭をかいていたアカリ。
将来は料理研究家になるんだ、と言って胸を張ったアカリ。
違う大学に進むことになったけどずっと大親友だよ、とナツミの手を握って、真剣な顔をしていたアカリ。
ずっと一緒にいた親友の姿が脳裏に浮かんでは消え、その度に溢れる涙がまるで体から記憶が零れ落ちてしまっているようで、ナツミは必死に瞼を両手で押さえた。
嫌だ、いやだと頭を振って、アカリの手の温もりを思い出そうとする。しかし記憶から返ってくるのは、頬から感じた冷たさだけだった。
***
ポキり、とシャーペンの芯が砕ける音に、ナツミはふと我に返る。
ペン先から飛び出した炭素の固まりは机の上から姿を消し、課題用のノートに細かい汚れだけを残していった。数秒机の上をさ迷った視線は折れた芯を探すことを諦め、ナツミは肺に押しとどめていた空気をゆっくりと吐き出す。これでまた床掃除のときに黒い汚れがフローリングの上に伸びるかもしれないことを思うと少し憂鬱な気分になった。
大学に入学してから一人暮らしをしている、四階建ての学生寮の一室。最上階の一番奥に位置するナツミの部屋は、隣に誰も住んでいないことから、夜はまるでこの部屋だけ切り取られてしまったかのように静かになる。
備え付けの家具以外に殆ど私物が増えていない簡素な部屋で、ナツミは切れてしまった集中力を諦め、両手を天井に向けて大きく伸びをした。服がそれに引っ張られて皺を作り、胸元のペンダントが軽い音を立てて存在を主張する。彼女はおもむろにペンダントを開くと、その中に入っている珊瑚を指で摘んだ。
「遺骨、か。」
言い得て妙だ、とナツミは頬を緩めた。
火葬は親族のみで行われたため、アカリの遺骨を目にしたことは無かった。彼女の遺品と言えるものは、この小さな珊瑚だけ。
それは修学旅行で、この世で一番大切な親友と拾った宝物。浜辺に流れ着いた海の亡骸。白くて細い枝珊瑚は、目を細めて見れば人間の骨に見えないこともない。
遠い思い出の中に佇む少女の姿を瞼の裏に描きながら、ナツミはそっと珊瑚を握りしめた。
「アカリ、大好きだよ。」
返事はもちろん聞こえない。水の中にいる人に水上から話しかけるように、アカリにナツミの声は届かないのだ。
――しかしナツミは、むしろその方がいいのではないかと思い始めていた。
返事がないということは、肯定がない代わりに、否定もないということ。ずっと言葉に出来なかったアカリへの親愛の情を口にしても、彼女に何と返されるのか怯えずにすむということだ。
アカリは思いを口にするのが得意な方で、いつもナツミに「大好きだよ!」と笑いかけてくれた。私たち、大親友だもんねと満面の笑みをこちらに向けられた時は、気恥ずかしくて言葉が出ず、ナツミはただただ頷くだけだった。
友情のような、恋情のような、それ以上の愛情のような言葉にしづらいこの思い。それがはたしてアカリの言う「大好き」と同じものなのか自信が持てなくて、彼女が生きているうちにどうしても返事ができなかった事への後悔。
アカリに声が届かなくなって、ナツミはようやくそれを口にした。
「……ずっとそばにいて。ずっとずっと、私と一緒にいて。」
ぽつり、ぽつりと言葉を零す度に、胸につかえていた棘が抜けるように心が軽くなっていく。
本当は、アカリと同じ大学に通いたかった。同じ授業を受けて、同じゼミに入って、同じ就職先を目指して……。この先ずっと、こちらに笑顔を向けていて欲しかった。
それは叶うことの無い願い。例え大親友だとしても、この先一生側にい続けたいという願いは、他でもないナツミ自身が「重くて気持ちが悪い」、「嫌われてしまうかも」と否定したものだった。
しかし今、記憶の中でずっとこちらに微笑んでくれるアカリの存在によって、ナツミの願いは皮肉なことに叶えられていた。
――返事は欲しくない。ただこの思いを、何も言わずに受け止めていて欲しい。
ナツミは珊瑚を包んだ手を胸に押し当て、肺に溜まった空気をゆっくりと吐き出した。
(そうすれば私は、思い出の中のあなたを、永遠に愛し続けていられるもの。)
水中にいるのははたしてアカリなのか、それとも自分自身なのか、ナツミにはもうわからない。
それでも彼女は、この思いを愛しい相手に向けて囁き続けるのだった。
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作品を読んでいただき、ありがとうございます。
誰にも聞かれたくないし、ましてやそれが話題の相手の耳に入るかもなんて考えたくもない。墓場まで持って行こうと胸の内に仕舞い込んだ言葉。それがもし、絶対相手に聞かれない状況になってしまったとしたら?というお話でした。
ナツミは現在大学一年生、つまり、親友のアカリを失ってからまだ一年も経っていません。彼女はアカリの死を受け、志望校を変更しました。そう、アカリと同じ様に、料理研究家になるという夢を追うためです。
ずっと一緒にいた親友と、これからもずっと一緒にいるために。
失う前に言っておけばよかったと後悔する事と同じくらい、失った今だからこそ言える言葉もある。それもまた、一種の救いなのかもしれません。
死体に愛を囁いている。 別槻やよい @Yayoi_Wakatuki
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