大馬鹿者へ告ぐ

時津橋士

大馬鹿者へ告ぐ

 おい、聞いているか、大馬鹿者。私はお前という大馬鹿者がいたばかりに片道六千円もする次元切符を買う羽目はめになったのだ。六千円だぞ。とんだ出費だ。

 いいか、お前は今、お前が過去において幾度も正解してきたマルバツ問題に初めての不正解を叩きだそうとしているのだ。きっと今のお前にはこれがどれだけ罪深いことなのか、考えることすらできないだろう。お前は今、単に間違おうとしているのではない。答えを知っていながら、わざと間違えようとしているのだ。みっともないぞ、コラ。もちろん、今のお前にとって正解は苦悩と羞恥しゅうちの道で、不正解は安寧あんねい歓喜かんきの道なのかもしれない。しかし、そんな価値観は面白い程急激に転換されるのだ。信じられないって? 仕方ない。お前がどうしてもそのかたくなな意志を曲げないというなら、私にだって考えがある。

 私は今日、六時に起きたのだ。今のお前のように午後六時に起きたのではない、午前六時だ。歯を磨いて、リビングに立ち、朝刊を読みながら珈琲をれるのだ。エチオピア産の高級な豆を購入してきて、それをいたのだ。信じられまい? トーストにマーマレードを塗って食べる。有機栽培のオレンジを使ったマーマレードだぞ? 信じられまい? さあ、それから出勤する。仕事の時間だ。おい、勘違いするな。今のお前が想像できるようなちんけな範囲内に含まれる仕事じゃない。今のお前が想像できないような仕事だ。そう、例えばだ。今のお前は人類でも有数の不幸を想像する能力に長けている。恐ろしい程、な。その想像力で考えられる最悪の仕事を想像してみろ。ちょうどそれを反転させたような仕事を私はしているのだ。仕事は何ひとつ不快なことなく、頼もしい仲間と共に行われるのだ。それを終えて、私は帰宅する。気がつくともう夜のとばりが下りて、電車で三つ先の繁華街では泥酔サラリーマンが栽培されている時間だ。私は良い仕事の余韻よいんひたりながら、仕事先で貰ってきた六歳児の拳みたいな稲荷寿司を食べた。おい、聞いているか、大馬鹿者。これから入眠までの間、仕事の続きでもしようかと考えていた時、私のエレクトロ・ウォッチが狂ったかのように振動し始めたのだ。お前の所為せいだ、大馬鹿者。これからオオタニさんに貰った大吟醸だいぎんじょうで一杯やろうとしていたんだぞ、コラ。そして私は一ナノ秒の移動時間に六千円を費やしたのだ。

 さあ、そろそろディテールが分かってきただろう。もっとも、まだお前にまともな思考回路が残っていればの話だが。

 お前は今、自分がことごとく、人生の分岐ぶんきを誤ったとなげいているだろう。自分だけが世界の役立たずだと思い込んでいるだろう。まともになりきれなかった自分を恨んでいるだろう。毎日総菜パンで空腹の不快を紛らわせているから、そうなるのだ。毎日液糖たっぷりのジュースを飲んでいるから、そうなるのだ。あまねく拡散させる慈悲じひを自分にだけ向けられぬから、そうなるのだ。きっと、誰もが断言してくれぬだろうから、私が言ってやる。お前はことごとく、正解の分岐を歩いているのだ。お前はお前自身が信じられぬくらい、人々の役に立つのだ。世界はお前自身が定義する真の正気を含んでいるのだ。お前は何も間違っていない。ただひとつ、今から間違えようとしているだけなのだ。これまでの連続正解記録をそんな馬鹿げた方法で台無しにするな。さもなくばお前は香り高いエチオピアの高級珈琲豆も、有機栽培のマーマレードも、最新のエレクトロ・ウォッチも、世界に貢献こうけんする誇り高い仕事も、皆、失うのだ。

 多分、お前は私の声すら、幻聴だと信じて疑わないだろう。今のお前にとって幻聴が真実の声で真実の声が幻聴なのだ。お前の思考は何もかも、正反対なのだ。概念的にはタロットの吊られた男なのだ。しかし、お前にとっての幻聴をもう少しだけ聞け、大馬鹿者。朝方になると向かいの部屋に住んでいる住人が発狂したかのように叫ぶアパートに住み、最低限のスペックの白いパソコンに、ころさんのステッカーを貼り、昼夜逆転した暮らしをして、両親を嘆かせながら生活し、スマホショップで押し切られるままにインターネットの契約を変更し、生活のためと言って面白くもなんともない仕事に精神をすり減らし、まるでこの世を生きている甲斐かいのない逆エデンと定義する大馬鹿者のお前。聞け。今にそんな世界から、お前は解放される。世界が変わるのではない。お前が変わるのでもない。概念が丸ごとひっくり返るような転換期が、今のお前に訪れようとしているのだ。

 きっと、どれだけ私が言葉を投げかけようと、馬鹿なお前は聞く耳をもつまい。ならば最終手段だ。本当ならこんな阿呆あほうな台詞は言いたくない。誰かに聞かれでもしたら、私は前科六犯の人身売買組織のリーダーよりも酷い目に遭わされる。でも、言うのだ。お前が間違った分岐に進まないために。いいか。

 お前なら、大丈夫だ。愚かにも自分を役立たずと認めているお前は、もう既に持っている。お前の望む全てを。機が熟し、間違いなくお前は言うだろう。“生きていてよかった”と。お前が優れているのは、困難を乗り越えたからではない。苦悩を忍従したからでもない。才能があるからでも、努力をしたからでもない。お前が、お前という存在を継続させたからだ。

 もう充分だろう。結局は、お前が選ぶのだ。分かり切っているマルバツ問題をこれから解きに行け。お前がどんな選択をしようとも、私だけは、お前を責められない。ただ、心配なのだ。お前の履歴を、誰よりも知っているから。

 さあ、行け。偉大な大馬鹿者。

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