遅すぎた人

宵月乃 雪白

夢の狭間

 もう、何もかもどうでもいい。

 人からの期待も信頼も見られ方も、どうでもいい。

 息が白いのかな? さっきから視界が霞んで仕方ない。

 何か頬に伝った? 頬に触れた指は皮が剥け、ボロボロで湿っている。

 この湿りは雨だ、雨に違いない。

 さっきから、ずっと降ってる。

 空は沢山の灰色の雲に覆われてるから、暫くは止まないだろうな。

 大きく鳴り響くクラクションも街のざわめきも今は気にならない。

 一歩一歩と階段を登るたび、足に何かが刺さってる気がする。

 重たい足を半ば引きずるようにして登った歩道橋は故郷の田舎と全く同じだ。だけど、景色は全く違う。

 ネオンも交通量も明るさも汚さも、こっちの方が目立つ。だけど、それだけだ。

 人の本質は何も変わらない。

 田舎が嫌で都会に来たのに、都会も田舎もどっちも大差ないな。

「フフッ」

 なんで、こんな所に来たんだろう? 『変われる』と思ったんだろうな。

 地味で冴えないけど、努力だけは人並み以上に出来たから、心機一転で都会に来たのに全然駄目だった。

 毎日、毎日、アホみたいに混んでる、ぎゅうぎゅうの電車で通勤して、人の様子を伺いながら働いて。

 結局、何がしたかったのかも此処に来た理由も、ついさっきまで忘れちゃってて。

 錆びかけた歩道橋。銀色の手すりに触れても温度さえ感じとることができない。だけど、冷たい気がする。

「あの!」

 意思とは反対に、体が勝手に声のする方に向いた。

 青みがかった制服のような、スーツのような服を着た童顔の人は、夢の中の人に似ている気がするが、その人は夢の中の住人のはずだから違う。

「死ぬんですか?」

 思考が止まった。死ぬ? 自分が?

「分からない……」

 呼吸が楽になった気がした。ただ純粋に一日を楽しんでいた昔に吸った空気。もしかしたら、死にたいのかもしれない。

 車の音より雨の叫び声が大きくなって心地よい。

 汚れた地面に弾けた雨粒は、いつの間にか大きな水たまりになって、裸足だった自分の足を包み込んでいた。

「死ぬのもいいか」

 銀色の手すりに足をかけ、クリーム色の錆びかけた歩道橋の鉄骨の上は、とても冷たい。

 でも、不快ではない。むしろ、心地よい。

「あなたを必要とする人はきっと居ます! 僕が、僕があなたを必要とするからッ。だから……」

 見ず知らずの人に、そんな無責任な言葉を投げかけるなんて、馬鹿なのかもしれないが、悪い気はしない。

「貴方みたいな人ともっと早くに出逢いたかった」

 泣いてる自分を慰めてくれた、何度も夢に出てきた優しい人。

「なら!」

 目の前の幼い顔が、身につけている服のように段々と青ざめていく。

 そりゃそうか。今から目の前で人が死ぬのだから。

「ありがとう。貴方みたいな人と最期に会えるなんて幸せだね」

 軽くなった体が、フワリと羽の生えた天使のように宙に舞う。

 夢の中の想い人が、同じ世界で生きていたなんて夢みたい。

 横目で見た想い人さんは涙を流していた。もしかしたら雨かもしれないけど、涙だと思い込もう。

 想い人さん、ごめんなさい。

 どうか、貴方の生きる世界が美しいものでありますように。

 もうずいぶんと見ていなかった月が、涙のように降り続く雨が集まった、悲しみの塊の中で死を祝福するよう金色こんじきに輝いていた。

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遅すぎた人 宵月乃 雪白 @061

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