重い夜を駆け抜けよ、王子と道化師の愛

なつのあゆみ

第1話

 ユリストルは三番目の王子だ。

 世継ぎは長兄に決まり、次兄は軍を預かる。

 彼に与えられたのは閑職――といっても、外交の名目で各国の宴会に顔を出し、笑顔を貼りつけて礼を尽くす役目だ。

 真面目な性分だから、彼はそれをきっちりと務めていた。


 その夜、王国の広間で開かれた祝宴。

 燭台の光が金の髪を照らし、碧眼の王子は無表情に杯を持つ。

 退屈な挨拶、決まりきった社交。

 そのとき、音楽が変わった。


 人々の視線を奪ったのは、一人の道化師だった。

 仮面もなく、細身の体に揺れる色布。

 笑うでもなく泣くでもない儚げな瞳で、彼は舞台を駆け、踊った。

 リズムに体を思いっきりぶつけるように激しく、時に体をのけぞらせて妖艶に、微笑みながら飛び跳ねて。


 レイモ道化師のダンスはやはり美しい、人々はうっとりと囁き合う。厳格な女王さえ微笑む。


 レイモ――そう呼ばれた青年の舞は、美しすぎて痛かった。

 漆黒の中に光を散りばめたような大きな瞳、細い鼻筋。その顔にあるのは自らの美を誇る、堂々とした面差し。


 ユリストルは胸を突かれる。

 それは、うつろい生きる彼には鮮烈だった。


 初めてだった。理性も肩書も超えて、一人の人間として心を奪われた。


「王子殿下。視線が熱いですね」

 

 舞を終えたレイモは、杯を差し出すユリストルの前で、挑発するように微笑んだ。


「……君は」

 

「道化師ですよ。ただの、宴を飾る余興」


 赤い唇が近づく。からかうような声色。

 自信家の彼には自分の卑屈さが見抜かれたような恥ずかしさもあった。

 

 弄ばれているのだと分かっても、ユリストルは抗えなかった。


 彼の心臓は、確かに動かされた。

 色気と虚ろな笑み。その裏にある孤独を、見抜いた気がした。



 翌日の昼下がり、ユリストルは庭園で一人、文を読んでいた。

 風に揺れる白薔薇の陰から、ひょいと顔を出したのはあの道化師だった。


「まあ、真面目なお方。宴の翌日までお勉強ですか」


 レイモは芝生に寝転がり、ひざを枕にしていいかと目で尋ねてくる。

 王子の膝に道化師。無礼を咎めるべきだった。

 だがユリストルは、文を閉じるしかなかった。


「……君は自由すぎる」

 

「そう? 王子は堅すぎるんですよ」


 レイモは笑う。指先でユリストルの金髪をつまみ、さらさらと流してみせた。

 碧眼の王子は視線を逸らせない。

 弄ばれていると分かっていながら、その無邪気さに抗う力が抜けていく。


「昨日の視線、熱かったですね。あれは恋というやつですか?」

 

「……人をからかうものではない」

 

「からかってなどいません。ただ、王子がどんな顔をするのか見てみたかっただけ」


 レイモの瞳は、底が見えなかった。

 戯れのようでいて、自信で光っているのに、語尾に小さな寂しさが聞こえる。

 ユリストルは思わず、彼の手を取っていた。


「もし恋なら、どうする?」

 

「……道化は恋をしない。観客の心を弄ぶのが役目ですから」


 レイモはふっと笑い、手をほどいた。

 その背中が去っていく。

 残されたユリストルの胸には、熱と痛みが混ざっていた。


  数日後の夜会。

 ユリストルは壁際に立ち、政務官たちの話にうなずいていた。

 その視線の先、舞台に立つレイモは、別の誰かに微笑んでいた。


 長身の貴族の青年。その肩に手をかけ、わざとらしく囁き、笑う。

 唇が耳に近づくたび、貴族は赤くなり、会場がざわめいた。

 レイモはの他の男に触りながら、ユリストルを見つめて笑っている。なぜそんなことをするのだ、と胸がきしむ。


「……君は、なぜあんなことを」

 

 終宴後、人気のない回廊で問い詰めると、レイモは肩をすくめた。


「嫉妬してくれるかと思って」

「……っ」

「ほら、王子の顔、今も真剣そのもの。おもしろいなあ」


 レイモは近づいて、王子の胸元に手を置いた。

 柔らかな指が、衣の金糸をなぞる。


「試してるんですよ。本当に、僕に心を寄せるのか、それとも退屈しのぎか」


 その声は、軽い調子の奥に震えを隠していた。

 ユリストルはそのことに気づいた。


「……君が誰に笑おうと、私は構わない。

 だが、心まで嘘で覆うのなら、それは許せない」


 碧眼が真っ直ぐに見つめる。

 レイモは一瞬、言葉を失い、そして笑った。


「真面目ですね、王子。だから余計に――試したくなる」


 レイモはひるがえる布のように去っていく。

 残されたユリストルの心臓は、燃えるように熱かった。


 ユリストルの周囲はざわめいていた。

 舞踏会の後、貴族や大臣たちが口をそろえて言う。


「ユリストル王子、女王にもっと近づいていただかないと」

「あなたを婿養子に推薦した私たちの立場も考えてください」


 外交官はしつこい。


 女王は、冷徹だった。

 「余は結婚をせぬ」と一言。

 誰がどれだけ言葉を尽くそうとも、頑なに拒絶した。


 それでもユリストルに求められる役割は変わらない。

 婿候補として女王に迫れ、と。

 夜ごと心が削られ、眠れぬ日が続いた。


 ある夜、彼はふと城の庭園を歩いた。

 月明かりの下、噴水の影にうずくまる人影を見つける。

 道化師――レイモだった。


 肩は震え、指で顔を覆っていた。

 普段の挑発的な笑みはなく、ただ静かに泣いていた。


「……レイモ」

 

 ユリストルが声をかけると、彼はかすかに首を振った。


「見ないでください。道化師の僕は、誰も愛せない……ただのなぐさみものです」


 声が月に溶けるようにかすれていた。

 やがて、途切れ途切れの言葉が続く。


「かつて……愛した人がいました。騎士でした。誓い合ったんです、どんな戦でも共に生き抜こうと。

 けれど、裏切られました。彼は女王に仕え、僕を切り捨てた。

 ……道化に恋をするなんて、愚かだと」


 レイモの涙が白い指から、涙がこぼれ落ちる。

 ユリストルはその隣に膝をつき、彼の手を取った。冷たい手を温めるようにしっかりと握りしめる。


「……私は君を愚かだと思わない」

「どうせ、慰めでしょう」

「違う。私は、君を愛した」


 その言葉に、レイモは息を呑む。

 月明かりの下、青い瞳がまっすぐに自分を見つめていた。

 虚飾も打算もない、ただ一人の人間として。レイモは、ユリストルに素肌のすべてを見せてしまいたい。


 レイモの心に、初めて恐怖とは違う熱が芽生えた。

 それは、再び信じてしまいそうになる、危うい希望だった確かに萌芽した。


 月明かりが噴水の水面に揺れ、影をゆらめかせていた。

 レイモの大きな黒い瞳は、震えていた。


「信じたい……でも、また裏切られるのが怖い」

 

 言葉と同時に、涙がこぼれ落ちる。頬を濡らし、止まらない。


 ユリストルはその姿を黙って見つめ、そっと腕を伸ばした。

 細い肩を抱き寄せる。


「……大丈夫だ。私は君を捨てない」


 その声は硬くもなく、甘くもなく、ただ誠実に響いた。

 レイモは抵抗しなかった。

 すんなりと体をゆだね、胸に身を寄せた。


 レイモの胸の奥に溜まっていた孤独が、少しずつほどけていく。


「……こんなふうに誰かに抱かれるの、久しぶりだ」


 レイモは甘さに耽ってつぶやく。

 

「なら、忘れるな。君はもう一人じゃない」


 ユリストルが言った。

 涙に濡れたレイモの瞳の奥に、かすかな光が芽生えていた。


 導かれるまま、愛されるがままに。

 レイモはユリストルを見つめて、頬を緩ませる。


「バカな王子様、道化師に恋をするなんて」


 レイモは笑って言う。


「バカでいいんだ、その方が人生はたのしい。俺に真面目をやめさせてよ、かわいい道化師」


 ユリストルが、レイモのに額にキスをした。可愛い、と言われて、見た目の美辞麗句に慣れているのに照れてしまう。

 ユリストルの言葉、触れる手、すべてがレイモに温度をくれる。


 レイモは自室にユリストルを連れていく。


 レイモの部屋は狭かった。

 豪奢な広間の光とは正反対の、ほとんど飾り気のない小部屋。

 古い鏡台と、舞台衣装を掛けた木の棒。

 寝台には使い込まれた毛布が一枚だけ。


 そこに、レイモはユリストルを招き入れた。


「ここが……僕の全部」

 

 そう言って、彼は仮面のような笑みをやめた。

 飾りも虚勢もない、裸の心を見せるように。


 ユリストルが傍に立つと、レイモはすがるように胸に顔を押しつけた。

 黒い瞳が濡れて、震えていた。


「……一生、愛してくれないといやだ」


 その声は切実で、子どものように弱かった。

 ユリストルは迷わず抱きしめ返す。


「約束する。生涯、君を離さない」


 狭い部屋で交わされたその言葉は、どんな誓約書よりも強い絆になった。

 


 ――翌朝。

 大広間では、また同じ声が響いていた。


「王子、女王陛下に迫るのです!」

「婿となれば、国の安泰は揺るがぬ!」


 顔を紅潮させた老臣らが口々に迫る。

 しかしユリストルは、毅然とした声で言い切った。


「私は結婚しない。女王にも、誰にも」


 ざわめきが広がる。

 彼は続けた。


「私の愛する者は、すでにいる。その人を裏切ることは、決してない


 碧眼の王子、ユリストルはまっすぐに立ち、誰よりも凛としていた。

 その言葉を、城の奥で聞いた道化師の胸は熱く震え、熱い涙をこぼさせた。


 深夜の城は静まり返っていた。

 灯火が落ちた回廊を、二人は影のように駆け抜ける。

 背後に残すのは金と権力の重圧。

 手にしたのはただ、お互いの掌の温もりだった。


 ユリストルは王子の装飾品をすべて売り払った。

 金の指輪も、宝石の首飾りも、過去を縛る鎖にしか思えなかった。

 代わりに手にしたのは一つのギター。

 荒削りな木肌に、彼の新しい人生の音色が眠っていた。


「王子が楽器を抱えてるなんて……似合わないけど、好き」

 

 レイモはからかうように笑い、街角で軽やかに踊った。

 黒い瞳が夜明けの光を映す。


 ユリストルは指を弦に走らせた。

 不器用でも真っ直ぐな音が広場に響く。

 レイモの舞と混ざり合い、道行く人々が立ち止まる。


 硬い鎧を脱ぎ捨てたように、ユリストルは笑った。

 レイモもまた、初めて誰にも隠さずに笑った。


 その日暮らしの旅人。

 明日の寝床も、食べるものも、分からない。

 けれど、隣には愛がある。


「ねえ、ユリストル」

「なんだ?」

「約束、忘れてないでしょう。一生、愛してくれるって」


 王子はギターを止め、レイモを抱き寄せた。

「もちろんだ。君が踊る限り、私は奏で続ける」


 二人の影が、朝日に伸びていく。

 道化師と王子の旅は、自由で幸せだ。

 

 

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