月に魅せられて
李夢檸檬
月に魅せられて
今日見た月は、これ迄の何よりも美しく見えた。御世辞ではない、嘘でもない。本当の事だ。私が見た時には月の周りには何も無かったから、より一段と綺麗に見えたのかもしれない。いや、厳密には何も無かったのではない。少しばかりの雲や星は存在していた。ただ、私には何も無いように見えたのだ。心を覆い尽くす感激が、視界或いは脳髄と云った私の身体に影響を及ぼしたのだ。
今日が始まってから今に至る迄、私はただ、常にこちらを見詰める月をチラリと見るだけで、振り向いたり笑ったりする事は無かった。少し恥ずかしかったのかもしれない、どこかもどかしくて怖かったのかもしれない、未来にほんのちょっぴり期待してしまっていたのかもしれない。この愚かさをどうか許してくれないか、何て言ったらどうなっていた事だろう。私はただその思いを胸に秘め、静謐なこの一時を過ごすほか無かった。一体、何にそれ程怯えているのだろう。どれだけ考えても、結論は出ずにいる訳だが……まあ、「眼前の恐怖よりも想像力の生み出す恐怖の方が恐ろしい」何て、よく言ったものだ。きっと私も想像上の恐怖に負けているのだ。そんな何ともくだらない心象に浸っている私は、何に魅せられているのか。その答えも然り、到底出て来ないのだろう。
そんな風に大した動きも見せずにいると、大抵の場合、他者は動き始める。ただ二人で一緒に過ごしているだけでも、時々取るに足らない愚者の悪戯を受ける事が在る。ふと鴉が二、三羽飛んで来ては月を覆うのだ。すると簡単に対処され、直ぐに再び野へと放たれる。だが、一度はどこかへと消えて行っても、しばらくは周囲に屯し、時を見計らって再び月に覆い被さろうとする。それが弾かれた時、私は焦りと憧れを感じるのだ。こう云う時にこそ、月が耽美な物で有ったと再認識する。ただ、何よりも美しく見えたのはこの時ではない。鴉はただ突き抜けるだけではない。月を遠くから眺め、何か一言二言鳴く事も在る。いや、こう云う個体はあのような暴れ馬、愚か者とは違う。言うならば……冷静、傍観、嘲笑……そう云う言葉の似合う輩。勿論、莫迦にする対象は月ではなく私だが。しかし、この事実は私にとってそれ程意味を成さなかった。結局それはただの戯言、嫉妬、憤怒……そんな、ちっぽけで詰まらない物に過ぎなかったのだ。煮え切った悪意など、月に比べれば皮膚のように薄っぺらく、針のように細く、蝿のように小さい。
二人の世界へ介入しようとしてくるのは、決して鴉だけではない。小蝿であったり、蛾であったり、多種多様な異邦人共が、私達の間に侵入しようとやって来る。それは鴉に比べれば一瞬だが、しかし幾度も交わるものだから、中々に困ったものだ。こう云う事が起こる度に、私は鬱陶しいだとか、苛立たしいだとか、そう云う何とも複雑で迷惑な気持ちに晒されるのだ。大変いけ好かない者達だ。きっと、どれだけ時が経とうと、この者達と仲良く関わる日は来ないだろう。そもそも、仲良くするなど考えた事は無いのだが。
大した話も行動も何もしていないが、徐々に時は過ぎていく。摂理と言う奴だ、止める事はできないし変える事もできない。私はそうである事を知っている。全ての物事には流れと云うものが在る事も、この全てが実に愚かで滑稽なものであるとも、全て既知の真理である。そうして私は静かに、月に悟られないように苦笑いをするのだ。無尽蔵に締め付けてくる思考は、仮令月であったとしても和らげる事ができない。そうであれば、態々伝える事も無いのだ……まあ、こう云う人間だから、あの小物達に嘲笑されるのだろう。ただ考えるだけ考えては、その追求心を黙って勝手に飲み込む。だから伝える事も、他者に喋る事も、何もせずに静寂を生み出す。そうして、それがどれだけ有意義な時間であったとしても、無駄に消耗して、軈て最後には何もかも残ってはいない状態へと至る。だから、仮令どのような存在であったとしても、いつかは私を見放して海の藻屑にしてしまうのだ。
沈黙が続けば、いつかは気まずい状態へとなってしまう。本来ならばこうするべきではないのだろう。ただ、私が只管に黙っていれば、何時しか月も黙りこくってしまった。嗚呼、やってしまった、やってしまった。どれだけ良くない事だと分かっていても、やらないように注意していても、犯してしまった。こうなっては、どうする事もできない。この時が終わる迄、永遠に続くだけだ。人によっては、こうなってもどうにかできるのだろう。ただ私はできない人間だ。昔からそうだ。そのせいで幾度も問題を起こしてきた。何人に何回、迷惑を掛けた事だろう。そうして私は沈黙を更に深くさせてしまうのだ。
軈て私は月と別れた。背中合わせに暗闇へと去っていく。何故こうなったのか、その理由は説明する迄もない。私はただ、月に会いたかっただけなのに、月に連れて行って欲しかっただけなのに、結局は全てが水の泡と化し、何もかもが霧散していく。別れたその瞬間から、月が私を照らす事は無くなった。つまりは、そう云う事だろう。これからは互いに別々の世界を構築し、そこで生きていくのだ。新たな拠り所を探して、鳥のようにそこへ巣を建てる。またいつか、新たな愛を見付ける。過ごし、暮らし、食べ、遊び、眠り、軈て終幕を迎えるのだ。しかしこれは全て月の話、私が同じように生きられるとは到底思えない。拠り所を見付ける事すらできずに野垂れ死んでも、それは何も可笑しい事ではない。鬱を患い、廃人と化し、紐を使ってその酷く醜い身体を天井からぶら下げても、それは何一つ疑う余地の無い運命であると言えるだろう。
帰路をただ只管に進み、漸く家についた私はかの月を再度見やる。ぼやけていた、壊れていた、元の姿とは比べ物にならないくらいの哀れな姿であった。あれ程美しかった筈の姿が曖昧になり、酒を飲んだ時のように、或いは片方にだけ眼鏡を掛けたように、分裂したり欠けたりして歪みが生じている。私はそれが、もう二度と元の姿へと戻らない事を確信した。証拠が有る訳でもなく、天啓を受けた訳でもない。ただ……何となく、そう感じたのだ。運命…直感……そう云う、摩訶不思議な現象だろう。
私はただ茫然と……若しくは屍のように、ただその姿が滑稽な物であると自覚し乍ら月を眺めていた。艶やかで美しく、何よりも輝いて見えていたあの姿が、仮令幻覚であっても、現実を直視すると映る醜い姿であっても、私の思いは何もかもが変わらぬままであった。展覧会でも開けば大衆が駆け込み群がって、自分の物だと暴動を起こすぐらい価値の有る物で、この世の何よりも素晴らしい。これ程の存在だと云うのに、どうして見詰めずにいられようか。ただ、どうしようもなく変わってしまったのは、不本意乍らに映ってしまう靄が掛かった存在と、何もかもが終幕を迎えた世界だった。
月は私を見詰めた。私も月を見詰めた。軈て月は二度と私を見詰めなくなった。私はそれでも月を見詰めた。
夜が明ける。夜が明ける。間も無く、夜が明ける。月が消える。月が消えてしまう。私の元から永遠に。
月に魅せられて 李夢檸檬 @ribo-lemon
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