樹海にて
煙 亜月
樹海にて
『樹海にて』
「は? 樹海?」と線の細いマコトが怪訝そうにいう。卒業式を控えた寮の四人部屋。「でもコースから外れねえし。一応国立公園だからな。ガイドの決めたルートから逸れることなく目的を達成する」と柔道部のがっちりした体形のマサ。
「目的?」とユキ。
「そ。オレとマサで極秘裏に計画してあるやつがあるんだわ」と、見るひとの八割はうっとうしいと思うであろう、マッシュルームカットのナオ。
「僕は反対だね。せっかく第一志望に合格したのに、下手なリスクは負いたくない」眼鏡のズレを直しながらマコトはいう。マコトはあくまでも理性的だ。
「ぼっ、ぼくもその——よりによって青木ヶ原でなくてもいいと思う。なんか、怖いし。ぼくはそれより吉田ルートの五合目の方が——」ユキは不安げにいう。
「の方が? の方が、の続きは? まあ、俺もコイツも無理やり引きずってまでついて来いとはいえない。パーティが二名でできない距離や勾配でもない。ウェアもギアも吉田ルートの方が金かかんじゃない? ——まあ、その、ここで仲間割れしても仕方ない。自由意思で決めろ。まあ、二人はちょっとこれ見てからでも遅くはない。それから行くかどうか、決めて。——俺は寝る。あ、ブクマの怪しげなサイトは見んなよ。俺のささやかな楽しみだ」
ノートパソコンを差し出したマサは二段ベッドに横になり、たちまち寝息を立て始めた。
「はあ。こういう役回りっていつもオレやねんな。そう、それ。クラファンな。クラウドファンディング。青木ヶ原樹海にてさまよう霊たちに鎮魂と安らぎの祈りをする、っていう訳分からんプロジェクト。ま、こいつの考えそうなことやん。半分はお祈りだけど、半分はそっちやな。それ。そこの数字」とナオは指し示す。
「ごっ、五〇万? そんな——」ユキは目を丸くする。
「はん、あいつの考えそうなことだ。どうせ失敗するだろうに。で、支援者へのリターンは?」とマコト。
「ご遺体の近くの景色画像」
「——死体写すんかね」マコトの顔が険しくなる。
「それは日本の放送コード上、できない。っていうか、写しちゃなんねえんだ。掲載ができなくて単に無駄なのと、オレにも倫理観があるからだ。オレらがするのは『それっぽい景色の写真を送信すること』までだ。それ以上はできないしするつもりもない。オレらの顔も名前も明かさない」とナオは話を進めた。
「そんなことで五〇万も集まったの!」とユキはとにかく驚く。
「らしいな」マコトは諦め顔だ。
「お祈りをするのは嘘ではないし。目的は鎮魂やもん」ナオは屁理屈に近いことをいってのける。
「おまえさあ——」マコトが膝立ちになりかけたところでユキは二人の間に割って入る。
「ま、待ってよ。そ、そのクラファンのお金ってさ、なにに使うの?」とユキ。
「——国立公園としての青木ヶ原整備。自治体に寄付するいうてる。まあ、ぶっちゃけっていうか、少し地元よりの者なら当たり前に知ってるんやけど、国立公園では石も砂も葉っぱ一枚だって、採取が禁じられてる。石に触れて持ち上げてもいけない。さらには野犬も熊もいる。決められたコースを外れてもいけないし、遺品も何もかんも、持ってったら罪や。やけ、これや」ナオはロッカーからごそごそとなにかを取り出す。
「なんだよそのバズーカ。自衛隊から盗んできたんか?」壁にもたれてマコトはつまらなそうにいう。
「少しはキレてるツッコミ考えろや。これはただの一〇〇㎜から四〇〇㎜、つまりフルサイズ換算で二〇〇㎜から八〇〇㎜の全レンジに死角のないどこにでもある超望遠ズームレンズや。しかし、だ。さらにコイツにテレコンを着けるとその焦点距離はフルサイズ換算で——」と嬉々としてナオは話し出す。
「つまり、決められたコースから外れずにクラファンができるってこと?」ユキは思いのほか冷静だ。こいつ、こんな奴だったっけ、と呆れつつナオは、
「おまんなあ——キレすぎるんもアレやで、せっかく楽しく機材自慢しよるんに」とレンズをケースに収納した。
一応訊くが、マコトは前置いてから「決行の日取りは?」とふてくされながらも問う。
「クラファンで『現役高校生による』って書いちゃったから、卒業式までよな。その間の可能な限り天候のよい日。となると——今週水曜日」とナオ。
マコトは天井を仰ぐ。「あさってじゃねえか」
「あさってやけど?」
「あ、あ、あさって——」ユキはしどろもどろにいった。
青木ヶ原横断ツアー決行の日は快晴だった。
「はあい、ではこれから行きますよう。皆さん、ちゃんとゼッケンとバディの確認をしてくださいねえ。いちよう、国立公園なので草木とか石とか、持って帰ったらだめですよう」とガイドがゆったりとした口調で案内する。
富士山麓樹海、青木ヶ原——の、やや北寄りの横断ツアー。おとな一人一万円。けして安くはない額だ。参加者は行楽気分の大学生カップルから山慣れしていそうな装備の中年夫婦まで九組一八名。
寮室の四人は結局全員が参加し、それぞれに蛍光オレンジのベストとゼッケン、無線機が配布された。
「今お配りした無線機はですね、免許がいらない代わりに出力が弱いんですよね。青木ヶ原みたいな入り組んだ場所ではですね、隊列が伸びると通話ができなくなるかもですので、可能な限り隊列をギュギュっと密にしてくださいねえ」
マサのバディはマコト、ナオのバディはユキ。お互いに命を預け合う上でバディとの連携は絶対で、もしバディに何かあれば直ちに同行のガイドか、猟銃を構えた猟友会のハンターに報告をし、可能であれば事前に講習した救急救命法を施すこと——などの指示ののち、一行は細いワイヤーで編まれたロープで囲われたルートを探索し始めた。
しかしだんだんと隊列は縦に延び、間隔もふたりの間に三ⅿから四m、四mから五mまで延び始めた。さすがに延びすぎたと感じたのか「はあい、全隊止まれですう。前後の間隔を二・五ⅿまで縮めてくださいねえ」と隊列の乱れを直した。
隊列が止まっている間にもナオは左右への撮影を続けていた。さらにはマサもVlogの撮影を止めることなく続行していた。初心者組のマコトとユキはそれぞれのバディがしっかりと先導していたので危険はないが、面白みもない。
「マコトさあ」
「ん?」
「もちっと楽しまん? せっかくの卒業旅行なんだからさあ」とマサが口をとがらせる。
「仕方ないにもほどがある。こんなクラファン、金払って付き合ってるってだけでかなり奇特な部類に入ると思うんだが」
「はあい、そこのゼッケン5Aの男の子う。ずっとバズーカみたいなレンズ構えてると隊列乱れますよう」ナオがガイドの女性に指摘されたが、笑顔のまま隊列を整えた。よほどバズーカレンズを見せびらかしたいらしい。頭をぽりぽりと掻いて顎を突き出すように会釈する。
コーデュラのグローブをつけたユキはきょろきょろと周囲に目を配り、ザックのチェストストラップやその他から下げた熊鈴をしきりに触っている。
「ああ、ユキ、心配あらへん。ここは樹海の中でも人の匂いがしみついた飛び地や。熊は基本、賢くて慎重やからな、よほどのことがない限り出んし、野犬も同じくや」ナオはへらへらと笑いながらシャッターを切り続けている。「しっかし、風光明媚なところやなあ。人の手もそんなに入ってない、清々しい空気に沢の音。釣竿持ってきてもよかったくらいや思うでしかし——」
笑っていたナオは急に黙って膝を突き、カメラを沢に向ける。無線機のチャネルをガイドと猟友会だけにつながるよう操作する。「ナオ? どしたの?」「ユキ——こっからは大人の話や。悪いよういわんけえ、耳塞いどき」
即座に対応できないユキは置いたままにナオはカメラを構えたまま無線機に小声で話す
「——こちらゼッケン5A、ゼッケン5A。隊列左翼に野犬、四頭程度の群れを確認。距離はレンズの簡易目盛りで四〇〇から五〇〇。まだこちらに気づいていない。いまなら静かにやりすごせる。どうぞ」
少しして、ナオの無線機からザザッという音がする。よく聞きとれないが通信のやり取りをしているのだろう。
「ゼッケン5A。ちゃう、それはちゃう。タヌキでもキツネでもない。全身真っ黒で毛は短い。鼻先が長くて耳が立っとる。あ、いや、クソ、五頭目がおった。平均して背中の高さは一ⅿオーバー。警戒しつつ何もないように通りすぎんと、ツアー客はパニクるで」
さすがに緊迫した声はユキの耳にも入った。でも大丈夫、大丈夫。ユキはいい聞かせた。今なら距離もあるし、大丈夫なはずだ。ユキはそう信じることにした。
「皆さん、何もいわずによく聞いてください。野犬が遠くに何頭かいました。まず、絶対に大きな声を立てないでください。エサやものを投げたりしないで。イヌに目を合わせながら見えなくなるまで来た道を後退します。ツアーは中止。ツアーは中止です。これはお願いではなく命令です」
「あのガイド——いわん方がええことまでいいよる。まあ判断は間違っとらんが、これでまともに隊列が動くんかね」と、ナオはぶつぶつと愚痴る。
ガイドの女性の声が一変、緊張感のある声音で全員の無線機へ伝達した。「転ばないよう気をつけながらゆっくり後退してください。イヌを刺激しないように。ガイドのわたしを先頭、ハンターを最後尾に隊列を組んで帰ります」
「そ、そうはいうけどあんた、一散に逃げるつもりじゃないんか?」ツアー客の白髭の男性が抗議する。
「大きな声を出さないで。自分は元自衛官です。犠牲になるなら自分が一番であれと入隊から心に決めています。自分なら道にも詳しいので、これが最善の隊列です。最後尾は散弾銃で武装した猟友会の方もいますから、安心してください。まあ、樹海ではこんなの慣れっこです。大丈夫ですから」
白髭はぶつぶつとつぶやきながら次第に黙った。
隊列は乱れつつあった。足場も悪く野犬と目を合わせながらである。隊速も落ちてゆく。野犬は群れをなして興味本位にあたりをうろついたり、こちらに近寄ったり離れたりを繰り返す。遊び半分なのだろう。ツアー客もだんだんと足早となった。隊列が伸びてゆく。
リーダー格か、大きな体躯をした野犬が唸り声を上げ、前へ出てくる。距離は五〇ⅿくらいだろう。硬式野球のホームベースから二塁までの距離より少し長い程度。イヌの瞬発力なら十分に襲い掛かれる距離だ。その野犬がツアーの隊列に一声吠えた。
それを皮切りにツアー客はパニック状態となり、一斉に来た道の方へ駆けだした。将棋倒しになる者もいた。「あ、あんた! 早くその銃で殺さんか! お、おれたちを囮にしてんじゃないだろうな! 頼むよ、なあ、早く!」と、白髭の老人が早口でまくし立てる。
猟友会の散弾銃に視線が集まる。ハンターは小さく舌打ちをして銃を真上に向けて発砲した。槓桿を引き、落ちた空薬莢を拾う。ハンターに「な、なんで上に撃つんだよ! 犬を殺さんと意味がないじゃないか!」と白髭の抗議が上がった。
「だが、イヌは逃げた。それでいいだろ?」ハンターは冷ややかに答えた。
野犬もいなくなった。ルートを着実に戻ってゆく。
ユキやマコトは「怖い、怖いよ」とか「来るんじゃなかった、断じて来るんじゃなかった」とこぼし、ナオやマサは依然Vlogや望遠レンズのカメラであたりを撮影していた。ツアーガイドの女性がすべての無線機に向けて伝送する。
「これより自分の指揮下に入ってもらいます。先ほどの発砲で野犬の警戒心が強まりました。野犬が弱腰になっている今のうちに出発地点まで戻ります。バディとは一・五m以上離れないように。前後の間隔も二m以内です。これ以降の撮影および録音は禁止します。両目、両手両足をフリーな状態にしてください。大丈夫です、自分にもこの状況程度、対処できます」ガイドはそういい、腰からマチェットを抜いた。
「やばいな」マコトは少し肩を上下させながらあたりを見渡す。マコトを含め、ツアー客の視線は大学生カップルの女子学生に集中していた。その子は過呼吸を起こしていた。
「——ひっ、ひっ、ひっ」カップルの片割れは手を握ったり背中をさすったりしているが、女子学生は上体を起こしておくのも辛いようで、ずるずると岩壁にもたれた。顔は白く、唇はチアノーゼを起こしている。ツアー客の中に紙袋を差し出そうとする者がいたが、ガイドは手で制した。「ペーパーバッグ法は現在では推奨されていません。彼氏さん、彼女さんを支えててください。彼女さん、辛いですけど絶対に失神しないように。いいですね?」
ガイドの女性はザックを身体の前、お腹側に掛け、ウェストとチェストのストラップをツアー客に頼んで背中で留めた。そのまま女子学生を背負い、腕を女子学生の膝裏から回し入れ、女子学生の手首をしっかりと掴む。
「あ、あんた、いくら自衛隊におったからってそりゃ無茶じゃないんか」装備の整った中年男性が心配する。
「いえ、何の問題もありません。訓練では八〇㎏のダミー人形を使ってますので。もちろん、自分の装備も含めてなので、雨が降ると軽く一〇〇㎏は超えますね」と頬笑み、「皆さんも気分が悪くなったバディがいたら報告をお願いします。ただし、装備などはかさばっても絶対に捨てないで」
岩窟に入る。警戒すべき地点が出入り口の二か所だけなので、猟師とガイドも多少安心できる場所だ。過呼吸も治まりつつ女子学生を地面に下ろす。さすがに現役時代とは違うのか、元自衛官のガイドの女性も息が上がっている。
「おい」先ほどの中年男性だ。「俺だって学生時代、富士駅伝で大砂走を毎年やってたんだ。せめてギアは俺に持たせろ」「いえ——はい。では、お言葉に甘えて。すみません——ご協力感謝します」ガイドは女子学生のザックを下ろした。
「けっ、女に持たせられっかよ。ザックは俺が前後に持つ。あんたはその子を負ぶってればいい。——全員、水分補給した方がいいだろうな」
「そうですね——皆さん、これで今来たルートの三割以上は引き返せました。一口か二口、水分を摂ってください」女子学生に声をかける。
「どう、歩ける?」「——ごめん、さい、まだ、ボーっとしてて——手とか、痺れが」「分かりました。そのためのわたしです」
ナオがカメラを構える。おそらくサイレントモードで撮っているのだろう、何の音もしない。マサもVlogカメラであたりを撮影する。「ゼッケン5Aと6A、休憩が終わったら——」ガイドがいい終わるより先に「あ、ハイ。両目と両手両脚はフリーに」とナオはカメラをしまった。
こんなに撮れ高の低い、有り体にいってつまらない撮影の国立公園も珍しいかもな、とナオは歯噛みする。マサもVlogカメラをザックにカラビナで留め、立ち上がる。
キン、という長い余韻の金属音がする。シュボッ、とこの場に大変似つかわしくない音がした。
「お、おい、おまえ!」ザックを前後に背負った中年男性が鋭くいう。「あん?」白い髭をたくわえた男性の煙草を掴み、素手で揉み消した。
「もう遅いみたいですね——総員伏せ——全員、地面に伏せて!」ガイドが声を張り上げる。
洞窟の岩壁が一気に剥がれ落ち、ぬるぬると蠢く。壁や天井に張り付いていたコウモリとヘビが煙草の燻煙にいぶし出されたのだ。大挙してそこら中へ落ちたり飛んだりをする。
「何これ何これ何これ!」「いやああああ!」「何、何や!」「もうう嫌だああ!」
「下を向いて! 目を閉じて! コウモリのフンを絶対に目の中に入れないで!」
「おい、ジジイ、おまえが煙草なんか吸うから!」コウモリもヘビも縦横無尽に飛ぶなか、中年男性が白髭の男性に掴みかかる。
「落ち着いて。いま争っても仕方ありません。しばらくこの洞窟内は混乱状態でしょう。一刻も早くここを抜けます。保険のために片目を隠してください」
ガイドにいわれるまま早足でツアー客は来た道を引き返す。あたりが暗くなりつつある。今日は二月二十五日。まだ日は短い。「現役高校生」によるクラウドファンディングであるから卒業式である三月一日以降は見向きもされないだろう。別にどんなにごまかしてもよいのだが、妙なところできっちりとしているマサにとっては二月中に決行する必要があるのだ。日も暮れている。定刻通りにツアーは始まったのだが、ルート半ばほどで野犬に遭遇した。そのまま横断するにも引き返すにも中途半端な距離だった。トラブルもあり、ツアー客は消耗している。
「ユッコ、歩ける?」「う、うん、荷物はちょっと持てないかもだけど、歩ける」
過呼吸を起こした女子学生も頬に赤みを取り戻していた。行って帰るだけのツアーだ。ザックも二十五Lもあればよいのだろう。ガイドの女性や装備のよい男性に何度も礼を述べ、男子学生は女子学生のザックをお腹側に抱えた。
ツアー客の装備——ギアもウェアも充実しているとはいいがたい。ギアは遠足に毛が生えた程度、ウェアも登山靴ではなくスニーカーで参加している者がほとんどだ。ゴアテックスやケヴラー、コーデュラ製の登山靴やグローブを装備している者はごく少数であった。ただの白い軍手の者だっている。
隊列も乱さず、着実にツアー客は引き返していた。女子学生を背負う必要もなくなり、隊速もやや上がった。ガイドがいう。
「全隊止まれ。各個、間隔を狭めてください。ハンターとの無線感度が悪いです。各個、なるべく詰めて」ガイドはそういうと無線機で小声に交信する。
隊列最後尾、ハンターはボルトアクションの散弾銃の槓桿を引き、鳥撃ちの散弾を抜き取る。ライフルのような一粒弾のスラッグ弾を装填する。誰にも聞こえない声量でハンターは独り言ちる。「あのくそが——舐め切ってるな。距離を詰めてきやがる。仇、取ってやっかんな」槓桿を押し戻し、いつでも撃てる状態にする。
ガイドはハンターからの無線を表情一つ変えずに聞く。聞き終えると「それは許可できません。ここは国立公園です。物であれ動物であれ、ここにあるものには誰も手を——」
「そんなことは分かってんだよ!」
何事かとツアー客は振り返った。荒い呼吸のハンターが沢の向こうへ銃口を向けている。ガイドは苦々しく唇を歪めた。
「園井さん、お気持ちは分かりますが」
「分かるもんか! おまえみたいな若えもんに、生きたままなぶりものにされた女房の痛みが、分かってたまるかってんだ!」畜生、汗が目にしみる。銃口もブレる。おまけに何だ? ただの二等陸曹が偉ぶって、ツアーもめちゃくちゃだ。いっそあのバズーカみたいなカメラ持ってるガキに俺の死に様でも撮らせるか?
「園井さん」うるせえな、あともう少し、あともう一〇〇ⅿもこっちに来れば仕留められるんだよ。「准尉!」涙が、止まらん。くそが。
双眼鏡を覗いたままガイドはいう。「ツアー客に危険ありやと判断するのはあなたの仕事です。わたしは末端にすぎません。射撃も視力もあなたの方が上です。ここで仕留めるかはあなたが判断してください。わたしは隊列を前進させます」
「みなさあん、野犬も追い払えたようですけど、念のためルートにあった水飲み場は避けて藪の中を抜けますねえ。バディとは絶対に離れないで、手を握れる程度の距離を保ってくださいねえ。前後の間隔も二ⅿ以上離さないで、密集して移動しまあす」
ぱん、ぱん——ぱん
あのボルトアクション式散弾銃は弾倉に二発、薬室に一発装填できる。つまり、彼は、園井准尉は撃ち尽くしたということになる。仕留めていてほしい。いや、仕留めそこなう訳がない。
「お、おい、さっきの、猟銃の音か?」中年男性が声をひそめて訊いてきた。「んー、違うと思いますよう。園井さんの射撃音はもうちょっと違うんですよね。だから、すぐ戻ってくると思いますう」
「そ、そうか。な、ならいいんだ」
「ユキ」
「なに? トイレ?」
「ちゃうわい。ハンターが戻ってけえへんのは何でや思う?」ユキは少し考えこむように顎に手を宛て、「クマに襲われたとか?」という。
「おまえなあ——そういう最悪なケースをサラッといえるんは何でなんやろなあ?」ユキはまた考えこみ、「んと、トイレにしては長くて、猟友会が迷うはずがなくて、あるとすればギャップにハマったか、滑落。もしくは大型獣か、それに類するもの。でもその分、ぼくらが食われる心配は減ったかも」と小首をかしげていう。
隊列は順調に進んでゆく。
「マコっちゃん」
「『マコっちゃん』はよせ」
「マコっちゃんさあ、ハンター戻ってきてない理由、分かるか?」とマサ。
「僕が知るものか。まあ大方、何らかのアクシデントがあったんだろ」とマコトはつまらなそうにいう。
「それ、意味分かっていってる?」
マコトは「ヘビ毒、滑落、大型獣。どれも今の編成では下手に対応しても逆効果。ガイドの元自衛官はもう無線でベースに救援を要してるだろうな。それで特に問題はないはずだ」と涼しげな顔でいった。
「おれさ、ときどきマコっちゃんの冷静さが怖くなる時があるんだわ」
「仕方ないだろ? 今できる最善は足手まといになる僕らをベースに戻す。ガイドはそれしか考えてないはずだ」
「じゃあ今頃、ハンターのおっさんがクマに食われとる可能性も——」マサがいうと、マコトは「クマだけじゃない。野犬もだし、ほかにも害獣はいるだろ。このパーティでもっとも経験のあるガイド本人が来た道を戻ってるんだ、それが一番なんだろうよ」といい、額の汗を拭った。
「なあ、マコっちゃん」
「何だよ」マコトは前を向いたまま応える。
「おれたち四人だけでも戻らん? もし野犬程度なら——」
「おまえ、アホか」
「は?」
「——ああもう。あのガイドが救援呼ばないとでも? 僕たち四人がクマに対して何ができる? そもそもクマが一頭だけとは限らんぞ。そろそろ完全武装した猟友会とすれ違うか、もしくは散開して救援に向かってるはずだ。それよりおまえとナオは撮影に専念した方がいいんじゃないのか? 撮れ高もだし、クラファン的にも美味しいんだろ?」
今度はマサとマコトから先行するナオとユキのバディ。
「ユキ」
「ん、なあに?」
「じゃあユキはガイドがもうすでに無線で救援を呼んでて、おれらは早いとこ離脱した方がいいってことなんか?」カメラを四方に向けながらナオは問う。
「だってそうじゃない? 冬眠明けが早い個体もいるし、このあたりのクマなら冬眠そのものがない場合もあるし。クマが子連れでハンターを襲ってたんなら、警戒心も強いよ。そこへのこのことツアー客が現れたら、母クマがどう出るかだなんて分かったもんじゃないし」
「——このクラファン、意味あんのかなって今では思えるわ」ナオは消沈した面持ちでいった。
「でも、ガイドさんだって元自衛官なんでしょ? 陸上無線の免許だって持ってるはずだよ。猟友会だって救援を組織してるはずだし、もうすれ違ってる可能性もあるんじゃない?」
ナオは手元のマイクロフォーサーズのカメラを構えたまま黙り込んだ。
「はあい、もうすぐスタート地点に到着しますよう。皆さんお疲れ様ですう」
大学生カップルは涙をこぼして抱き合って喜び、装備のよい中年夫婦も水分補給するなどしていた。白髭の老人は「ああ、やっと吸える」と安堵し、「いい眺めだったな」といい直そうとしたが、周りの視線を受けてその声は尻すぼみになった。
「ナオ」
「マサ」
「撮れた?」とマサが訊くと、白いバズーカレンズを下に向けて、「いや、あんまり」とナオは答えた。「マサは?」
「こっちも。全然」
「このクラファン、どうすんのよ」とナオが訊く。「そうだな——『野生動物に遭遇しそれどころじゃなかった』って正直に書くしかねえよ」
「バカ正直だな」といい、ナオはうつむく。
「そうでもないぞ」
「——マコっちゃん?」
「うん、ぼくの方も」
「おいおい、ユキまでどうしたんだよ。額からパカってレンズが繰り出す仕様だったのかよ、おまえら」
「バカか。スマホくらい持ってるわ」
「うん、僕も何枚かいいのが撮れたよ。かなり——その、無駄なのもあったけどね」とユキはさみしそうにいった。
ナオは「見せてみ」とマコトの撮った写真をつぶさに確認した。「マコっちゃん、写真、うまいな」
「おれにも見せろよ」とマサはユキのスマホを操作する。が、急に口許を押さえ、排水溝に向かって嘔吐した。「ユ、ユキ——よく平気でいられるな」とマサはユキの方をきっ、とにらむ。
「そ、そう? だって、ただの死体なのに——もともとは僕と同じで生きてた人だよ。そんな人たち見てげーげーいうなんて、その、ちょっとひどくない? 本当に鎮魂やお祈りがメインだったらそんな態度、おかしくない」
ユキのスマホをしげしげと見て、「たしかに、なぜかは分からんがご遺体が多いな。ユキ、おまえ狙ってたのか?」マコトはすっすっとスワイプしていたが、あるところでスマホを急にナオへ押し付け、その場で吐いた。
結局、その写真を見た者は撮影者を除いて耐えきれずに嘔吐した。
「なんか、ぼくだけが変な人みたいな扱いじゃない——命ってこういうことなんじゃないの? 何の覚悟もなしに樹海行こうって思ったの?」
それは写真ではなく動画で、野犬が人間の——それも比較的新しい——倒れ込んだ死体に群がる光景だった。
「きっと軟らかくて栄養価の高い内臓、特に肝臓を狙ってたね、それ。ブレないように撮るの、大変だったよ。あと、出血もしてるから完全なご遺体っていうか、少しは血圧とか、生活反応もあるみたい——意識がないことを祈るだけだね——もう、尊い命の連鎖なのに——なんでみんなそんななの? ぼくは火葬場で丸焼きにされるより、こうやって他の命につなげられる方がいいと思うな。少なくともぼくは、火葬より自然な命の形だと思う」
「——ナオ、撮ったか」
「あ——ああ。死ぬほどしんどいけど動画で撮れた。編集する気も起きんが、あと三日、今日入れて四日でクラファンに間に合わせてやる」
「プライバシーとかどうする」
「なんや、マコっちゃんもおったんか」
「当たり前だろ。これで入学取り消されたら死んでも恨んでやるからな」
「おお、こわ——やっぱ生きてる人間の方が怖えな」
「それはマサも同じやろ。こんな思い付きでここまでの撮れ高だとか、シュールにもほどがある。今、3G入った。クラファン、七〇万突破したぞ」
「全員の顔と声は加工しろよな」
「分かってるって、マコっちゃん。——お、警察も救急も来たみたいやな」
「どうする?」
「どうする、って——どうもしねえよ。どうにかできるほど強かねえんだ、現役高校生は。ふつうの、現役高校生はな——」
「ヤッ――ホ――」ユキの声が響いた。
【訃報】
富士箱根伊豆国立公園 管理官事務所所属 猟友会 園井明彦氏(享年五十八歳)二月二十五日(水)青木ヶ原北部横断ツアーに猟友会として同行中に大型獣に襲われ逝去。葬儀は家族葬にて執り行われ、告別式には管理官事務所、猟友会等が参加した
樹海にて 煙 亜月 @reunionest
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