コントロールファミリー

小戸エビス

コントロールファミリー

 「ありがとう」。僕はそう言った。そうしなければならないと思ったからじゃなくて、自然に。



 僕には、父親と母親が、2人ずつ存在する。

 親が再婚したとか養子になったとかじゃない。一度死んで、別の家の子どもに生まれ変わったんだ。信じられないことだけど、死ぬ前の記憶を持って。


 最初の父親は常日頃から「感謝」を口にする人だった。お前が生まれてこられたのは親のおかげだ、親に感謝しろ、全てを与えてくれた親の恩義は無限大なんだ、と。

 その家に生まれた僕は、幼い頃、何も分からないままに、父親の言う事が正しいことなのだと思っていた。得意気に笑う父親から「そこに座れ」と床を指さされ、「座れと言ったら正座だろう」と言われて正座をして、父親からこう言えと言われた通りに「ありがとうございます」と言い、父親はさらに得意になり、父が喜ぶ姿を見た僕は、これはお前に親のありがたみを教えてやっているんだという父親の言葉を信じ、その父親が自分に課した課題を正しく行って正しい結果を生み出せたのだと誇りに思って。

 母親は僕と父親の様子を、微笑ましい家族の光景を見つめるかのように、ニコニコと眺めながら夕食の準備をして。

 夕食が始まるのは、母親が差し出したビールを父親が当然の顔で受け取り、一口飲んでから。酒が入った父親は、会社の人達のこんなところが駄目だ、という話を始め、僕が分からないままに聞いているとだんだん声が大きくなって、そろそろ近所迷惑だと母親が言い出すと、お前は社会で働いていないからそんなことが言えるんだとさらに大声になって、ひとしきり母親に怒鳴った後、ほらお父さんが遊んでやるぞと言って体重をかけて僕を押し倒し、顔を押さえつけて、ほらどうした男だろう押し返してみろ、と、酒が回って眠くなるまで一時間以上笑い続ける。母親はその間、何も言わない。

 これが、僕が最初に生まれた家の日常だった。まだ何も知らなかった僕は、家族というものはこういうものだと思っていた。


 そして小学校に上がった僕は、気がつけば、周囲から疎まれていた。同級生からも、教師からもだ。授業や行事で僕と接しなければならないときは皆が嫌そうな顔を浮かべ、そうでないときは話しかけても無視をされる。

 皆、僕を存在しないものとして過ごしていたいようだった。苦しかった。意味が分からなかった。だから、夕食の席で、親に相談した。テレビの番組で聞いた、親はいつだって子どもの相談に乗ってくれる、という言葉を信じて。

 すると父親は、ほらそういうことを相談できるんだから親というものは頼もしいだろう、なんて言いながら、楽しそうに酒を飲んだ。そして、そういうことで親を頼らなければならない僕がいかに弱いのか、ということを一晩中語った。次の日から、父親が酒を飲んだときの話は毎日それになった。お前はちょっとしたことを気にしちゃう弱い奴なんだ、ほーら弱い、ほーら弱い弱い。

 ある日、どこかで子どもが自殺をしたというニュースが流れた。学校の担任は、ホームルームで、子どもがいじめに遭っていると知ったら親がどんな気持ちになるか考えて見ろ、と言っていた。その顔は、さも、正しいことを言っているようだった。そしてテレビは、相変わらず、子どもを愛する親の美しさを語っていた。どれも、僕には、意味が分からなかった。

 学年が何回か変わった頃、今度は殺人事件のニュースが流れた。殺されたのは僕より少し年上の人らしかった。幸せなはずの人生が奪われた、命の価値に向き合え、そんなことが語られていた。僕は、殺人が悪いことだというのは知っていたけれど、やっぱり、テレビの言うことが理解できなかった。


 そんな僕に死が訪れたのは10歳になる前だった。いつか聞いた、自殺、と言う言葉が頭の中にこびりついて、自殺は生み出してくれた親に対する裏切りだ、とどこかの大人が言っていた言葉も浮かんで、でも何を裏切ったことになるのか分からなくて、親がいなければ子どもは生まれてこないというのは分かるけれどそのことでどうして恩義が生まれてくるのかが分からなくて、でもそんなことを人に言えば恩知らずと叱られることになって、だから黙っているしかなくて。

 誰も彼も、生きていることが幸せなことなのだという前提が覆ることがないと思っている様子でいることが、理解できなくて。

 だからいつもわけが分からないまま通学路を歩いていたある日、僕は車に撥ねられた。猛スピードで迫ってくる車が見えて、避けられる距離だったけど、避けることで一体何になるんだろうと考えたら、足が動かなくて。

 すぐに救急車が来るぞ、頑張れ、という声が聞こえた。近くにいた大人達の声だった。僕は、その声を聞いて、ああきっとこの人達は自分が生まれてきたことに感謝ができる人達なんだろうな、それができる何かが成り立っている人達なんだろうな、と思いながら、死んだ。



 次に気が付いたときには、既に、2番目の親の下に生まれて来ていた。最初の家で生きていた頃のことは、思い出し、忘れ、また思い出し。その繰り返しの中で、僕は、死ぬ前と生まれ変わった後、両方の記憶を持っていることに困惑しなくなっていった。

 2番目の家の父は、よく、「ありがとう」を口にする人だった。食事のとき、パンにバターを塗ろうとして、先に塗っていた母からはいとバターナイフを渡されて、ありがとう。キッチンでお皿を洗っている間、運び忘れていたコップを僕が運ぶと、ありがとう。こんなちょっとしたことでありがとうと言っていた。そして母も同じように、ちょっとしたことで、父にも僕にも、ありがとうと言っていた。

 分からなかった。2番目の家は、正しいのか。この家では、夜、怒鳴り声が上がることがほとんどなかった。最初の父親が見せていた誇りのようなものは、この家にはなかった。

 その代わりに、父と母の間には、会話があった。お互いに話をして、聞いて、笑い合っていた。そこには不思議な柔らかさがあった。


 やがて、再び小学校に上がる時が来た。

 入学式が終わった後、教室で、僕は鉛筆を落とした。すると隣の席の子が拾ってくれた。「ありがとう」。僕はそう言った。そうしなければならないと思ったからじゃなく、自然に。

 すると、何故か、柔らかいものを感じた。父と母がいつも見せているものだった。最初の小学校では感じたことのないものだった。いや、存在するけれど僕には触れられないと感じていたものだった。あの頃の僕が触れると壊してしまう、柔らかい何か。皆が僕を遠ざけていたのはこれを守るためだったのかもしれないと、何故かそう思った。

 2番目の小学校では、皆に避けられることは、なかった。



 小学校の6年間はあっという間に過ぎた。いつも周りに友達がいて、運動会のときも修学旅行のときも、一緒に話をしてくれる仲間がいて。

 流行の遊び、アイドルの新曲、新作のドラマ。同じ話題を共有できる仲間たちの間で、僕は、自分がこの場所にいても良いものだと思うことが出来た。将来の夢、大人になったらやりたいこと。そう聞かれて、すぐに答えが出るような問いじゃなかったけれど、それでも苦しく思わずに済むようになっていた。

 そして中学が過ぎて、高校が過ぎて、大学、就職。やがて結婚して、妻が妊娠した。

 出産を待つ長い間、僕は不安に襲われたことがあった。この子は、僕が最初の小学校で味わったような、皆から避けられる目に遭いはしないだろうかと。僕は、自分の子どもをちゃんと育てられる、ちゃんとした親になれるだろうかと。

 そんなある日、ただぼんやりと流すように点けていたテレビで、また、出た。親の恩義は無限大、という言葉が。視聴者からの相談に当時話題だった人物が答える、という番組で、このときは、親の死後に多額の借金があったことが発覚して自分の生活が苦しい、という相談に、親への文句を言うな、お前が生まれて来られたのはそもそも親のおかげだ、親はお前を育ててくれたんだ、親に感謝しろ、と答えていた。こういう人物だった。普段から、年下のタレントに対して遠慮なく叱りつける態度を取る人で、その姿がテレビでは受けていた。この番組もその受けを狙ったものらしい。多分、相談は、作り話だ。

 くだらない、と思った。同時に、最初の父親ならこういうのが好きそうだな、とも思った。きっとそうした層から人気を得ているのだろう、と。すると、テレビの画面が消えた。消したのは妻だった。


「胎教に悪い」


 妻はそう言って、リモコンを置いた。「ありがとう」。僕が言うと、妻は「ん」と返してくれた。

 その夜、寝付かれなかった僕は、久しぶりに最初の父親のことを考えた。何故彼は、子どもは親に感謝をするものだということを、あんなにも信じて疑わなかったのか。彼は、およそ、母親に対して怒鳴らない日というものがなかった。彼は僕に対してだけじゃなく、母親に対しても、自分への感謝を示して当然の存在、とでも思っていたのだろう。

 大義名分はあった。最初の家庭では、生活費を稼いでいるのは父親だったから。それが大義名分になると本気で信じ込めているのならば、自分に感謝をしない家族に怒鳴り散らす真似をしても、恥ずかしいとは思わないだろう。でもそこには矛盾がある。妻子というものが養ってやっているだけの存在だというならば、初めから家族など持たなければいい。自分に感謝するだけの存在を彼がわざわざ抱え込んだというならば、それは、彼が、感謝されたがっていた人間だということだ。

 その姿はまるで、ごっこ遊びに興じる子どものようだった。英雄を演じたい、でも遊び仲間が意地悪をして台本通りに演じない、だから思った通りに英雄になれない、そこで癇癪を起こす。そんな子どものように。

 この家が嫌ならば出て行け、が、彼の口癖だった。そう言っておけば相手は謝るしかない、という期待が見えすいた顔で。家族が自分に対して謝るということを喜んでいる顔で。

 何故彼は、そうなったのか。ただ威張りたいだけの男だった、とも理解できた。昔の僕は、そうだとだけ思っていた。でも昼のテレビのことで、もう一つ、見えた。彼にはおそらく、不安もあったのだろう。自分がちゃんとした父親になれるか、という不安が。そして自分を安心させる言葉を求めた。それが、親への感謝。

 子どもは親に感謝をして当たり前、ならば、親が感謝されない場合、子どものほうが悪い。子どもが悪いのだから、感謝をされない自分は悪くない。親だという事実一つで、自分自身を何も問題のない人間だということに出来る。彼はこの方法で不安を断ち切った。だとしたら何のことはない。自分一人が不安から逃げて、その皺寄せを妻子に押し付けただけだ。親への感謝なんていう、誰が言い出したか分からない、そして誰も責任を取らない、綺麗そうに見えて実は自分に都合の良い言葉に酔って、いつの間にか支配され、支配されたということにも気付かず、自身も家族を支配する父親になった。

 本当にそうだったのかどうかは、分からない。でも少なくとも、2番目の父と母はその言葉に頼らずに生きていてくれた。2人は、自分達の中に生まれる不安から、自分たちを律し続けていてくれた。

 僕は暗がりの中、首を横に向けた。妻が寝息を立てていた。胎教に悪いと言ってテレビを消した妻。僕は、この人と一緒なら戦えると思いながら、目を閉じた。



 結局その子は無事に生まれ、その後に生まれた2人の子どもと共に無事に育ち、やがて皆、結婚した。僕たちの孫も生まれ、父と母が他界し、いよいよ、僕の順番が回ってきた。末期がんだった。平均寿命よりは一回りほど早い、余命宣告。

 一度生まれ変わっているから、その分、寿命から差し引かれたのだろう。それでも、父と母のように、僕は妻にちょっとしたことでありがとうと言い、妻もちょっとしたことでありがとうと言ってくれる日々を過ごすことが出来た。子ども達の夫婦も円満で、孫も健やかに育っているらしい。

 今、僕の周りには、妻と、子ども達と、孫達が集まってくれている。病院が連絡をしてくれたのだろう。その時が近づいていると、自分で分かった。

 そして目を閉じる直前の瞬間。


「ありがとう」


 僕はそう言った。そうしなければならないと思ったからじゃなくて、自然に。僕は、いつもそばにあった柔らかいものを、より一層、強く感じた。

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