ARジョッキ

酒囊肴袋

第1話

重苦しい沈黙が、帝都ビール本社の第一会議室を支配していた。議題は、来年度から施行される酒税法の改正案。プロジェクターが映し出すスライドには、酒税の無慈悲な右肩上がりのグラフが描かれている。


「またか……」


商品開発部の佐藤は、手元の資料に目を落としながら呟いた。かつて、国民的飲料だったビールは、度重なる増税の標的となった。会社は知恵を絞り、麦芽比率を下げた「発泡酒」を開発して対抗した。すると、国は発泡酒に狙いを定め増税。次は、麦芽を使わない「第三のビール」で活路を見出したが、それもまた増税の対象となった。まるで、こちらの動きを先読みするかのような、執拗な追撃だった。


「残された道は一つしかありません」


マーケティング部長が、重々しく口を開いた。


「酒税のかからない、ノンアルコールビール市場への本格参入です」


しかし、その道が茨の道であることは、誰もが理解していた。ノンアルコールビールの売上は思うように伸びない。消費者アンケートには率直な声が並んでいた。

『味は悪くないけど、やっぱり物足りない』『仕事終わりの一杯にはならない』『健康のためと割り切って飲んでいる』

「消費者は正直ですね」佐藤は苦笑いを浮かべた。

「アルコールを感じないノンアルコールビールでは、限界があります」


会議から数週間、佐藤は行き詰っていた。どうすれば、アルコールなしで、あの「ビールらしさ」を消費者に届けられるのか。ネットサーフィンをしていたその時、彼の目に一本の記事が飛び込んできた。


『電気刺激で塩味を補強する魔法のスプーン』


記事には、微弱な電流を舌に流すことで、減塩食でもしっかりとした塩味を感じられるという研究が紹介されていた。佐藤の脳裏に、稲妻のようなひらめきが走った。


「これだ。電気刺激で、アルコールを感じさせることはできないか?」


佐藤は早速インターネットで関連論文を漁り始めた。そして、一人の研究者にたどり着いた。東都大学の加納教授。味覚の電気刺激研究の第一人者だった。佐藤は勢いでメールを書いた。


『ノンアルコールの領域で、“飲酒の気分”を再現する道具を共同開発できませんか』


翌週、大学の古い校舎の一室で、加納教授は我が意を得たりとばかりに軽く笑った。


「塩味だけじゃありませんよ。微弱電流は、舌の複数の領域に作用します。苦味の輪郭、うま味の立ち上がり、炭酸のピリピリ感に近い触覚だって、錯覚として再現できる。アルコールがなくても、“あの瞬間”を再現できるはずです」


「“あの瞬間”?」

「最初のひと口で、喉の奥が“行こうか”と前のめりになる、あの気分ですよ」

「本当ですか」佐藤は身を乗り出した。

「ええ。ただし、実用化には相当な研究が必要でしょう。特に、ビールジョッキに組み込むとなると」

「ぜひ、共同研究をさせてください」


こうして、前例のない研究プロジェクトは、工場隣の開発棟で始まった。グラスの縁に極薄の金属リムを仕込み、唇が触れる瞬間にだけ微弱なパルスを送る。

佐藤たちはそれを、社内でAR(拡張現実)ジョッキと呼び、いつしか愛称のようにエールジョッキと呼ぶようになった。


試作三号機が、初めて“それらしく”動いたのは、雨の午後だった。

佐藤は工場の試験室で、空のジョッキを手に取った。縁に触れる。舌の奥が、ほんのわずかに前に出る。鼻腔の高いところでホップの青さがほどける。内壁の泡は、視界の端で弾け、耳の奥で薄いざわめきが立ち上がる。

加納教授が言う。「今の、感じましたか。“行きたくなる喉”」


「……はい」

佐藤は思わず笑った。アルコールがなくても、“ひと口目”が来ていた。


試行錯誤の末、半年後に社内審査を通る製品が完成した。一見普通のビールジョッキだが、飲む人の唇に触れる部分から、計算された電気刺激を与える仕組みだった。


エールジョッキの完成後、ビール工場の見学ツアーで、恐る恐る試飲会を開催した。ノンアルコールビールをエールジョッキに注ぎ、来場者に試してもらう。

「おお、これは」

「本当にビールの味がする」

「酔った感じまでするぞ」

上々の評判だった。参加者の九割が「満足」以上の評価をつけた。


手応えを掴んだ会社は、直営のビアホール「帝都ビアタウン」全店にエールジョッキを導入した。「エールジョッキ体験」は瞬く間に話題となり、連日満席が続いた。運転手や妊婦、健康志向の客まで、幅広い層が押し寄せた。

そして何より重要だったのは、エールジョッキが自社のノンアルコールビール専用に調整されていることだった。他社製品では最適な効果が得られず、ノンアルコールビール市場は帝都ビールの独り勝ち状態となった。


「ついに見つけましたね」佐藤は満足げに呟いた。

「酒税を完全に回避しながら、本物以上のビール体験を提供する方法を」


風向きが変わったのは、新聞の経済面に税収の折れ線グラフが出た頃だ。電話会議の招集通知が届く。件名は「感覚増幅機器に関するヒアリング」。

霞ヶ関の会議室。省庁の名札が並び、資料が配られる。


「酒税は、これまで“成分”に課税してきました」国税の担当官が淡々と言う。「しかし、実勢として擬似飲酒体験が市場を置換しつつある。公平性の観点から、ARジョッキに対する課税を検討します」


「アルコールは入っていません」マーケティング部長が繰り返す。「健康面でも、飲酒量の抑制に寄与しているというデータが――」


厚労の担当も口を開いた。「医師会の一部からは肯定的な意見が来ています。ただし、過度な“擬似酔い”の誘発については、行動上の安全リスクを懸念する声もある」


「愛飲家の団体は?」佐藤は尋ねた。

「“酔いの儀式を奪うものではない”という意見と、“文化の変質だ”という批判が拮抗しています」担当官は紙をめくる。


資料には「酒類似体験デバイス税」という文字が、不吉に光っていた。

「アルコール摂取感を人工的に再現する機器に対し、適正な課税を行う」という説明文が続いていた。


法案は粛々と通り、ARジョッキに対する課税が決まった。ARジョッキ一台につき、三千円の特別税が課されることになった。これまで八千円だった販売価格が、一気に一万一千円に跳ね上がる。


「また振り出しに戻りですね」

佐藤は窓の外を眺めた。発泡酒、第三のビール、ノンアルコール、そしてエールジョッキ。知恵を絞って編み出した抜け道は、ことごとく塞がれていく。

佐藤はコーヒーを一口すすった。長い戦いは、まだまだ続きそうだった。

「今度は何を考えましょうかね」隣の席の同僚が、乾いた笑いとともに呟く。

イタチごっこは、まだ終わらない。

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