無知の恥
白菊
牛丼屋にて
「無知の知ってあるじゃん」
田中がいったとき、注文していたものが届いた。「牛丼大盛りですねー」
どうも、と店員を見送って、中村は水を飲んだ。田中は箸をとった。
「で、なんだっけ、ムチ?」
「知らないことな」
「ああ、なんだ」小難しい話になるのを予感して、中村は嫌になった。「引っ叩くやつかと思った」
田中は「だろうと思った」といって、紅生姜の器をとった。
中村のコップの中で、氷がコロンと音を立てた。「アリストテレスだっけ」
「……」
中村はカラになったコップに水を注いだ。「で、それがどうしたよ?」
「いや、だってすごくね?」田中は一掴み、紅生姜を牛丼にのせた。「無知であると自覚することが成長の一歩だ、って」
「そう? 無知なこと知ったら、恥かくじゃん」
「知っていけばいいわけだろ?」
「その知っていくときに恥をかくじゃんか」
「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥っていうだろ?」
「聞いても一生恥かくと思うんだけど」
田中はもう一掴み、紅生姜をのせた。「なんでだよ」
中村は牛丼を頬張った。「だって知らないことって一個だけじゃねえだろ?」
「まあ……そうだろうな」
「それじゃあ一生恥をかくんだよ」
「そういうことにはならねえだろ」
「いや、そういうことだって」
「なんでだよ」
「だから……」中村は口が満足するまで牛丼をかきこんで咀嚼した。
「いや答えろよ」
やっと飲み込んだ。「だって食ってたから」
「食ってんなよ」
「お前はさっさと食えよ」
田中はもう一掴み紅生姜をのせた。中村は牛丼の上にできた赤い山を、わずかに顔をしかめて眺めた。
中村は水を一口飲んだ。「えっと……だからまず、知らないことがあるだろ?」
「ああ」
「それを聞いて恥をかくだろ?」
田中はまだ紅生姜を盛った。「恥だと思わなければいい」
「んなドウガンムチな」
「童顔じゃねえよ。たしかに子供は常に羞恥心より好奇心が勝ってるけど」
「で、また知らないことが出てくるだろ?」
「うん」
「それを聞いて恥をかくんだよ。なにかも積もればなんとやらって、一瞬一瞬の恥が繰り返されて、結局、一生恥をかき続けることになるんだよ」
田中はもう指摘するのを諦めた。「まあまあ……。生きてくってそんなもんなんじゃねえの?」
「だったら、知らないで済んでたことをわざわざ知りにいく必要はないんだよ」
「いや、そんじゃ一生の恥だろうが」
「なにが違うんだよ、誰かに聞いて知っていくにしたって、どうせ一生恥を繰り返すんだ。いいから早く紅生姜食えよ」
「牛丼も食わせろよ」田中は最後にまた一掴みとって、ようやく器を返した。真っ赤になった牛丼を頬張った。
中村は水を飲んで息をついた。「で、俺がいいたいのは、なんだって急にそんな難しい話を振ってくれたんだってことなんだよ」
「別に難しくねえだろ」
「いや難しいって。なんだよ無知の知って。無知は無知でいいだろうが。引っ叩くぞ」
「ムチで? やめろやめろ」
「俺はお前とこんなアリストテレスの気取った話なんかしたくねえんだよ」
繰り返されたらだめだった。「アリストテレスじゃねえんだよ」
「じゃあなんだよ?」
「ソクラテス」
「……」中村はまた一口、水を飲んだ。
「でまあ、とにかく、俺はお前と牛丼を食いにきたのであって、こんなヘラクレスの考えについて議論したいわけじゃねえんだよ」
「カブトムシじゃねえって、ソクラテスは」
「で、まじでなんで急にこんな話始めたんだよ?」
「いやさ、哲学ってなんだろうなと思って」
「おまえのそれだよ」
「で、調べたら、いろんな人のいろんな考えが出てきたんだよ。そん中でわかりやすくて面白かったのがこれだったんだ」
「それでこのバカな俺と議論を? 面白かったか?」
「まあ……結局、人って本当に知識を得ることってできないんだなって思った。一生かけても、知らないことはなくならない……」
「なんで深いところ入ってんだよ。俺はこの話題から抜け出したかったんだけど」
「じゃあ『知る』ってなんだろうな?」
「知らねえよ落ち着け、話をしよう」中村は左手にどんぶりを、右手に箸を持ったまま、まっすぐ田中を見た。「俺の話を聞け。知っても知らなくても恥はかくんだから、今はまず、牛丼をうまく食おう、な? まったく今回もそんなに紅生姜のっけて……前から牛丼に紅生姜なんかいらないっていったのに聞かないから、頭がおかしくなったんだよ」
「いや、頭がおかしいから牛丼に紅生姜をのっけるのかもしれない……」
「頭おかしい自覚はあるのかよ」
田中がいたずらが成功した子供みたいに笑ったから、中村もやっと小さく笑った。
重たい扉を開けて店を出ると、もわんとした熱気に息苦しくなった。
「あっついなー……。しかし田中、おまえほんっとに紅生姜好きだよな」
「いや、別に好きじゃない」
「……あ、そう。知らなかったわ」
「せっかくタダなら食っとこうと思って」
中村は自動販売機が目に入って、飲み物が欲しくなった。「よっしゃ、カラオケいこうぜ。三回勝負で点が低かった方が、ドリンクバーのパシリな」
「お、いいぜ。アニソン縛りな」
「うわあ、まじか……。演歌がよかったなあ」
「んなの俺らじゃ『夜桜お七』縛りだろうが」
ふたりが笑うと、せみも元気に鳴き出した。
無知の恥 白菊 @white-chrysanthemum
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