ライオンのいない動物園

デンノー

ライオンのいない動物園


 僕の横を歩いていたチハルは、今、目の前のウサギに釘付けになっていた。

 彼女は今までペットを飼ったことがないらしく、動物園に入ってからずっとはしゃいでいる。


 僕もチハルの横で座れば、ウサギが僕の方にも寄ってきた。といっても、その目は僕ではなく手に持った餌を見つめている。

 僕が仕方なく餌をやろうとした時、チハルが代わりに餌をやった。

 ウサギのふれあいコーナーは、どうやら彼女のお気に入りになったようだ。






 僕は、二回目のふれあいコーナーで、前にも見た飼育員を一瞥した。

 あの時は、チハルじゃなくて僕がはしゃいでいたっけ?

 でも、その時は結局僕一人が餌をやっていたから。今回はチハルが餌をやれて良かった。

 

 後から思い返せば、滑稽だった動物園デートも新しい思い出で上書きできればいい。

 僕とマコトの一年前の今頃――あの輝いて見えていた日々を思い返していた。

 

『うわ、このウサギ! 凄く懐いてくるよ』

『餌に目をやってるのよ。あなたになんてウサギは興味ないわ』


 マコトはそう言っていた。確かに今のチハルと同じで、ウサギは餌を食べ終わると人の手が届かない奥へと走っていく。

 一年前と同じような光景に、僕は思わず笑ってしまった。

 そんな僕を見てチハルが文句を言うが、そんなところも一年前の僕によく似ていた。


『ウサギって薄情だよね? もっと触りたかったのに』

『誰だって、興味ない人から触られたくないわ。ウサギも一緒よ』

『餌あげたのになぁ』


 あの時は、全然分からなかったが思い返せば、マコトも僕に微塵も興味なかったのだろう。

 いくら、僕から告白して付き合えたと興奮していたのは僕だけで、マコトの心はそうじゃなかった。






 12時の鐘が鳴る。その特徴的な音色は一年前と一緒だった。

 チハルは僕に昼のご飯を誘う。それに僕が答えればその手を取ってフードコーナーまで歩く。


『あなたの手、そのままで触らないでよ』

『あぁ。ごめんね! お手洗い行ってくるから!』

『私、お店まで行ってるから』


 本当に恋は盲目だった。マコトの吸い込まれそうな大きな瞳、甘い声、白いノースリーブが映える艶やかな黒髪と陶器のような肌。その全てに狂わされて、僕は恋をしていたんだ。

 

 あの頃の僕は、初めて恋をした人とのデートに一人で舞い上がった。思い出したくもない、恥ずかしい記憶だ。

 





 チハルと僕は適当に選んだ店に入る。一年前と同じ店だった。

 特段混んでいなかった中で、僕たち二人はすぐに席に案内された。対面に座るチハルはメニューを見て唸っている。

 僕は、「お金はあるから何でも頼みなよ」と言ってもう少しチハルの事を待つ。

 その言葉に、「大丈夫? ホントにいいの?」と聞いてくるチハルに笑う。


「午後も歩くから、食べ過ぎないでね」

「陸上やってたから平気だよ! よし、決めた!」


 頼むメニューが決まったようだったからアラームを鳴らした。すぐに店員が来れば、先に僕の分を頼む。その後のチハルは僕の倍は頼んだ。

 本当によく食べるよなと思っていると、チハルが察したのか、これは僕も食べる分だと言う。あまり食べない僕を心配しているのか。チハル一人で食べると他人に思われたくないのか。どっちにしても僕は満腹でこの店を出るのだろう。






『ねぇ、こんなに頼んでも私、食べないわよ』

『でも、珍しいものもあるし、味見だけでもいいじゃん。あと全部僕が食べるよ』

『私、ダイエット中なのよ? わかってよ、それくらい』

『じゃあ僕が全部食べるよ』

『あなた、イルカショー見たいんじゃないの? 食べてたら間に合うの?』


 一年前は、頼んだメニューのほとんどをキャンセルして失せる食欲を紛らわせながらマコトに合わせて軽く食べる。

 

 店を先に出るマコトに慌てる僕は会計をする。あの時の居心地はもちろん最悪だった。それでも、彼女の機嫌を損なわせない方があの時の僕にとっては最優先だったのだ。

 店を出てマコトを探せば、携帯を触りながら待ってたマコトを連れて、彼女の言う通りイルカショーを見に行った。






 店員が料理を運んでくる。

 僕達の前に並ぶ料理の数々に目を輝かせるチハル。あの時よりも多い料理の量に僕は内心この量食べ切れるのか不安になった。


「イルカショーまで時間大丈夫?」


 僕は、自分で頼んだピラフを口に付ける。

 チハルは、パスタを器用に巻いて既に三口程度食べている。

 

「無理かも。……また来たらいいじゃん! 今は腹ごしらえ!」

「ダイエットしてるんじゃ?」


 チハルからうめき声が聞こえる。恨めしそうに僕を見る目はあの時のマコトの呆れたような瞳とそっくりだった。


「今日はチートデイにします! ダイエットはまた明日!」


 明日もチートデイの予感はする。

 チハルがおいしそうに頬張る姿を見て僕もピラフを平らげてから、チハルが頼んだ料理に僕も手を付ける。

 チハルは、「やっぱり食べるじゃん!」と自慢げにピザを食べ出した。






「ホントおなかいっぱいだよぉ」

「おかげさまで。僕もだよ」


 食べ終わってから、予想外に掛かったお金を払ってお店を出た僕たち。

 店の隣にある自販機で飲み物買って、ゆっくり動物園を見て回る。

 

 さっきまでイルカショーをしている音が僕らまで聞こえていた。僕は一度見ているからもういいけど。

 チハルは、今からでも行きたそうにしていた。

 僕がチハルに聞けば、「また来たらいいから!」と返してくる。


「コウタ?」


 チハルが僕を呼ぶ。別に何もないとは思うけど、横で歩く僕はチハルを見る。


「楽しい?」


 その問いに僕は答えられない。あの時マコトに同じ問いをされたら僕は楽しいって言うと思うけど。

 ただ、マコトとは半年前に僕は別れたのだ。勝手に舞い上がっていた僕を、彼女はその冷たい目で振られたのだ。


「うーん? イルカショー見れてないから今のところどうかな?」

「えー。もう終わったじゃん! じゃあさ他に見たい動物いる?」


 僕は少し考える。

 あまり興味のある動物もいまはいない。強いて言えば。


「強いて言えばライオンかな」

「いいね! ライオン! 見に行こうよ!」

「奥の方のはずだよ? 最後でも良いって。いまはゆっくり歩いてさ、他の動物見ようよ」


 僕の言葉に少しふてくされるチハル。

 誘ってくれたチハルには悪いけど満腹では、ここから動物園の奥まで歩き続けるのはしんどいのだ。






『また腹の音なってるじゃん。何回目なの?』

『……ごめん。全然食べれなかったからかな。僕お手洗い行ってくるよ』

『……私、先歩いてるから』


 今、チハルと歩く道で恥ずかしいことを思い出す。

 イルカショーをマコトと見た後、マコトと動物園を見て回れば昼ご飯をあまり食べなかった僕のお腹が鳴っていたのだ。

 人が少ない時間帯だったから、幸い、あまり気にされなかったが。マコトは僕から少し離れて歩いていた。

 お手洗いに行っては、給水機でとりあえず腹を満たすぐらいしかあの時は出来なかった。






「チンパンジーいるじゃん! 皆こっち見てるね」


 チハルと歩けばチンパンジーの展示があった。

 反対には色々な鳥類の展示もあったが、チハルはチンパンジーに夢中になっている。


「ねぇ! これ知ってる?」


 そう言ってチハルは目と口を片手ずつ塞いだ。その手で収まるくらいに小さな顔を両手で隠すのは少しバランスが悪いと思うけど。チハルが何を示しているのか僕にはよく分からない。

 首をかしげる僕に、目と口を開けて少し怒るチハル。


「もう、有名な猿だよ? 徳川家康の神社のさ」


 あぁ、三猿のことか。見ざる聞かざる言わざるの。チハルが目と口を塞いでいたのは見ざると言わざるだけ。聞かざるはないけど。


「私、チンパンジーにしてみたかったの! コウタ! 耳塞いでよ」

「いいの?」


 僕が尋ねても、チハルはやる気満々だった。目を塞いでいたら見えないと思うけど。

 チハルがチンパンジーの檻に向けて自身の目と口を塞ぐ。僕はチハルの暖かい耳を抑えた。


 ほら、チンパンジーは全然こっちを見ない。僕たちが三猿をやってもチンパンジーには興味ないだろうさ。

 三猿ってニホンザルがモデルじゃなかったっけ?

 だったらチンパンジーとは無縁の話だ。


 チハルが両手を顔から離す。僕も合わせてチハルの耳から手を離せば。


「やっぱりダメだったか! お姉ちゃんに騙されたよ」

「え。見えてたの?」

「目の隙間から見てたよ。それが?」


 なるほどね。それじゃ見ざるはなかった訳か。僕はてっきり三猿をしているとバカ正直に信じてしまった。

 チハルは気づいたのか。僕をいじってくる。

 チンパンジーに満足したのか歩き出すチハルに、手を引かれて僕も歩き出す。






『鳥、好きなの?』

『好きな方よ。鳥は』

『何で?』

『何でって。別に色んな場所に飛んでいけそうだから』


 マコトはそう言っていた。

 結局、僕と別れたマコトはそのすぐ後にスウェーデンまで留学している。僕は誘われる事もなかった。

 

 捨てられたのかと自虐していたけど、多分最初から見向きされていなかったと思う。

 男友達もバイト先の人もすぐ別れるって僕に直接言うくらいだったし。






 歩いていると、次第にアフリカの動物たちの展示が増えてきた。

 シマウマ、キリン、サイ、ヌー、そしてゾウ——ここも一年前と変わらない。


「もうすぐライオンかもね」とテンションを上げるチハルとは対照的に、僕は歩き疲れていた。

 少し休もうとチハルに言えば、自販機で何か買ってくると歩き出す。

 僕は、近くにある前と同じ位置のベンチに腰掛けた。


『あのさ、最後に観覧車乗らない?』

『何で?』

『思い出にどうかなって思って』

『嫌よ。思い出作りだけで観覧車って子どもらしい』

『そっか』


 このベンチで話した内容は今でも覚えている。

 鳥類の展示を見てからずっと、携帯を見ていたマコトに僕は話を振り続けていた。あまり話もつながらなかったけど。

 ウサギのふれあいコーナーから携帯触っていたっけ。まぁいつからでもいいか。

 

 どのみちマコトにとっては最後のライオンを見るまで全部興味なさそうだったのは覚えている。






「これでいい?」


 チハルが自販機から戻ってきて僕にスポーツドリンクを持ってくる。

 何でも良かった僕はチハルにお礼を言ってチハルの分のジュースのお金を渡す。


「お金はいいよ。お昼ご飯を奢ってもらったお礼だから!」

 

 そう言うチハルは僕の横に座る。オレンジジュースを買ったのか。

 一緒に休憩する僕たちは、バイト先の話や大学のことなど色々話した。

 笑ったり驚いたりして話していればちょうど時計は十六時を回る。


「早くしないとライオン帰るんじゃない?」

「かもね。ゆっくりできたし歩こう」

「話しすぎて喉渇いちゃったよ。ほんとコウタとは話あうよね」


 そう言ってオレンジジュースの残りを全部飲もうとするチハル。

 もうないペットボトルを見て悲しそうなチハルを見て僕のスポーツドリンクを渡す。

 チハルは「ありがとう」と言って、スポーツドリンクを飲み干した。

 





『喉渇いてない?』

『何でも良いから買って来て』


 そう言われて水を買いに走ったことも。


『暑くないアイスとか要る?』

『日陰ないの? 日焼けしたくないんだけど』


 そう言われて僕が日傘を持って歩いたことも。

 色んな事をしてもマコトから返ってくるものはなかった。

 

 別に期待していたわけじゃない。僕を見て欲しかったんだ。

 気まぐれで付き合ってくれたことも、暇つぶしでデートしてくれたことも分かっていた。

 ただ、マコトの瞳が一時でも僕だけを見てくれていればそれで良かった。






 僕たちは、草食動物を展示するエリアを抜けて肉食動物のエリアに入る。

 檻の中を見れば、チーターやトラ、クマなどがいる檻がある。

 横のチハルは少し怯えたような格好をしていた。チハルの手を握ってくる力が強くなる。


「結構怖いね。肉食の動物って」

「そうかな? 檻があるし池もあるし大丈夫だよ」

「そうじゃなくてさ。こっちを見る目が怖いの」


 がさつなところもあって、朗らかな元気印のようなチハルも怖いものはあるらしい。チハルの新しい一面が見れた。

 僕たちを見てくる肉食動物に感謝だ。






『……思っていたより大したことないんだ』

『どうしたの?』

『肉食の動物がこっちを見る目がどんなものかと思ってたけど、大したことない』

『そっか』


 マコトと歩いた時は、見てくる肉食動物に内心ビビっていた僕。

 彼女は、携帯から目を離してそう言って笑いもしなかった。

 大学でも愛想笑いをする彼女は見た事があったけど、僕と二人の時は全く笑わなかった。






 動物園の一番奥にある檻にライオンはいない。

 今日はライオンの展示はない日だったらしい。


「えぇー。ライオンみたかったのにー」

「良いじゃん。またチハルと一緒に来た時、見られればさ」

「でも、今日誘ったの私だよ? コウタはゲストなのにさ」


 そう言っていじけるチハルに苦笑いが出る僕。

 頬を膨らませて文句を言うチハルを見るけど、僕はこれで良かったと思った。

 いないライオンの檻を見て、僕の心に刺さっていた違和感の棘がとれたような気がしたのだ。






『ライオンがいなくなったらもう来ないわ』


 マコトの目の前の檻には、オスのライオンが一頭とメスのライオンが三頭展示されていた。

『何で』と聞く僕に、マコトはずっとライオンを見る。


『ライオンがいない動物園に価値ある?』

『ライオンって、他の動物とは違うのよね』


 マコトの話す言葉に一年前の僕は言葉を口にできない。

 マコトがあの日一番話してくれたことを、邪魔したくなかったのかもしれない。

 一拍おいて、またマコトが話した。


『気品があって……全部を見通すような目をしている』

『私、ライオンみたいになりたいの。主役でいたいから』


 ずっとライオンを見るマコトに、僕は彼女の言葉を理解できなかった。

 特にマコトが言った、主役っていう言葉があの日に刺さったのだ。


 でも今の僕なら、マコトに同じ事を言われても言い返せる。

 僕のあの輝いて見えていた日々はずっと主役を支えていたのだ。だから分からなかった。理解できなかった。

 

 あの日々はマコトが輝いていたから。僕にとっての主役はマコトだったから。

 でも、僕は主役を支える立場じゃなくなった。僕がマコトと付き合えたのも、結局マコトという主役を支えられるか見る試験だったと思う。 その試験に僕が落ちただけ。だから振られた。

 僕のような人は過去にたくさんいただろう。

 だからマコトは、日本を飛び出して支えてくれる人を探している。

 そう思えば、僕の心の棘がなくなったように軽くなる。






 ライオンの檻から動物園を出る最中もずっと文句を言っているチハルが、どうしようもなく愛おしく思えた。

 

 誰かを支えたいと思うことはとても良いことだ。でも、少しでも支え返してくれないと支えている方は疲れる。

 疲れないように、二人が思いやりを持つべきだったのだ。僕もマコトも。


 動物園のエントランスに帰って来れば、夕日が僕たちを出迎える。


「ねえ……去年より、今日の方が楽しい?」


 チハルがそう聞いてくる。そっか。一年前に僕が来ていたこと知ってたんだ。

 少し自信なさげに聞いてくるチハル。イベント事が全然できなかったからね。

 

「今日が一番楽しいよ」


「なにも見られなかったのに?」

 

「見られなくてもさ。チハルと一緒にいて。それだけで楽しかったよ」


「コウタが見たいって言ってたライオンはいなかったけど……ホントに?」


 僕が、「うん」と言えばチハルは少し顔を赤らめて照れる。

 西日に当たる茶色の髪はボブカットにしていて、チハルがその髪をくるくる回していじった。


「だったらさ、チハルに聞いてほしいのだけど」

「え。なになに!?」


 チハルが僕の言葉に動揺した。

 別にとんでもないことを言うつもりはない。ただ、今日この動物園に誘ってくれたこと。

 マコトと別れてから、陰気な僕に告白してくれたこと。

 僕の心の棘を外すきっかけをくれたこと。

 

 その全てに感謝してることを伝えたいだけ。だからちゃんとチハルの目を見る。

 少し震えているチハルの肩に手を置く。チハルが急に目を閉じる。

 それでも僕が前に進むためには、チハルに聞いてもらわなければならない。

 

「僕は、チハルがいてくれればそれだけでいいよ。僕にとってのライオンは、これから先もずっとチハルなんだ」

 


 輝いて見えていた日々はもうない。

 あるのは、傷ついた心をチハルが癒してくれた僕と、そんな僕に寄り添ってくれる彼女だけだ。

 それだけで十分だった。

 もう、身の程知らずな恋なんてごめんだ。あんなものは呪いと同じだから。






 動物園から出た僕は後ろを振り向く。いくら振り返ってもそこにライオンなんていない。

 ただそこにあるのは、夕日に照らされた僕たちの影が、色濃く地面に伸びているだけだった。

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