晴れる世界ハルの隣に
@tanakasatoshi48
第1話
僕は世界でたった一人ぼっちだった。
ランドセルを背負い、誰もいない公園のブランコに揺られていた。夕焼けに染まる空は、僕の心と同じく、誰にも見向きもされないまま、静かに燃えているように見えた。小学三年生の僕には、友達と呼べる存在がいなかった。いや、いたのかもしれないけれど、僕がうまく話せないから、みんな僕を避けていく。僕の声は、きっと世界で一番小さな声で、誰も聞き取れないのだ。
ブランコを漕ぐ足が止まる。ふと、草むらからか細い鳴き声が聞こえた。それは、まるで僕の心の声が形になったような、頼りない「みゃあ」という声だった。
僕は音のする方へ、ゆっくりと歩み寄った。草をかき分けると、そこにいたのは、手のひらに乗るほどの小さな、黒い塊だった。まだ目も開いていない、弱々しい子猫。僕と同じように、世界に一人ぼっちで迷い込んでしまったようだった。
その子猫は、僕の指に、震える小さな鼻を押し付けてきた。温かい。その小さな命の温かさが、僕の心臓にじわりと広がっていく。まるで凍っていた湖に、そっと小石が投げ込まれたかのように、僕の心に小さな波紋が広がった。
僕は子猫をそっと両手で包み込み、自分の胸に抱きしめた。子猫はぴくりとも動かない。生きているのかも分からないほどに小さく、そして、温かかった。
「……お前も、一人なんだな」
僕の声は、いつもより少しだけ、大きかったような気がした。
家に着くと、お母さんが驚いた顔で僕を見た。僕が何かを拾って帰ってくるなんて、想像もしていなかったのだろう。
「ハル、それは…」
「ね、猫。公園にいたんだ。多分捨て猫」
僕は一生懸命、言葉を紡いだ。こんなに必死に話したのは、初めてだったかもしれない。子猫の命が、僕の言葉を引き出してくれたようだった。
父さんは最初は渋い顔をしていた。動物を飼うのは大変だ、と。でも、僕が子猫を抱きしめている姿を見て、僕の目の奥に宿る、決して消えない光を見たのかもしれない。
「…わかった。ただし、世話は全部ハルがやるんだぞ。約束だ」
父さんはため息をつきながら、そう言ってくれた。僕は嬉しくて、子猫を抱きしめたまま、何度も頷いた。
その日から、僕の世界は変わった。僕の部屋の片隅に、子猫の居場所ができた。最初はミルクを飲むこともままならなかった子猫は、日に日に大きくなっていった。目を開け、よちよちと歩き、僕の指を小さな爪で引っ掻くようになった。
僕はその子猫に、僕の心の中でしか発することができなかった言葉を、たくさん話しかけた。「おはよう」「ご飯だよ」「今日ね、学校でね…」。子猫は僕の言葉を全部聞いてくれた。まるで、僕の声を世界で一番大きな声だと思ってくれているみたいに。
僕は子猫に「ルカ」と名前をつけた。それは、僕が初めて心を開いた相手の名前だ。
ルカは、僕の小さな影だった。僕が本を読んでいると、膝の上で丸くなる。僕が泣いていると、そっと顔を舐めてくれる。ルカといると、僕はもう一人ぼっちじゃないんだ、と心から思えた。
ルカが僕の世界を、少しずつ塗り替えていってくれた。モノクロだった世界に、優しいミルクティー色と、温かい木漏れ日の色が加わった。
ルカが我が家に来てから、僕の世界は色鮮やかになった。朝はルカの小さな足音が僕を起こし、学校から帰ると、玄関のドアを開ける音にいち早く気づいて、すり寄ってくる。ルカの柔らかな毛並みに触れていると、胸の奥から温かいものがじんわりと広がり、心の棘が溶けていくようだった。
ある放課後、僕はルカを抱いて公園のベンチに座っていた。ルカは僕の膝の上で気持ちよさそうに目を閉じ、時折小さな寝息を立てている。そんな穏やかな時間を過ごしていると、一人の男の子が僕に話しかけてきた。
「わあ、猫だ!可愛いね」
声の主は、同じクラスのケンタだった。ケンタはクラスでも人気者で、いつもみんなの中心にいる。僕とは正反対の存在だ。僕は緊張で声が出せず、ただ俯くことしかできなかった。
「もしかして、君がこの前拾ったって言ってた猫?」
ケンタは僕の隣にそっと腰を下ろした。僕は小さく頷く。ケンタは僕を怖がらせないように、ゆっくりと手を伸ばし、ルカの頭をそっと撫でた。ルカは心地よさそうに喉を鳴らす。
「この子、ルカっていうんだ」
僕の声は震えていたけれど、なんとか言葉を絞り出した。いつもより少しだけ、声が震えながらも、はっきりと言葉が出たような気がする。
ケンタは「いい名前だね」と微笑んだ。
それから、ケンタはルカに夢中になった。僕が話せなくても、ケンタはルカと僕にたくさん話しかけてくれた。
「この子、何歳?ご飯は何を食べてるの?」
「耳の後ろを撫でると、もっと喜ぶんだよ」。
ケンタの質問は、不思議と僕の心を軽くしてくれた。ルカのことを話していると、うまく話せないことや、言葉に詰まってしまうことへの不安が、少しだけ和らいだ。ルカが、僕とケンタの間に見えない橋を架けてくれたようだった。
僕たちの会話は、いつの間にかルカ以外の話にも及んだ。
「ねえ、明日、この公園でサッカーやらない?ルカも見に来てくれるかな」
ケンタのまっすぐな目に、僕はドキッとした。友達と遊ぶなんて、僕には遠い世界の出来事だと思っていた。
「…うん」
僕の返事は、小さな声だったけれど、僕の心の底から出た、僕だけの声だった。ケンタはちゃんと聞き取ってくれた。
次の日、僕はルカと一緒に公園へ行った。ケンタは友達を連れて、先に待っていた。
ケンタは「ハル!こっちこっち!」と、僕を大きな声で呼んでくれた。
サッカーは下手だったけれど、ケンタは僕にパスを出してくれた。ルカはベンチで僕たちが遊ぶ様子をじっと見つめていた…かと思いきや、ボールが近くを転がっていくたび、体を揺らし、尻尾をパタパタと忙しなく振っている。そして、ケンタが僕にパスを出した瞬間、ルカは突然ベンチから飛び降り、小さな体を弾ませてボールを追いかけ始めた。
「わっ!ルカ!」
僕は思わず笑ってしまった。ルカはボールを小さな爪で引っ掻いたり、勢いよく頭突きをしたりと、大はしゃぎだ。ケンタの友達も、目を丸くして笑っている。
「すげえ、この猫、サッカーするのか!」と声が上がった。
僕はルカを抱き上げ、ケンタに
「ごめん、ルカが…」と謝った。
でも、ケンタは「いいじゃん!ルカも一緒に遊んでるみたいだ!」と、楽しそうに笑ってくれた。
僕は汗をかきながら、久しぶりに心の底から笑った気がした。
その日、僕の世界は再び、モノクロになった。
朝、目が覚めると、いつも僕の布団の足元で眠っているはずのルカの姿がなかった。部屋を探し、家中を探し回った。でも、どこにもいない。母さんも父さんも一緒に探してくれたけれど、ルカはまるで最初から存在しなかったかのように、きれいに消えてしまっていた。
僕の心臓は、耳元で激しい音を立てていた。それは、ルカがいなくなったことへの恐怖だけじゃなかった。
全部、僕のせいだ。
僕が、窓を開けたまま眠ってしまったから。昨日の夜、ルカが窓の外をじっと見ていて、ほんの少しだけ、風を感じさせてあげたかった。ルカは嬉しそうに、鼻をひくひくさせていた。その顔が可愛くて、僕はそのまま眠ってしまったんだ。
ルカは、僕が一人ぼっちじゃないって、僕に教えてくれた。寂しかった僕の心に、温かい光をくれた。それなのに、僕は、僕が、その光を消してしまった。ルカに何かあったら、もう二度と、あの温かさを感じられない。もう一度、一人ぼっちに戻ってしまう。
いや、一人ぼっちになるのは、もう怖くない。ルカがいなくなって、初めて、ケンタという友達がいることの心強さを知った。ケンタは、僕のせいでルカがいなくなったと知っても、怒らずに、ただ一緒に探してくれている。僕が言葉につまっても、何も言わずにそばにいてくれる。
ルカ。お願いだから、無事でいて。
僕の声は、風に消えていく。ルカを探しながら、僕は何度も心の中でルカに語りかけていた。ごめんね。僕が勝手なことをしたから。僕が、自分の寂しさだけを埋めたくて、君を危険に晒してしまった。もし、もう一度君に会えたら、僕はもう、君を一人にしたりしない。僕が、ちゃんと君を守るから。
足が鉛のように重い。息が苦しい。それでも僕は走る。ケンタが僕の手を引いて、路地裏を、植え込みのそばを、何度も何度も駆け抜けていく。アスファルトに何度も靴底が擦れる音が響く。遠くでカラスが不吉な鳴き声を上げている。時間は、僕たちの焦りをあざ笑うように、ゆっくりと進んでいるように感じた。
「おい、ハル、こっちの道はもう見たか?」
ケンタの声が、いつもより苛立っている。僕はただ、首を横に振るしかなかった。言葉が喉に張り付いて、声が出ない。ルカを失うかもしれない恐怖と、僕のせいだという罪悪感が、僕を押しつぶそうとしていた。
日が傾き、街がオレンジ色に染まっていく。僕たちの影が、やけに細く、長く伸びている。僕はルカの名前を呼んだ。声はかすれ、風に乗り、遠くへ消えていく。
「ルカ…どこにいるんだ…」
ケンタの声も震えていた。僕たちはすでに、何時間も探し回っていた。何度も心が折れそうになった。こんなに町中を駆け回ったのに、ルカはどこにもいない。もう、見つからないんじゃないか。そんな絶望が、冷たい風となって僕の頬を撫でる。
その時だった。ケンタが、立ち止まった。その視線は、僕の家の裏手にある、普段は誰も近づかない古びた物置小屋に向けられていた。
「ハル、あれ…!」
ケンタが指差す先、錆びた南京錠がぶら下がり、今にも崩れそうな物置小屋の陰に、小さな黒い塊が見えた。ケンタは僕より先に走り出していた。その背中を追いかける僕の心臓は、激しく鼓動を打っていた。
物置小屋の扉に挟まるようにして、それは泥まみれになったルカだった。弱々しい声で「みゃあ」と鳴いた。その声は、震えて、かすれて、僕がルカを拾った、あの日の声とそっくりだった。
僕はルカを抱きしめた。温かかった。そして、少しだけ、土の匂いがした。ルカの体に付いた泥を拭いながら、僕はとめどなく涙を流した。ケンタは何も言わず、ただ僕の隣に座ってくれた。
「よかったな、ハル」
ケンタの声は優しく、僕の心の底まで響いた。僕は初めて、誰かの前で、心から安心した表情を見せた気がした。ケンタは、ルカを抱きしめる僕を、そっと見守ってくれていた。ルカが見つけてくれた、僕の世界にたった一人の、大切な友達。そして、僕がルカに与えられた唯一の、そして一番大切なもの。それは、ルカを無事に探し出す、という僕自身の決意だった。
泥だらけになったルカを抱きしめ、僕は涙が止まらなかった。ケンタは僕の隣に座って、何も言わずにただ僕を見守ってくれている。その優しさが、僕の心を解きほぐしていく。
「ハル、ルカ!」
僕たちが家に着くと、玄関のドアから、父さんと母さんが飛び出してきた。二人の顔は、心配と安堵でくしゃくしゃになっている。
「どこに行ってたの!心配したのよ!」
母さんは泣きながらルカを撫でた。父さんは何も言わず、ただ僕とケンタの顔を交互に見て、深く頷いた。
ルカをきれいなタオルで拭いてやると、ルカは「にゃー」と甘えるように鳴いた。その声は、僕の心に温かいミルクのように染み渡る。
「ケンタくん、ありがとう。ハルを助けてくれて」母さんはケンタに頭を下げた。
ケンタは「ううん、ルカもハルも、大切な友達だから」と照れくさそうに笑った。
僕はケンタに、これまで言ったことのない、精一杯の大きな声で言った。
「ケンタ、本当にありがとう!」
その夜、僕の部屋には、いつもよりたくさんの光が灯っていた。テーブルの上には、母さんが作ってくれた僕の大好物のオムライスが並んでいる。
父さんは僕の頭を撫でながら、小さな声で
「…よく頑張ったな」と言ってくれた。
僕はオムライスを一口食べた。卵の優しい味と、ケチャップの甘酸っぱさが口の中に広がる。それは、僕が子猫を拾った日から、少しずつ僕の世界に増えていった、温かくて、甘い味だった。
ルカは僕の膝の上で、気持ちよさそうに眠っている。ルカがいなくなって、僕は初めて、自分がどれだけルカを大切に思っているかを知った。そして、ケンタという友達がいてくれることの心強さを、改めて感じた。
僕の世界は、もう一人ぼっちじゃない。ルカがいて、ケンタがいて、そして、心配してくれる家族がいる。
僕はルカを抱きしめたまま、窓の外を見た。暗闇の中に、星が瞬いている。たくさんの小さな光が、僕の世界を優しく照らしている。
もう、迷子なんかじゃない。
小さな光は、僕の世界に満ちている。
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