3000回の古傷へ
@rawa
3000回の古傷へ
千晴さん。
天野千晴(あまのちはる)さん。
僕です、チビタです。お元気ですか。
友達から、千晴さんは遠い国で素敵な方と幸せな家庭を築いたと聞いています。
色々とご不便もあるでしょうが、千晴さんならきっと楽しく乗り越えているのだろうと思います。
今日で、千晴さんが僕を刺してから3000日が過ぎましたね。何となく懐かしくなって、またあなたに手紙を書いてしまいました。
僕が千晴さんと初めて会った時のことを、今も夢に見ます。
友達になれるかだとか、好きとか嫌いとか、そういう感情は少しでも近い関係だから思うのだとあのとき知りました。
千晴さんにとっての僕は、部屋の備品だとか昆虫だとか、せいぜいそれくらいで。
僕にとっての千晴さんは、遠い憧れの人でした。
その距離の絶対値を小さくしたくて、あなたに覚えて欲しいと思ったのです。
※※※
知美(ちび)という僕の名字は、まるで僕の小さい体を予言して指差しているようでした。
背の高い千晴さんが、羨ましかった。
当然のように憂さ晴らしのおもちゃに選ばれた僕は、毎日のように苛められていました。
ある日、それを見て、あなたは一緒に笑っていました。
もう雑音にしか聞こえない前列よりも、あなたがそこにいたことが辛くて、もう消えてしまいたくなりました。何かがプツンと切れて、僕の両手は怪我が増えていました。
その日の帰り道に思い付いて、僕は家で届かない手紙を毎日書くことを始めました。
※※※
千晴さんは、良い子でしたよね。
まるで良い子であれば何をしても許されるかのような、そんな爽やかな笑顔が大嫌いでした。
僕が踏み切りで空を眺めていたら、少し怯えた千晴さんが「自殺とかしないでよね」と声をかけて来ました。
腹が立って、つい笑ってしまいました。
一緒に生きていくつもりもない相手に、死んではいけないだなんて義務のように諭す千晴さんが、なんだかすごく不誠実だと思ったのです。
潰れた虫を視界に入れたくない、踏むだなんてもってのほか、なんて。そんな感情だから、僕に話しかけられたのでしょう。
まあ、それはあなたの視界に入ったということだから、目論見どおり僕たちの距離は近付いていたのかもしれません。
※※※
みんなの背が伸びても、僕はチビタでした。女の子と話すことが、前より多くなりました。
勉強と喧嘩が少しだけ得意でした。それでも、千晴さんにはかないませんでした。
喧嘩が強いというのは、少し卑怯な言い方でしたね。人を殴ることの何が怖いのか、僕には今でも分かっていません。ただそれだけなんです。
ひどい目にも良く会いましたが、多くの人はそれから僕と関わらなくなるのです。
僕を手なずけられるのはあなただけで、そう知らしめることで僕はあなたとの距離を縮めていました。
※※※
あの日、千晴さんは僕を気まぐれで抱きました。刺されるってこんな気持ちなんだなって、分かりました。
王冠をもらうことを嫌う、王子様みたいでしたよ。踏み切りで良い子ぶっていたあなたを、葬式のスライドショーで流してあげたいです。
もし自分が花火の爆心地になったなら、熱くて弾けて変わり続けて苦しくて、呑気にその全景を『綺麗』だなんて貴ぶこともないでしょう。
多分、青春というのはそんなものなんだと思います。
千晴さんが僕を抱くまでには色んなしがらみがあった気がしますが、今の僕はもうあまり覚えていません。綺麗な映像で振り返ることもなく、ただヤケドした傷跡だけが残っています。
そうやって千晴さんに刺された僕を助けてしまったのは、あなた。
そう、『あなた』なんです。
あなたは憎い人であって欲しかったのです。 私に悔しがって欲しかったのです。千晴さんに刺された僕に、嫉妬して欲しかったのです。
それなのに、あなたはあまりにも。
僕にも、千晴さんにも無関心でした。
まるでお気に入りの服の、ほつれて切った裾のように。あまりに雑に優しくした。
だからなんですよ。
僕が千晴さんを刺したのは。
✕✕✕
『私』が千晴と初めてちゃんと話せたのは、チビタのことで喧嘩した時だったと思う。
私は良い人でいたかったし、千晴のことが嫌いだった。チビタを庇うことで、なんだか上等な人間になれそうな気がした。
でも、上等な人間でいることは、友達に囲まれていることよりも優先度が低くて。
「あんただって、昔チビタを笑ってたでしょ」
その言葉に、なにも言い返せなかった。
私が千晴とちゃんと友達になった頃には、チビタの被害妄想は取り返しの付かないところまで進んでいた。
気味の悪い手紙を、毎日のように私に送った。
私と千晴を混濁した、じめじめした手紙だった。まるで私と接することが、千晴に好かれることとイコールみたいに。
想像するに、チビタは私になりたかったのだ。千晴の大事な存在に。私にとって千晴は、いつでもただの友達だけど。
かつて、私が千晴を殺すことは簡単だった。昼前の踏切を越えて、しばらく立っていれば良い。その頃は、私が死ねば千晴も死ぬ位には愛されていた。ちょけて足を踏み出すと、怯えてとてもかわいかった。
「自殺とかしないでよね」千晴がふざけた私にそう怯えていたとき、確かチビタもいたけれど。あの時のチビタは本当に、ただの障害物だったなあ。
そもそも、憎い千晴に好かれたところでなんだというんだ。異常者の思考は分からないけど、分からないなりに考えるなら。
チビタは、誰かのなにかになりたかったのかもしれない。
✕✕✕
僕の考え込む姿を、あなたも千晴さんもよく理解できないもののように見てきました。
いつもパタパタとしているあなた達からすれば、僕の存在は時間の無駄に思えるでしょう。
こっちからすると、せいぜい人生をやっている程度で僕の時間を否定する筋合いはないと思っています。いまでも、そうです。
あなたが僕の人生を目線で否定したその日から、僕は現実などに縛られず幸せになりたいと願ったのです。
悲しい夢は、リストカットに似ています。
血の代わりに、涙が流れます。
千晴さんは、僕の古傷です。だけどそれは、あなたにしか見えないくらいに内側に隠れています。そんな偽善者のあなたには、千晴さんと僕とでどちらの傷が深く見えるのでしょうか。
あなたの古傷が、もしも僕だったなら。それはなんだか少しだけ、肯定されたような気持ちになれるのです。
✕✕✕
あの雨の日に千晴を刺して捕まったチビタは、この世界において加害者だ。あいつは、あらゆる意味でもう戻ってこないだろう。この手紙はついに行き着いた彼の遺書なのだと、何となく分かったから。
チビタの手紙ではあの日から3000日なんて書いているけど、実際はもう少し長い月日が経っている。
だからこれは単純なカレンダーじゃなくて、チビタの見えない古傷の数、つまりは下らない悪夢の数が、めでたく3000に届いたのだろう。
私は千晴のようにチビタに刺された被害者ではないし、チビタを『刺した』(私に振られた千晴のヤケだけど、ずいぶん物騒な言い回し)ような加害者でもない。だいたい、自分の被害妄想の責任を私に押し付けないで欲しい。
そもそも、チビタの被害者面がピンと来ない。
弱い奴は、自分が弱いことも、助けてもらうこともどこか当然だと思っている。甘えているのだ。
おかしな奴がいる度に周りが気を遣わなければならないのは逆差別だし、距離を取ることも処世術だ。
千晴が存在を知る前に、この手紙は燃やすことにした。昔と同じように。
こんなもの、何一つ生産性がない。まるで彼の人生そのものだ。
チビタが足りない頭で考えた全ては、この世界にジュース一杯の価値も作り出さない。
……。
だけど、チビタと同じくらいには。
私も、あの日から無意味な夢を見た気がする。
明日の寝覚めも、きっと悪いだろうなと思う。
それで上等でしょ?感謝しなさい、チビタ。
あなたの存在は、少しだけ私の負荷になったよ。
ここではない、千晴もいない国へ私は向かう。
もう二度と、古傷が開かない遠くへ。
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