Tumble Weed

智bet

ゼニルカのエルク:前編


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【遠く壊れた記憶】




同胞たちの革を積み上げた寝床に君がいる。


枯れた花よりも脆く折れてしまいそうな、やせ細った腕。


消えかけの命、ひび割れた身体。


死の床、絶えかけの荒い息。



『戻ってきてたのね、お帰りなさい。…うん、今日は…今は少し気分がいいの。大丈夫よ。』



『また樹液を取ってきてくれたのね。』



『❋❋❋❋?…あぁ、山を駆けに行ったわ。ノコギリソウ、ゼラニウム、サンセベリアって繰り返し唱えながらね。』



『ハーブを摘んでリースを編んで、魔除けを作ってくれるのだそうよ…の…私の中の悪いものを追い払ってやるんだって無邪気にね。…本当は、ただただ冒険心を満たしたいだけなのかしら?』



するとその時、君ははっと口元を抑えて傷ついた顔をした。


傷つけたことに、傷ついた顔。



『………あぁ…ごめんなさい…ごめんなさい。今のは…そうね。私には…やっぱり悪いものが憑いているのかも。』




『親として恥ずべきだわ…。どうかあの子には内緒にしておいてね。いえ、そもそもあの子を産んだ時から臥せってばかりの私が、良い親かどうかなんていうのが烏滸がましいことね。』



『………』



『…ごめんなさい…違う、違うのよ…』



『……あ…………』



『……ごめ……』



『………………』



『…………ありがとう、❋❋❋❋❋。私がこんなになっても…貴方はずっと変わらないのね。昔から変わることなく、ずっと優しい。いつも私をその体で、こうやって抱きしめてくれる。あたたかくて、大きくて、優しいわ。』



『❋❋❋❋、あの子もとても優しい子よ。貴方に似てる…目元も…顔つきも似てきたわ。』



『…私のように?いやぁね、まだそんな昔のことを覚えているの?』



『………。ふふっ。私も愛してる。』




『…………いつの間にか、鼻を付けるんじゃなくて口と口をくっつけるキスをしてくれるようになったのね。それほど長い時間、貴方と私は共に過ごしていたんだわ。』




『愛してる。』





『貴方のこと今も、そしてこれからも。』






『ねぇ、❋❋❋❋❋。最後にワガママをひとつ、聞いてもらっていいかしら。』



『…聞いて。そう、そのまま。私をあなたの腕に抱いたままで。』



『そんな顔しないで。…多分だけど、…もう、そろそろだって分かるの。』



『もう、血も吐けなくなっちゃった。』


『だから…伝えられるうちに、ね。』





『私の骨は森に…叶うならばこの家の庭に。』






『そしては…貴方に。』





『違うわ。違うのよ。私が決めて、私がそうして欲しいと望んでいるの。』




『もう、随分食べていないんでしょう?私や❋❋❋❋の前で食べないようにしてくれていたでしょう?』




『満たせるほど多くは残されていないけれど、妻として夫の空腹を和らげることくらいはさせてちょうだい。』




『…違うわ。』


『これが私の望みよ。』


『貴方とひとつになりたい。…貴方と一緒に生きていきたい。』




『…ずっと、ずっといっしょにいたい。』




『あそこには帰らなくていい、ここが、この家が私のいるべきところで…あなたの傍が私の居場所よ。』




『もし、自分で伝える前に私が眠ってしまったら❋❋❋❋にも伝えておいてほしいの。』



『あなたのことが大好きだって。愛しい息子、あなたのことをいつも見守ってるって。ずっとずっと、愛してるって。』




『貴方たち家族のことを、私は死ぬまで、死んでもこれからもずうっと、愛してる。』



『そう、伝えてちょうだい。』



『さて、私は今からあのドレスに着替えて…あぁそうだ、お化粧もしなくちゃね。髪も森の魔女みたいに乱れたままで、目元は黒ずんで唇も青ざめて、頬のへこんだ顔をあの子の最後の記憶にするなんて酷な話だもの____』




『それに、貴方の前でもあるしね。女として、最後くらい美しくいさせてちょうだいな。』



……………



………





同胞たちの革を積み上げた寝床で君が言う。


死の床で、きっと君は笑っていた。




『おやすみなさい、❋❋❋❋❋。』




『あなたといられて私、幸せだったわ。』




『愛してる』






君が瞳を閉じて眠った時


俺の手を握る力が弱くなり、やがてほどけた時


俺が祈るきみの手にじぶんの手をかさねた時



もう、おきないことを悟ったとき



おれは



きみのこと






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むかしむかし…


生きているときに『それ』を見たことがある者はもういないとされるほどの遥か昔…


かつて人と獣のみが住まう平面だったというこの地はある日『魔』と溶けて繋がり、混ざり、合わさってひとつの丸い球となった。


夜が空から降りてきたのだという。


魔が、夜をもたらしたのだという。


昼と夜とが合わさったのだという。


どうも、その時から全ては溶け合うようになったのだそうだ。


人と獣が交わり、魔の獣が訪れ、魔と人が合わさり、善と悪がより深く絡み合っていく。


人だけが二足で立ち上がって言葉を発していた昼だけの時代は終わり、日が沈めばそれからは夜と魔がやってくる。



昼の間に魔は身を隠し、夜の間、人は怯えた。



やがて、光と闇は互いに憎み会うようになる。




憎しみの炎は昼夜を問わぬ血みどろの戦争へと発展し、人と魔のもたらした戦火は世界中であっという間に燃え広がったのだ。



昼も夜もなく、互いが互いを善と傲慢に信じ、空を赤く灼き続けた悪しき夕闇の時代。



遠い遠い、昔のことだ。




それから幾星霜の時が過ぎ、星は巡り続けた。



絶えず大地は回り続け、朝と夜を繰り返す。



人も獣も魔も、時には同族同士で争い和平と決裂、終戦と開戦はその間何度も繰り返された。



空が星光でとりどりに弾け、日が差して雲が流れ、時に戦火で赤く灼けながら尚も回り続け、廻り続け、そして何度目かの青空に再び巡り帰った時代。



文明の新たな発展、技術革新、それに伴う民族間、種族間の領土戦争も一応終えて差別や遺恨、禍根、畏れ、排斥から生じる摩擦によって小さな火種が方方で燻りつつも、人も人ならざるものも再び隣合って歩くようになっていた。


いつしか人は夜も起きて過ごすようになった。


魔の者も、昼に姿を現すようになっていた。



全てが平等に行き交い、交じりゆく。そんな時代を迎えたのだ。



そしてそんな時代の、そんな世界を宛てなく旅する者たちがいる。



追われた者、食い詰め者、ならず者、棄てられた子供に脱走兵、逃亡奴隷。



はたまた、啓示を受けたという気触れ者。



はたまた、世界に魅せられた変わり者。



栄華、出世、名声。


何者でもない己を示し、時にひけらかすための成果を望み世界中で放浪する彼らは自らを『冒険者』と名乗り、人々から皮肉混じりにそう呼ばれて旅をする。


戦争の残骸を漁り、先人の墓を荒らし、秘密を暴き、前身たる文明を紐解く彼ら。


これは、この世界の『触れてはいけないもの』にいの一番に触れんとする冒険者たちが人や『魔』と向き合い、風説や伝承、呪われた伝説と相対し交わっていく、そんな話だ。




_____そして、こんな話がある。



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【ゼニルカの伝承】



世界地図の遥か北に位置する雪の小国



グッドリーデン



その最北に位置するという地、ゼニルカ。



その更に奥深くにあるというゼニルカの森



誰もそこに立ち入ってはならない




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《ゼニルカの森》:時期不明




ひゅるるるる…


木々の間をすり抜けていく風の音。


魂を啜るかのような音に怯える者が一人。


「なんだよこれは……これじゃまるで…」


ゼニルカの森の中心、大人の腹まで浸かるほどの雪の中で息を切らしながら歩く男がいた。


何かを恐れているのか、男はせめて“頭”だけは守ろうとして羽織っていたであろう熊皮のコートを頭に括り付けて保護している。


大の男が顔を引きつらせながら子供や女のする頰被りを服でする様は傍から見れば間抜けの様相だが、男にはそんなことを考える余裕すらもないらしい。


不安定な姿勢で喘ぎながら歩く男は身体の複数箇所からしており、流れ出るそれは新雪を掻き分けて進む度に触れた雪を赤く染め続けていた。


普通であるなら雪のふりしきる森の中でコートを脱いだ薄着で、それも雪中を無作為に進んでいく…ましてや杖も支えもないまま、足の置き場を確かめないまま歩き回るなど常識からは遠く離れた、到底正気とは思えない行動だ。


それでも、男は進む。


いや、既に正気は失くしていたのだろうか?


雪に触れ続け、冷気に晒され続けた指先は10本余すことなく凍傷でぷっくりと不気味に膨れ上がり、紫色に変色していた。


たとえ雪中を無事に抜けたところで、指から身体が壊死していく前に全ての指を…或いは手首を切り落とさなければいけないだろう。


しかしすらもまるで瑣末なことかのように躊躇なく雪へ指を浸しながら、ひたすらに男は雪中を掻き分けて進む。


死にたくない…


__いや、



ただそれだけ、その一心で。



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ゼニルカの民は決してその森を侵さない



ゼニルカの森には



野犬もいなければ



熊も



狼もいない



雪風の絶えず吹き荒ぶその地には


狼人ワーグ月猫人ケットシー畏熊人カリストーのような獣混じりでさえ住み着かない



だから、ゼニルカの森に捕食者はいない



ゼニルカの森は枝角エルクの楽園



、狩りをしてはならない



エルクを脅かしてはならない



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「…たかだか枝角エルクを1匹狩っただけだろう、俺がよそ者だからか?」



枝角エルク…肉や皮以外にもツノや爪が生薬の元となる北方に生息する鹿の一種。)



男はゼニルカの集落の人間では無い。


名前をジナオと言う。


獣、魔獣、魚竜と種類は問わないが、とにかく知性のない動物__特に大物狩りを人生の至上とする東国出身の冒険者であり、通常では有り得ないサイズのエルクがいると聞きゼニルカへと乗り込んだハンターだった。


ジナオは狩人としては熟達で、翼を広げれば民家の屋根をも隠す程の大きさを持つ、灼火葉しゃっかばの山を根城とした赤子攫いの害怪鳥、山鈎脚コンドルを仕留めた実績も持つ。


広い酒場で名前を出せば彼のスコアボードを一人や二人は知っている、それなりに名の知れた狩人だ。


噂を聞いた彼は、ゼニルカを訪れると集落の人間たちからのゼニルカの森へ立ち入ってはならないという再三の忠告を振り切って枝角エルクを狩りに森へ入っていったのである。


動物としてのエルクへの知見に優れ経験も豊富なジナオが目標を追跡するのはそう難しいことではなく、それに加えて主張の激しい、大人の手のひら程もあろうかという足跡がそこかしこに点在していた。


この地に住まうエルクにとって天敵のいない森であるというのも本当だったのだろう。


すぐにエルクは見つかった。いや、エルクはその巨体故に隠れられなかったと言うべきか。


それほどに大きかった。


弓に優れていたジナオは通常よりふたまわりも…いや、倍近く大きいであろうエルクの風下から静かに近付いていき、己の気配を悟らせることのないままエルクの脳を射抜き、そして一瞬で絶命させた。


規格外の大物に高鳴る心臓の鼓動、栄誉への歓喜をなおも抑えて矢をつがえ、一瞬で。



傷を負わせてから猟犬をけしかけて追い立てることをせず最初の一矢で獲物を仕留めるのは、獣とのやり取りはジナオにとって達成感と高揚をもたらすものだが彼なりに生きとし生けるものへの敬意を払ってのことだ。


むやみに苦しめることはしない。


そしてそれが可能なのは、彼の持つ技術が洗練されたものであることの証左でもあった。



どぉ、と地を揺らしで倒れたエルクに近づくとジナオはすぐに目を伏せてエルクの死体、心臓の位置に手をかざし、『ミクニイケ』と彼の故郷の祈りの言葉を唱える。



そして祈りが終わるとすぐに仕留めたエルクの喉を切り開いて血を抜き、流れ出したまだ温かいそれを手に溜めて口へと含んだ。


血は、凝縮された生命そのものだ。


まだ熱い液体は臓腑を満たし体を巡り、命を燃やしていたその温度は掬う掌を優しく溶かす。


こくりこくりとジナオが血液を嚥下していく。




通常、彼の故郷でもそんなことをする者はいないが世界を放浪し、生命のやり取りを重ねていくうちに生命の享受とは勝者の特権であり、それでいて狩った者の義務であるとジナオは考えるようになっていた。



己と、獲物の誇りを守るためだ。



_____ただ、そんな彼の内に秘めた信条や美徳などまるで意にも介さないようには彼に突き刺さった。




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ゼニルカの森で、決して狩りをしてはならない





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…それから一体どれだけ逃げ惑っただろうか。


いや、実際にはどれ程の時も経っていないのかもしれない。


音もない。気配もない。


ただ、痛みだけがやってくる。


何に襲われているのかも分からない。



時が経つほどに強く、酷くなっていく傷の痛みに呻きながらジナオはひたすら呪いを呟く。



「森の怒りだとでも…?たかたが一頭で…だって、村民にあれだけ…」


「俺がよそ者だからか?」


「何故…?何故…!?なんで…!?」


「俺は…!俺は!」


ジナオは恐怖を誤魔化すためか、とにかく意識を保つためか、うわごとのように唱え続ける。


などと呟く彼は恐怖からか、すでに獣と相対するための装備どころかたしかに抱いていたはずの己の信条でさえもとうに投げ捨て、宛もなく森を逃げ惑い続けていた。


傷が凍り、血が冷め、腹の下から冷えて身体が徐々に自分のモノでなくなっていくことを感じながら。



厳粛に固く結ばれていたジナオの口元が疲労と後悔でだらしなく垂れ始めた時。



口内に入り込む雪の冷たさすらもなくなりかけてきたその時だった。



見渡す限りの樹、樹、樹。



同じところを巡っているのか景色は先程から変わり映えせず、そして変わらず出口は見えない。



……しかし、いつの間にか辺りを満たす異様な静けさに気づいたジナオはその歩みを止めた。



…静かだ。



…しかし、俺はこれを知っている。



…脅威が去ったのではない。



これは…だ。


ジナオの、狩人の本能がそれを察知していた。


1匹の獣のように。


しかしそれが狩る側か、狩られる側のどちらのものであるかは…



________。



________一瞬、風が止まる。



________舞う雪が空中で静止する。




________時が止まる、そんな錯覚。




______ふと、空気が変わるのを感じた。





________!!!




…頭の後ろを射抜かれるような予感が走る。


首筋が見えない何かに貫かれるような__!




何故彼がを分かったのかは風が止む時、何者も天すらもが己を邪魔をしないその瞬間。


それこそが自分獲物に向かって矢を放つタイミングであることをジナオは自らの経験と感覚で知っていたからだ。


「……っっっっ!!!」


もんどりうつようにその場に伏せたその瞬間、耳のすぐ側をひゅる、という細い音が走ってその直後自分の頭のすぐ上に“”どすり“”と刺さるものがあった。


耳の先に熱い感覚が走るとやがて刺す冷気の侵食による痛みが始まる。


とっくに冷え切ったはずのジナオの身体から、更に血の気が引いていくのが分かった。




___逸れた?



いやたまたまだ…さっきも?



違う!!



見つかった!!


!!





_____身が縮み上がり、背筋が凍り付く。





ふっふっふっ…




息が聞こえる、息づかいが聞こえる。


俺のものか?いや違う。近い?分からない、でもいる。それが分かる。




ふっ…ふっふっ…





闇の中から微かに聞こえてくる。



…もう、逃げられない?





_____死。



《死》という絶望の一文字が脳から下りてきてジナオの背を伝うように凍りつかせていく。


心の臓を鷲掴み、それどころかはらわたごとすべてを握り潰して回り、全てを尻の穴から引きずり出されそうな____



_____恐怖。




………ぅ~!




…ジナオは雪に倒れ込んだまま硬直して動くこともできず、身体が濡れるのも冷えるのも構わず身を伏せたままじっと耳を澄ます。



…聞こえる。吹雪の中、確かに聞こえる。




…幻聴ではない。ましてや、幻覚でも。




…夢でも、ない。



口内に湧き出す自分の血と、先程含んだエルクの血が交ざった味はジナオにこれが現実であることを突きつけ続けていた。


まだ自分は生きていること、悪夢は覚めずにいまだ続いていることを。



死。



…~~ぅ~~~~!



死。



風に混じり、木々を掻き分け、聞こえる。


…それはやがて、どんどん大きく______



……



…………



………止んだ。



…………再び静寂。


…風が止み、音が止み、声も止んだ。


どくどくという自らの鼓動の音が、生きているという感覚が戻り始めてきた。






_____生きた心地がしない。






、その時だった。






「____ひゅ…」


るぅううううぅぅいぃぃぃいい!!!!




止まっていた息を再び吐き出そうとしたまさにその瞬間、突如として鳴り響いたそれはジナオの鼓膜を、いや、ゼニルカの森中の空気をびりびりと揺らし、震わせた。



その音が、彼の心臓の動きを一瞬止める。




本人の意思とは反して勝手に擬死行動を本能が選んだのか、それとも死んだ方が楽だと無意識にそうさせたのか。




しかし今度は喚き出すように脈拍は32拍子の速度へと急激に引き上がった。



死。


るううぅぅぅうぅぅぅぅ!!!!!


死!



声はジナオを射抜き、縛り付ける。



死!!



るうううぅぅいぃいいぃぃぃぃ!!!!



目の端。


影を、見た。


凄まじく大きい。


それは凄まじい程に、大きかった。


嘶くその姿は、暗がりの中の影の咆哮は、ジナオの中の恐怖を増長させその姿をその体躯の大きさ以上に膨れ上がらせる。


闇の中の怪物。


ゼニルカの伝承。


死。


死の暗い瞳がこちらを見ている。


死。



俺は伏せているのに、それが分かってしまう。



そして、ジナオを見つけたそれは______




るうぅぅぅぅぅぅぅいぃぃぃぃ!!!!




目が、あった。


奴と。


奴を見てしまった。




「~~~~っっ!!」



それは、すぐ側にいた。

声は、すぐ側で聞こえた。

もう、すぐ側まで来ていた。



死。

死。

死。


もはや、疑いようもない。


聞いたのだから、聞いてしまったのだから。

姿を見たのだから、見てしまったのだから。


森中にこだましているそれは、紛れもなくの声で…それはだった。



死。死。

死ぬ。死ぬ。




るううううぅぅ~~~~!!!



るぅ!るぅ!るぅ!るぅ!!!



るうぅぅぅううううぅ!!!!




エルクは鳴いた。枝角エルクが啼いた。

威嚇のように。

追い立てるように。

小刻みに鳴いていた。

首を振るように。

獲物を、己を探すかのように。



るぅぅぅ……


再び、低く唸るように鳴く。


まるで、『』とでも言うように。



そして______




るうぅぅぅいぃぃぃぃぃぃぃぃ!!!



「ぎゃあああ!!!!!」



そしてジナオもまた、絶叫していた。




死ぬ。死ぬ。死ぬ。死ぬ。


死ぬ。死ぬ。死ぬ。死ぬ。ここで死ぬ。


嫌だ。いやだ。イヤだ!



ジナオの耳に先程から突如として聞こえ出し始めた、高音と低音が全くふたつに重なったような不協和音の、森中の空気をつんざいて震わせるエルクの絶叫。


どんな存在であろうと聞いた者の不安を掻き立てずにはいられない、悪魔の鳴き声とも呼べるであろう“それ”は、ジナオの中にかろうじて残されていた狩人としての培った冷静さや人としての理性の全てを奪い去るには充分過ぎるほど恐怖を与えるものだった。


耳が、頭が、空気が、森が、揺れる。震える。


見つかった。そう思った瞬間、いや思うよりも先に立ち上がっていたジナオはもはや言葉すらも忘れ、恐怖で絶叫しながらわけも分からず走り出していた。



再び宛もなく雪をかき分け進む。



死、死、死。死。それだけが頭の中を巡る。



躓いては脱兎の如く身を起こしてとにかく遠くへ、遠くへと駆ける。



戦うことなどハナから考えていない。

戦いになるなどとは思ってもいない。

一目を見てしまったのだから。

心がもう折れてしまったのだから。



__あれは、、エルクではない。



村までの道を引き返すことも、放り出した装備を取りに戻ることも、風を読むことも言葉すらも何もかも忘れ、ただただ雪を掻き分ける。


思考もなく、声にならない声を叫びながらむちゃくちゃに駆け回る。





転げる。死。


ぶつかる。刺さる。死。


そして、体に走る熱い感触。痛み。死。


冷たい、痛い、また、刺さる。死。死!



ジナオは身体で感じる全ての感覚が死を伴って自らに重くまとわりついてくるのを感じていた。


足を雪に取られているのか、それとも地を這う死神に引きずりこまれんとしているのかどうかの区別もとっくに付かない。



「ぎゃああ!ぎゃああ!ああぁ!」



もはや悲鳴で自らの存在を晒すのも構わず、自分にまとわりついてくるそれらを振り払うようにひたすらに叫ぶしかなかった。


威嚇のつもりなのか、死へのささやかな抵抗か。凍傷で血まみれの手をむちゃくちゃに振り回し、血を森に振り撒く。



「来るなっ!!来るなァっっっ!」



恐怖に支配され尽くした彼は気づかない。


傷付け、追い立て、追い詰め、仕留める


自らが狩りの作法の最中にいることに。


追われる獣の役にいることに。




るぅううういぃぃい!!



死の鳴く声が大きくなっていく。

後ろから死が、近づいてくる。




「やめろっ!やめろぉ!やめてくれぇっ!」


「すまなかった!すまなかったぁ!」



転がって腰がくだけ、もはや立ち上がることすらできなくなったジナオは背を丸めて縮こまり、ひたすらに祈った。



「助けてくれぇっ!!!助けてくれ!!!」


「許してくれええええぇっ!!!」



地に伏せ、目を瞑り、乞う。


救いを。





るうぅ~~~~!!るうぅ~~~~!!


るうぅぅぅ!!るうぅ~~~!!




地が揺れる。息遣いを感じる。


死が



「誰かっ!誰かッ!誰かァっ!」



自分に



触れる。




そして______




るうぅぅぅ!!!!

るうぅぅぅいぃ~~~~!!!



「誰かああぁっっッッ!」



るうぅぅぅぅぅぅいぃぃぃぃぃぃぃぃ!!!




そして__________。




❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋



ゼニルカの森でエルクを狩るなかれ



血や鉄の匂いを恐れるエルクたちの住まう森で



エルクたちだけが住む森で



血の匂いに惹かれやってくる



鉄の匂いを察知しやってくる



死の匂いに釣られやってくる




___そんな存在は、大抵がでは無いからだ




だから、狩りをするなかれ


ゼニルカの森に、近づくなかれ


エルクに近づくことなかれ




❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋




「…ってなもんさね。」


「へぇ…ほぉ…ふぅん…。」




るぅぅぅ~~~~…



ひゅうぅぅぅ~…



話し声に混じって北風が森を抜けていく。


木の幹を撫でた音はまるでなにかの鳴き声かのようだった。



ちらちらと雪の舞い降りる空はどこまでも厚い雲に覆われており、日も隠されているせいか昼下がりなのにも関わらず常に灰色で薄暗い。


しん、と冷える空気が満たす北の小国、グッドリーデンの音もない細い街道では人気も生気もあまり感じられないのだった。


そんな中、静寂を割るようにしてけたたましくガラガラと乾いた音を撒き散らしながら道行く荷馬車が1台。


急いでいるわけではない。


なにせ、道はあまり舗装されていないのか荒れてぼこぼこと不安定だ。


恐らく、車輪にガタもきているのだろう___時折ぐらぐらと左右へ不安定かつ不規則に揺れている。


それほどに馬車へ積まれた荷は多かった。


老骨が軋む音のようにも思えるような酷いがらがら音を鳴らしながら年代物の荷馬車は街道をよぼよぼと進んでいる。



繋がれた馬は2頭。



そして、荷馬車に乗っているのは白い息を吐き出す者が2人。


1人は馬を駆る馭者、1人は乗客だ。


「…『エルクに近づくことなかれ』…ね。それで終わりかい?ゼニルカの伝承文ってのは。俺が聞いた伝承文とさほど変わらないが…ここらの地域の信仰といえば妖精ピクシー信仰だろう?だけど森で狩りを邪魔する存在なんて聞いたこともないぜ?実際のとこどうなんだ。」


…一応乗客なのだろうが荷台へふんだんに積まれた荷物に邪魔され他に座る場所もなかったのだろう、荷馬車の幌のてっぺんにどっかと腰掛けていた男が馭者ぎょしゃに尋ねた。


背が低く、主張の強い形をした鼻、ずんぐりとした小柄な体型の馭者____庭守人ノームだろうか?彼は心底寒そうに馬に繋がれた革の手綱と自分の手を擦り合わせながら


「へぇ、つまんねぇ話でさぁ。」


などと寒さで赤くなった大きい鼻をひくつかせながら笑って答え、自分の脇に置かれた小瓶を手に取って中から湯気の立つ飲み物を美味そうに啜った。


「いや、恐ろしい話ではあるけどつまんねぇってこたないよ。しかしおっちゃん、今まさに俺が馬車を降りてそこの木から分け入って行けばそれがゼニルカの森なんじゃねぇのか?」


男は道のすぐ脇に生えたコブフシの木を指さす。


その言葉に馭者はいやいやと首を振った。


「たしかにそれも森だが、地元の人間がいうゼニルカの森はな、集落の向こう側にあるものだけを指すんでさ。しかしねあんちゃん、この話にはちゃんとがあるわけさ。」


「タネ?作り話なのかこれ?」


胡座に肘をつけ、頬杖をついた男は分からない、というふうに馭者へ問うた。


首をふるふると横に振って馭者がまたくっくっ、と笑う。


「へぇ、今あんちゃんが言ったそこの木だよ。ここいらに生えるゼニルカのコブフシは普通のコブフシの木とはちと普通のものとは違っていてな___ほら。」


馭者に街道脇に生えたコブフシの方を指され、言われてから目を細めて木を見やるものの満遍なく雪が積もっているせいで白いことくらいしか分からない。


「…いや、ここからじゃ分かんねぇな、雪もかなり積もってるし。だけど別に普通のコブフシっぽいけど?」


「おや、難しかったかいな?ま、それが罠とも言えるんだろうがね___ここら一帯のコブフシはな、通常が斜め上のところを横に真っ直ぐ枝が伸びてるんでさ。」


真っ直ぐ………。


……?


男は別に植物学者というわけではない。


たとえばコブフシの木を今ここで目の前に2本、馭者が言う北方ゼニルカのものと東方はイトコシエの国のものを隣に並べられてどっちがどっち、なんて言われても判別はつかない。


やはり良くは分からないが、真っ直ぐと言われてみればそのような気もする。…幌の男は続きを促すためにわかった振りをすることにした。


「へぇ…恐らく、積もった雪の重みに押さえられてそうなるんだろうな。だけどそれが?珍しいは珍しいけど現象としてはありえない話じゃないだろう?」


「いやね、まっすぐもまっすぐ。誰かがぴんと張ったみたいに横へ伸びるんさ。そうすっとね、枝の下からびっしりと氷柱つららが生えてくるんで。枝先までね…コブフシはほら、背と枝が高いだろう?」


「あぁ___なるほど、それがタネ…伝承文にあった【ゼニルカの人殺し】の正体か。たしかに風が吹いただけでいつ落ちてくるか分からない槍が森中にびっしり生えてるようなもんだ。おまけに殺意もないときた。」


男はようやく合点がいったようで、気持ち半分、荷馬車の中心側に腰を動かし森から距離をとったのを馭者は見逃さなかった。


指摘はしないが。


「そう、それが正解でさ。通状、狩人なんかは獲物を追う時には姿を見るため前を向く。足跡を見るために下も見る。でも、頭より遥か上にあるコブフシの枝なんか誰も見ない。その無遠慮さが森を怒らせるんでさ。」


「なんだ、ゼニルカに生えるコブフシの木ってのはそんなに女々しい感性の持ち主なのか?それともあんたが特別ロマンチストなのかい?」


「昔から森の神は美しい女と相場が決まっとる。あんちゃん、背の高い女は趣味じゃなかったかね?」


「背の高い女は好みだぜ?気難しい女に振り回されるのも嫌いじゃない。ただ…少なくとも今までに出会ってきた『人面樹ミーミング』は尽くが可愛くないもんだったよ。幹に浮き上がった顔も含めてな。」


「ほう…言葉を喋る樹か。いつだか名前だけは聞いたことがあったが実在するのだな。いったいどんなことを話すんだ?高齢のものほど知見と知恵に優れると聞くが…。」


「あぁ、知見に基づいたことを喋ってたな。大人に向かって『ブランコを付けるな』子供に向かって『ブランコで遊ぶな』だ。…話が逸れたな、なるほど、正体は氷柱だったのか。」


「実際、何年に1回くらいは集落の連中も気を抜いて怪我することがあるらしい。当たり所が悪けりゃ死人が出る時もあってね。」


「…?そもそも村人は森を侵さないんじゃ?」


「…あぁ、今は冬季なんだがね、夏の月になるとゼニルカでもほんの僅かな間だけ日が差して雪も氷柱も溶けるんでさ。その隙に村人は総出で村に近いところの木と、この街道あたりの木を切り出して1年分の薪なんかを用意するってわけでよ。」


「森と住処を線引きして分けておく、というか整備をする名目もあるんだろうが別に多少入ることは入ると。で、たまに溶け残りの氷柱が頭に刺さったりするわけだ。」


「そういうことだ。森の赦しを得た、なんて言って入っていくんだがね…さすがに奥の方までは行かんみたいだが。」


「赦しね…随分ともっともらしいことを言うんだな?」


「方便でさ。“タネ”がある、と言ったろう?」


「…つまりあれか、村の大人が俺みたいな阿呆と遊びたい盛りのガキンチョなんかを氷柱で死なせないために流布した方便ってワケだ。それをガキンチョ向けに恐ろしく盛ったと。」


「そういうこってさ。実際、あんちゃんみたいにゼニルカの情報を聞きつけた冒険者さんが時折やってきて乗せてやるんだがね、大抵はこの話を聞いてがっかりしてそれでも、なんて物好きな連中も森の入口で頭上の氷柱を一目見れば諦めちまう。やつも何人かいたがね____。」


「しかし寒がりが雪の溶ける夏に来たらそもそも何もありゃしない、と。」


「ええ、えぇ。溶け残りの氷柱にたまたま当たるようなとびきり運の悪いやつが死ぬだけで、ね。…他の旅人さんもあんちゃんみたいなガッカリした顔してたさ。」


「…大した北国訛りだがおっちゃんは何年もここで荷引きを?その様子だと冒険者が他にも何人か来た口振りだが、あいにく俺はその事実をおっちゃんから初めて聞いたぜ?」


「そりゃあお前さん、これをバラされるとあっしがこうして小銭を稼げなくなっちまう。だから黙っててもらうんだよ。不思議と皆、勝手に黙っててくれるんだがね。」


「なるほど、話ってわけだ。…ただ、ここのエルクはなんでもかなりデカいと聞いたんだけど。北方の生き物がデカく育つのは何も珍しいことじゃないが。」


「たしかに、ここいらのエルクはかなりデケェんでさ。しかも肉が引き締まっててとんでもなく美味いときてる。それもあるから全員ゼニルカのことを黙りこくるんですがね____。」


「…天敵がいないからか?…肉も美味そうだ。…しかし食い物の話は売れやすいんだが俺の功績としちゃなぁ。」


男が顎に手を添えてぶつぶつと呟く。


指をそらでちょいちょいと動かしているあたり何か思案しているのだろうが、馭者はよく聞き取れなかった。


「うん?なんか言ったかい?何の話だ?」


「いや、こっちの話だ。…しかし狩りは?冬は森に入らない、夏は木こりに忙しいとなっちゃエルクを狩りに出る暇もないだろ。」


「そうさね___これがまた不思議でね。この先の集落では不思議なことにエルクが森からやってきて集落の周りに仕掛られた罠に勝手にかかるんだな。多過ぎも少なすぎもせず__定期的に、年中人々が飢えない程度に。」


「勝手に、だ?ほぉ?狩りもせずに罠猟1本で全員が食ってんのか、まるで森の恵みだな。拓かれた村の入り口周辺なら集落の人間にバチも氷柱も当たらない、と?」


「あぁ、雪が止んで氷柱が消える夏のほんの僅かな間だけはゼニルカの民が森へ薪のために木を切り出しに来るから、その間エルク達は森の奥へ姿を消して姿を見せない。それでもなぜか集落近くにやってきて罠にはかかるんだな。」


「不思議な話だ。神様でもいるみたいに」


「そういうことがあるからこの先の集落の連中はこの伝承を深く信じてる。アンちゃんも残念だろうが、そういうことだ。とにかく今の時期、森に入るのはやめておけよ…」


「なるほどなぁ。…金になりそうだと思ったけど…こりゃアテが外れたか。…小噺のひとつにはなりそうだが」


「なんだって?」


「なんでも?こっちの話だ。…しかし護衛の1人もつけずにこの量を運ぶのか?野犬や熊はいないって伝承にもあったが実際どうなんだ?」


男は幌をばんばんと叩き、身を動かして中の荷物をのぞき込む。


なにやら食料の匂いがする木箱がふんだんに積み込まれていた。


荒事に長けた自分の背丈よりも大きな斧を振るう筋骨隆々の益荒人ドワーフならまだしも馬を引連れた未武装のノームなど、普通なら鴨がネギを背負って現れるどころの話ではない。


「…あっしみたいにお国に仕事の口聞いて貰える訳でもなければ商隊キャラバンからもはぐれたチンケな馬引きはこうしてゼニルカの辺鄙なとこまで物資やらなんやら運んでるんだがね、この細い街道で危ない目にあったことなんか一度もない。むしろ街道を一人で歩く男に乗せてくれ、なんて言われた時の方が余程警戒もんですよ。さっきみたいにね。」


「ま、そりゃ当然だろうよ。」


男はなんでもないかのように空を見上げる。


「おっと、気を悪くしねぇでくだせぇな。」


「気にしてないさ、職業柄別に慣れてるというか普通は疑ってかかるべきだよ。」


「貰うもん貰った以上はきっちり運びやすしそれに、他の【冒険者】さんに比べてあんちゃんは人柄も良くってね。…しかしこの糖蜜入り茶ってのは美味いもんだね、蜂蜜と変わらん。」


ノームの馭者が美味そうに小瓶の中に注がれた熱い液体をもう一口啜った。


通常、限られた荷だけを携えて旅する者といえば分け隔てなく物資は節約するものだが、ノームの馭者はそれがよほど気に入ったらしい。


もっとも、同乗する旅人が道中で雪を溶かして作って注いだものではあるのだが。


「こっから大地を半周ほど離れた北の山岳で果樹を育ててる人達の知恵さ。本当は果実の皮とその糖蜜を煮詰めて茶に入れるからもう少し香りも良くなるんだが__ま、腹の芯を温めるにはちょうどいいよ。」


「しかしそんな蜜なんてかなり貴重なもんなんじゃ?砂糖は今高ぇだろう。お偉いさんの胃袋をコーティングする以上に爆弾作りに使われまくったせいで。」


恐らくかなり昔の戦時中にゲリラ集団が用いたニトロシュガーのことを指しているのだろう。


伊達に一人で馬を引き続けていないのだろう、馭者は時勢にもそれなりに明るいらしい。


「いや、その糖を精製するうえで作るみたいなもんだから案外高くもない。焼き菓子のひとつでもあればよかったんだが…生憎グッドリーデンに着いた時には俺が全部食っちまってた。」


「あんまり上等なもんばっか食べたら口寂しくなっから十分だわな。こちとらしがない馬引きなもんでね___それに、貰ってばっかじゃああんちゃんへ運賃を返さなきゃならん。」


「なんだ、もっとあることないこと話して値打ちこいとくんだったな。」


「正直な人だ、あんた。へへへ。」


「もう一杯いるかい?」


「なら、いただくとしようかね____」


「あんまりぐびぐび飲むと小便が近いぜ?」


「この体躯だ、もともと近い。」


ははは、と笑い合うと同じタイミングで小瓶の茶を啜り、二人で白い息を吐き出した。


「あっしからすればゼニルカの伝承なんかよりあんちゃんの話のがよっぽど面白いがね。アンタの格好も含めて、ね。」


「俺か?そんなにかね?」


荷馬車の幌の上で座る男は、その姿勢からは分かりにくいものの身の丈6尺を超えており、人間としてはなかなか大柄だった。


何かを帯びているのか、身動ぎをするとどこかにしまっているであろう鎖がじゃらりと鳴る。


寒冷地対策に纏ったのだろう黒い外套は火山に住まう断熱効果の高い大エリトカゲの皮を繋ぎ合わせて作られており、篭手にまで薄く斑の意匠が見て取れる。


遠くから見ると一見高級そうだが、手作りなのだろうか?革の繋ぎ合わせがやや雑で近付いてみるとみすぼらしく見えもした。


被ったフードからは石色の髪がぼさぼさと拙僧なく伸びていて、なにかのおまじないだろうか?耳、眉間、目元、鼻梁に口元、喉に至るまで顔面の至る所に埋め込まれた色とりどりの金属とリング、ピアスが何より目を惹く。


外見年齢は見方によっては20代にも見えるし、40代と言われても遜色のない不思議な雰囲気の顔立ちをしていた。


人間ヒュームの人種を判別する際に先んじて見るとされる鼻の形も肌の色も、中間の高さで程々に浅黒く、どこの出身の者であるかも判別がしづらい。


鼻の周りに薄く散った金模様のそばかすも判断材料にはならなかった。


やや垂れ気味の目は優しげにも不用心にも、とぼけたようにも映るが瞼の下で見るものを値踏みしてるように見えなくもない。


目の下には日光避けだろうか?炭で太く線を引いている。


__つまるところ、飄々とした雰囲気の謎の男といった具合だ。


ただ、どこの人種にも見られない特徴の灰色をした瞳は目を引いた。


「ところでアンちゃん、名前は?まだ聞いていなかった。」


「“テキスト”だ。冒険者として世界中をうろついてる。物書きをしながらな。顔見知りは俺のこと“ティキ”って呼ぶからおっちゃんもそう呼んでくれていい。」


「ティキ、ティキか。お前さん、どこから来たんだ?いつから旅を?そう年は食ってなさそうだが。」


「物心付く前からってやつかな?生憎、旅を始める以前の記憶が曖昧でね…自分の歳を覚えてないんだ。出自もね。女は抱けるからまだ老け込んじゃいないと思うけど。」


「そりゃ結構、女の抱き方と文字の読み書き、紙幣の素早い数え方を覚えてたんなら生きていくには十分だ。…女と最後にしたのは?」


「7日ほど前かな?ノザントリラの宿で狼人ワーグのかわい子ちゃんの首を抑えて尾を掴んでやったよ」


「“異種食い”か!ならお前さん、まだ20かそこそこだろうな!」


かかか!とノームの馭者は笑う。


男二人揃えば会話なんてこんなものだろう。


「かもね。」


「ははぁ____ティキは物好きなんだな、ま、好き者でもなければ冒険者なんてやってられないだろうが…その顔は痛くねぇのかい?」


テキストの顔中に開いたピアスのことを指しているのだろう。


ノームの馭者は振り返り、まじまじとテキストの顔を覗き込む。


「ただの魔除けに使う装飾品さ。痛いのは開ける時だけ。色んな国の教会やら呪い師なんかに寄進して術を施してもらって、ね。」


「耳飾りをした連中は見飽きたがさすがにそれだけの量をつけた人間ヒュームは初めて見たわいな。」


「そうかい、それじゃ俺の顔を忘れることはないだろうな。俺の話もいいけどおっちゃんの名前は?そっちも教えてもらってない。」


「…あっしか?スーカ、スーカだ。グッドリーデンで細々と馬引きが生業さ。左の馬がヘリ、雄馬。右が牝馬のセレだ。」


「スーカさんか、よろしく。」


「なぁに、呼び捨て__スーカでいいさ。あっしもノームとしちゃそれほど年は食ってないしな。お前さんよりは歳上なんだろうが__」


「そうかい?それじゃ改めてよろしく、スーカ。…ところでゼニルカの集落まではあとどれくらいかかる?」


「時4つといったところだろうな。だけど今日は馬共の調子がいいから日が暮れる前には着くだろう。荷馬車の車輪がもてばだが。」


「そうか_____。」



「なんにせよ、もう少しかかる。お前さんさえ良ければティキ、あんたが旅の中で見た面白い話でもあれば何か話してくれんかね?お前さんの話は面白そうだ。茶の話でもいいぞ。」


スーカがまた一口、瓶の糖蜜入り茶を啜った。


「構わないよ。…何かリクエストは?伝承、冒険譚、おとぎ話にロマンス、なんでもござれだ。」


「そうさな___この地、この天気だ。どこかぬくい国の話がいい。ティキは南の方なんかを旅したことはあるかね?あっしは生まれてこのかたなくてな_」


「南か?オニュコポにウロンチュナ、レリレラ…色々行ったことあるけどそうだな…それならこんな話があるんだが____」


「ほう?」


「常夏のウロンチュナで暮らす男は人も獣混じりも魔性も、国王ですらいつも上半身を裸でいる決まりなんだ。だがそれがきっかけである日、一人の物乞いが逸話上の伝説の戦士に間違えられて国全体を一晩中騒がせた話なんてのがあるんだが……どうだ、興味あるか?」


「ははは、なんだそりゃ。そりゃあ、いい。」


「俺も当然その国では脱がされたんだぜ?入国前に鎧も全部ひん剥かれてな…当時その事件の場にいたんだが、かなり笑えた。あれは2年ほど前だったか___。」



ちらちらと雪の舞うグッドリーデンの街道を、がらがら音をかき鳴らして笑いながらテキストとスーカは駆けていった。


話す者と聴く者。


互いが互いに夢中になっていたからか、森へ抜けていく一陣の風がコブフシの木を撫でていくのには気づかなかった。


そして、風が木を撫でた時濡れた枝の下に小さな氷柱を作ったのにもまた、気づかなかったのである。



❋❋❋❋❋



テキストとスーカ、2人の乗る荷馬車がゼニルカの集落に到着したのは雲の向こうで日が傾いてきているのか集落の門に灯された灯りが遠目にも目立つようになった頃だった。


門扉の前には2人、兵士が立っている。


兵士2人はこちらに気づいたのか、手を掲げて“止まれ”のジェスチャーをした。



「止まってくれぇい!」


「暫く!しばらぁく!」



停止を促す声はどことなく間延びしていて前線や国境の駐屯基地にいる門兵のような威厳はなく、さながら手旗を持って馬車の行き交いを誘導整備する男のような具合だ。



「さ、集落に到着だ。」


「ほんとに早かったな。」


「ティキの話のおかげだ。」


遠くから槍を抱えてがなる2人の声と共にスーカは荷馬車を降りて手綱を引き、テキストも兵士を刺激することのないようあらかじめ幌から下りて歩き、外套のフードも取り去った。


灰色の瞳と、金属だらけの顔が露になる。


「…こんな辺境にも駐屯兵が?」


馬を引きゆっくりと歩きながらテキストがスーカに問う。


「昔の戦時の警戒態勢の名残りだな…忘れられたとも言えるがね。ま、駐屯任務中に村娘の尻に敷かれちまったヤツらでさ。」


「北の女は気が強いからな、村娘は特に。顔と身体は抜群なんだけど」


「同感だな___。…おぉい!あっしだ!スーカだ!注文にあった今季の仕入れ分と別で売る用の他の荷を持ってきた!」


スーカが大声で呼びかけると顔をほころばせた兵士2人が小走りで寄ってくる。


「おぉ!スーカ!待ちかねたぜ!」


「今回は少し早かったんじゃないかい?」


槍を早々に門へ立てかけて歓迎のポーズとして両手を広げ、馬を撫でる2人にスーカはおろか見慣れないであろうテキストに対しても警戒の様子はない。


ヘリとセレも覚えがあるのか、愛おしそうに2人の兵士へ頭を寄せている。


兵士の一方は無精髭、一方は青ひげの目立つ30代くらいの男だった。


戦火もなく警戒するような事象もないのだろう、手入れのおざなりな鎧は少しくたびれていてグッドリーデンの紋様もやや色褪せている。


「荷は全て幌の中だ、別で売る分から前に置いてあるから全部運び出してくれ。内訳と請求書は中のどっかしらにあるだろうからまぁ、勝手に漁って探してくれな。」


「今日は祭りだからどうせ村長が他の荷も全部買い占めるさ…ところでは?」


「…おいっ。」


ニヤケ顔の無精髭の兵士を青ひげの兵士が小声で小突いて諌める。


ただそれは、規律とか威厳の問題ではなく他の誰かに聞かれるとまずい秘密事のような、悪ガキのようなニュアンスを含んでいた。


「“ヤットコ”(抜き本の隠語。要は絵付きのエロ小説)か?あっしの革袋に入れてある。そっちは荷馬車に残しておいてやるから写し終えてから金を払ってくれればいい。」


「助かるよ。『ウィドウワーグの調教師』、あの続き楽しみにしてたんだ。」


「……」


捨て置かれてか、少し表情の曇ったテキストに兵士が目を向ける。


テキストの若干不満げな表情を見ても2人の兵士に警戒はさほどなく、単に物珍しいといった感じだ。


「…あんたは?スーカの連れか?」


「弟子か用心棒でもとったのか?変な顔だな…痛くねぇのかい?」


「テキストだ、しがない冒険者として世界中を旅してて、スーカには途中から乗せてきてもらった。これは国境の通行許可証。あと一応、地図隊ナスカのライセンスね。…顔は心配いらない。滞在を希望したいんだけど__」


「ナ…?いや、とりあえず通行証だけあれば十分だよ、預からせてくれ。」


「ティ__テキストはな、ゼニルカの伝承を聞いてやってきたんだと。…まぁ、あっしが道中でタネを全部明かしてしまったんだがな。」


スーカが遠くに見えるコブフシの木を指さす。


いつものことなのか、スーカの言を聞いた瞬間兵士は二人で顔を見合わせると呆れ笑いでテキストの肩をポンポンと叩いた。


「あぁ、なるほど?そりゃあ残念だったな。ようこそ冒険者様、つまんない村に。」


「冒険者なんて久しぶりに見たよ。いつぶりだ?ま、飯には不自由しない村だしエルクはデカくて美味いからせいぜいゆっくりしてくといいさ。滞在期間は?」


「あっしは1週間ほど滞在して次の荷の手続きを済ませてから出るが…ティキはどうする?」



「もう時期本格的な寒気がやってくる。スーカさんよりズラすんならここでの越冬も視野に入れないといかんぜ。」



「スーカに合わせるよ、どうせならその大きいエルクが罠にかかることを期待しよう。」


テキストが肩をすくめると青ひげの兵士の顔がぱっと輝く。


歯並びは悪いが人の良さそうな笑顔だった。


「そうだ、あんた運がいい。さっきがた罠にかかったぜ、とびきりデカイのだ。」


「あんた、ゼニルカは初めてっぽいな?それなら見たらタマが縮むだろうさ。それじゃ入ってくれ、今日は祭りだからな__運がいい。」


「悪い、じゃねぇか?ま、頑張りな。」


「…?」


内輪で完結しているのだろういまいち要領を得ない話にテキストはどういうことだと疑問を抱かずにはいられない。


隣に立つスーカも抑えられないのか、少し笑っているのが尚更分からなかった。


兵士2人は顔を合わせてクスクスと笑いつつ門扉を開け、スーカとテキストを招き入れる。


徐々に門扉が開いて行く最中、スーカが隣で口を開いた。


「…この集落に宿屋はないが、あっしは毎度寄り合い所を間借りさせてもらえることになっとる、お前さんも一緒に泊まるといい。」


「こちとら根無し草だ。風が防げて横になれるんならどこだってありがたい。料金は?」


「冬は薪がいる分多めに取られるだろうが…ティキの交渉次第ではかなり安くまけて貰えるだろうからとにかく頑張ることだな。」


頑張る?そりゃ何を、とスーカへ聞こうとした瞬間に門扉が開き切る。



__集落の入口、2人の目の前にいたのは……大勢の女たちだった。



いつから情報を掴んでいたのか?集落のすぐ入口へわらわらと集まって来ていた女たちはテキストのことを値踏みと期待の混ざったような瞳でこちらを見ている。


しかし、確かな喜びも感じている表情だった。


『冒険者』といえば物語の主人公、伝記の人物として格好の存在だが実際のところはその殆どがコミュニティを追われた者や脱走兵、脛に傷を持った連中、親がきちんとした教育を受けさせなかったが故に無謀にも旅立った夢だけが先立つ無知で馬鹿な若者などが自らの盗賊行為やその経歴を美しく虚飾するための肩書きだと言うのが実情だ。


故に軽蔑されることや体良く値踏みされ、損得勘定でその能力や無鉄砲さを何かしらと取引することはあっても貨幣の価値、そして能力値を超えて信頼されることなどはまず無い。


そんな『冒険者』が並んで出迎えられるなどという稀な状況を飲み込めないまま、せめて挨拶でもと思った瞬間有無を言わさずテキストは手を引かれ集落の中へ引きずり込まれた。


一歩目を踏み入れる感慨も何もあったものでなく、入口に集っていた女の集団に囲まれて詰め寄られ、すぐに馬車とも引き離される。


面食らったテキストにその後も何も言わせないまま取り囲む村の女たち。


「ちょ…」


「あら、いい身体!いい若さ!いい男!」


「ほらあんた、手を出して!手!ほら見せてってば!ヤダあんたこれ、みんなほら見な!皮が分厚いよ!ちゃんと斧が振れる手じゃないの!ほら、早くこっち来て!」


「何言ってんの!自分とこの薪は明日でもいいでしょ!それよりエルクの解体はできる!?さっき大っきいのが上がったのよ!」


「それこそ村長にやらせりゃ良いじゃないの。それより料理の水汲み!あたしらの洗濯用の水もついでに汲ませてさ!」


「それ、いい!!」


「村長は今無理よ、屋根から落ちて足やっちゃってるじゃないのさ!」


「いやいやまずスーカさんとこの荷降ろしでしょ。しばらくいるんでしょ?…何あんたボサっとしてんのさ。早く動くよ!」


「ねぇねぇ、あんたどこから!?あんたここで結婚しなよォ!ウチの娘とさァ!…どうしたのあんたその顔…痛くないの!?」


「ねぇ!ブランコ直して!ブランコ!ねぇ!」



自らの荷物を降ろす間もなく村の女たちに揉みくちゃにされテキストは全てを察し、お手上げ、といった感じで首を振った。


「“交渉”ね…そういうことか。」


彼女達の視線は労働力としての値踏み。


それでも普通の人間と比べれば好ましい反応を見せる集落の人間たちを見て毒気を抜かれる。


呟く後ろで門扉が閉まり、苦笑するスーカとは反対の方向へどんどん離れたところに運ばれていくテキスト。


しばらく腰を休めることがなさそうな確信を持ち、荷馬車の上で胡座をかいておいて正解だったと心の底から思ったのだった。



❋❋❋❋❋❋



集落はそれほど広くはなく、見えるだけで家がほど近い距離に10棟ほど建てられている他は家畜小屋、薪小屋と寄り合い所があって外れの方に小さな脱穀所と畑があり、皆が持ち回りで運営しているのだろう。


備蓄倉庫もいくつかあるようで村全体で資源を共有して配給という形をとっているらしい。冬が厳しいところではありがちな形式だった。


“村長なら西側の端の方でエルクを吊るしてるよ!最近、屋根直してたら落ちちゃって足を悪くしてるから手伝ってやってちょうだい!”


何をさせるか決まった途端自分に対する興味をなくしたのか忙しなく動き出した女たちに尻を叩かれ、老人に背を叩かれ集落の子供たちに手を引かれ急かされながら向かうと遠くから見ても成獣の倍近い大きさを持つエルクの死体が吊るし台に繋がれていた。


体長は…5mほどだろうか?


スーカは罠にかかると言っていたがこんな化け物サイズを捕らえるとはどんな罠だと言うのだろう?


「………驚いたな…こりゃ噂以上だ。」



そのサイズ感から別大陸に生息するという、エルクよりも大きい別種である鹿、脈角モーセなのではと一瞬疑ったものの毛皮の紋様や爪の形、口吻などの特徴を見るにやはりエルクのオスで間違いない。


しかし、これはそのモーセをも遥かに凌ぐ異常なサイズだろう。


角も立派に枝分かれしていて、その根元の太さは東方の寺院などに生えた綱の張られた神木の枝と相違なかった。


《森の主》、なんてものはどこの森近くにある集落でも聞かされる逸話だがその正体は大抵が少し肥えただけの群れの長か、ひっそりと暮らすことを好む鹿の“獣混ざり“である獣人、枝鹿人エラルカであるのが定石だ。


しかしこれは、正しく《森の主》と呼ぶにふさわしいサイズだろう。いやしかし…


あばら!あばら!


おれ1本全部食べる!


なんて子供たちが普通にはしゃぐ姿を見る限り、この辺りでは普通のサイズなのだろうか。


「…お前さんがスーカの連れか?」


エルクから目を離せないでいると切り株に座り、子供たちに囲まれて禿げ上がった白髪まみれの頭を手のひらでぴしゃぴしゃと叩かれている老人に声をかけられる。


老人は蓄えた髭を子供たちに引かれて好き放題されているがそのままにしながら笑い、ゴラデだ。と名乗った。


「…貴方がこれを吊るしたんですか?」


「無茶を言わんでくれ、そんなことがこの歳で1人でできたんなら、ワシはもう少し別の生き方をしとる。子供たちみんなとと一緒に綱を引いたんだよ…やはり珍しいかね?この大きさは。見たところ…お前さんは冒険者だな?」


「えぇ、正直驚いた。__テキスト。ティキと呼んでくれれば。しばらく厄介になります。」


「かまわんさ__うちの村の若い連中は今持ち回りの徴兵中でな。若い男手はありがたい、せいぜい女たちに使われてやってくれ。ところでお前さん、エルクは捌けるかね?」


どっこらせ、とゴラデが立ち上がるとナイフを取り出してテキストに柄を差し出す。


通常の解体用のものよりも刃渡りの長い、年季の入ったナイフだった。



「いつもならワシがやってやるんだがな…」


そう言うゴラデの傍らには簡素な杖があり、右脚には樹皮と泥の香りがする湿布を施しており本人はそれをべしべしと叩いて本調子でないことを示す。


「獣を捌くのは得意です。この大きさのエルクは初めてですが…ナイフは俺の手持ちのものを使わせて頂いてても?」


「そうか、自分の物があるというのならそれを使えばいい。」


テキストが外套を脱ぎ、衣装を露わにする。


粗末な革製のシャツの上には獣の革を重ね、ワックスで煮詰めて硬度を高めたレザーアーマーを着用しているという軽量さと頑丈さを兼ね備えた、標準的な旅装だった。


鎧を暗くにごった緑色に染めているのは迷彩効果を意識してだろうか?


腰の後ろには錐体の不思議な形をした石と鎖で繋げられた、フランキスカと呼ばれる投擲用の小ぶりな斧が提げられていてそれらをまとめて地面に下ろすと今度は太腿に巻きつけられたケースの留め具を外して肉の厚く、幅広の三日月に近い形をしたナイフを取りだす。


慣れた手つきでくるりと回し、空いた方の手で吊り下げられたエルクの腹をつぅ、となぞると素早く刃を入れ込む位置を決めた。


その手馴れた様子を見たゴラデがほぉ、と感心した声を出す。


「そのナイフ…変わった形だが柄に年季が入っとるな、かなり使い込んどる。」


「俺の師匠からの貰いもんで長い付き合いです。本人はナイフなんか消耗品なんだから捨てる勢いで使えと言うんですが貧乏性なもんで…だましだまし使ってますよ。首は?いつもどの辺りから落として?」


「首?頭はいつも包んで焼くから大き過ぎなければどこでもいいが。…なにかお前さんの方に決まりでもあるのかね?見たところ顔にまじないをかけているようだが」


「いやぁ、別に俺のこだわりじゃなくてね。エルクの首の剥製なんかは国のおえらい人達なんかによく売れるんですよ。俺が仕留めた、なんて吹聴するためにね…全部食うんならま、気にしなくていいですね。」


首元の毛並みを確かめて顎を引き下げるとこれまたサイズの大きい鹿舌が滑りでた。


歯ごたえも良さそうで思わず生唾を飲み込む。



「ほぉ__ワシはもう長いこと村暮らしだからな…スーカも近いことをいつだか言ってたような…しかし偉いさん方なんか狩りなんて自分が雇ったものにやらせればいいだろうに何故わざわざ剥製なんぞに金を出す?」


「やらせる側ってのはね、やらないけどってのを見せるが必要なんですって。これは知人の話ですがね。」


「なるほどな__ティキ、だったか?若い割に色々なことを知っとるらしい…うちの集落では角と皮と骨以外は全てを余すことなくいただくからな、普通にやってくれれば十分だ。」


「…へぇ、タマとサオも?」


「…よそでは食わんのか?」


「俺や俺の友人はみんな好きなんですがねぇ…都住みの連中なんかは嫌がるんです。くさそう、なんて言ってね。」


「もったいない話だ。」


「えぇ、まったく。サオを強い酒に一年漬けた男用の媚薬は飛ぶように売れてるんですがね。…こいつのも立派そうだ。」


そして迷いなくエルクの身体にナイフを滑らせた。


❋❋❋❋❋❋



日も沈みかけて村の柵から見える背の高いコブフシの木に暗い影が落ち、こちらを覗き込んでくる化け物のように見えるようになった頃。


集落のランタンには灯りが点され始めた。



テキストがエルクの皮を剥ぎ、腹腔の内蔵を取り出すと骨の継ぎ目を切り離して肉を部位ごとに分けていく。



「こりゃあすごい規格の骨だな…肺も肝臓もかなり大きいし…ここのリブロースはかなり食いでがありそうだ。」


臓器も骨も、どれも体格どおり発達していて健康状態も問題ないだろう、突然変異や異常発達というわけではなさそうだ。


天敵がいないからか?


なんにせよ、こんな筋肉と正面衝突すれば大柄な羆の鼻ですら一瞬でひしゃげることだろう。


指とナイフについた上質な脂を舐め取りたい誘惑に抗い、肉を持ち上げる。


「あぁ、肋骨は塊のままでいい、まだ骨は切り分けんで大きく切っておいてくれ。」


「…?後で奥方達に?」


「いや、村の決まりでな、そのまま半身分を丸ごとじっくり焼くんだ。焼けたらベンチに子供たちを並んで座らせてみんなで骨を持たせて、最初の一口目をかじらせてやる。切り分けるのはその後だ。」


「へぇ、優しいんですねぇ。どこの集落の人間も、獣混じりですら肉を焼いた時に子供はエルクの骨か眼球の芯ってのがお決まりでしょう?連中はそっちのが喜んだりもしますが。」


「ワシが村長になって、ワシより上の連中が全員死んでから変えたのさ。ゼニルカでは…この集落ではエルクを奪い合う必要などない。何より、子こそが宝だよ。」


「いや、そりゃあいいしきたりだ。あちこちで広めておきますよ__。」


「是非、そうしてくれ。」



ゴラデが取り出した太い内臓をそれぞれ桶により分けて洗っていると誰が歌い出したのか、どこからともなく歌声が聞こえるようになった。



~おぉエルク エルク 森よ恵め



~おぉエルク エルク 我らに恵め



~おぉゼニルカ ゼニルカ エルク恵め



荷降ろしを手伝う人々が、忙しく動き回る女たちが、薪を運ぶ子供たちが、仕事を鼓舞するためか宴の訪れに高揚してか口ずさみ、唄う。


やがて人々の声は重なり、後を追い、ハミングが乗り、合唱へと変化していった。



~エルク エルク 森の分け前


~おぉ エルク エルク 森の分け前…


~エルク エルク 我らに分け前


~おぉ エルク エルク 我らに分け前…


~エルク エルク ゼニルカの分け前


~おぉ エルク エルク ゼニルカの分け前…



「…お前さんとスーカが出発したすぐ後くらいだろうな、この集落は冬季を迎えてより厳しい吹雪に耐えなければならん、エルクでさえもな。」


内臓に付着した糞便をばちゃばちゃと念入りに洗いながらふと、ゴラデが呟き始めた。


「…ここいらでは人も冬篭りをするんですか?たしか門番の兵士も今日は祭りだと言ってた。」


「小さな祭りだよ、雪籠もり前のうさ晴らしだ。…お前さんが来たのも何かの縁だろう、楽しんでいってくれ。ただし、」


「…森には絶対入るな、ですか?」


「あぁ。理由はスーカから聞いたな?」


「えぇ、興味はありますがね___本当に氷柱が?」


「あぁ、そうだ。…ワシも男だ、冒険者とはちぃと違うが、出世に駆られ若い頃は軍に志願したよ。だが、森だったな、あれは___。」


「………戦争ですか?」


「ゼニルカの出身だったワシは当時山岳兵に入れられた。初陣は山に逃げた残党狩りを命じられてな…いや、それが良かったんだろうな。あれは敵軍の兵士だったが…さんざん怯えながら逃げた挙句、頭の中身や腹の中がそこらの木や草中にぶちまけられた死体で汚された森を一目見た時、ワシは無性に帰りたくなってな。」


「ゴラデさんの歳でいえば__《六次戦》?」


「あぁ、それっきりだ…軍隊はすぐに辞めてしまった。幸い、ワシの家は代々村を治めておったから父に頭を下げてな…」


「六次戦といえば人と人の戦争だ。グッドリーデンの前線じゃ死体を焼く間もないほどだったとか。」


「少し違うな、焼く人間より、埋める人間より死体の数の方が遥かに多かったから積んで防壁にしていただけだよ。…伝染病じゃあすぐには死なんからと言ってな___。」


「山で色々と運が良かったんですね。」


「…森が汚れるといかん。死臭が満ちるとエルクが寄らん、そうすると草も木も死んでいく。だがお前さん達のような連中の気持ちは少しだけ分からんでもない。氷柱で死ぬのは勝手だが、しかしゼニルカはワシの故郷だ___。」



この世におそらく国が言うような神はおらん。


ゼニルカの森にもな、


だが、だからといって血で汚してくれるな…


人も、森も、生きてこそなのだ。


そう言うとゴラデは耽るようにエルクの大腸を持って眺めていた。


時折、目を閉じながら。


また歌が聞こえる。



~エルク エルク 森の施し


~おぉ エルク エルク 森の施し…


~エルク エルク ゼニルカの施し


~おぉ エルク エルク ゼニルカの施し…


~エルク エルク 妖精ピクシィの恵み


~おぉエルク エルク 妖精ピクシィの恵み…



~我ら満たし 我ら満たし 村満ちよ


~満たせ 満たせ 村満たせ…


~我らの喜び 恵みの喜び 森満ちよ


~喜べ 喜べ 森も喜べ…


~エルク エルク ゼニルカに満ちよ


~おぉエルク エルク ゼニルカに満ちよ…


~エルク エルク 森に満ちよ


~おお エルク エルク 森に満ちよ…




歌は今や集落中の人間が歌い出し、うねる波のような広がりを見せていた。


あたたかみのある声が耳を心地よく揺らし、反するように冷たい風がテキストの頬を撫でる。



「…肝に銘じましょう。それに…俺は物書きですがこの集落の事はなるべく内緒にしておきますよ。」


「そうしてくれると助かるな。それよりも……お前さん、冒険者はやめてうちの集落で暮らさんか?お前さん、エルク捌きのスジがいい。」


「そりゃあ、恐縮です。ただ、俺の友人はもっと上手くやりますよ。阿呆で野暮な狼人ワーグで…肉の焼き方が足りてないのが玉に瑕ですがね。」


狼人ワーグ… 狼と人の特性を備えた知性を持つ二足歩行の獣混じり。どちらかといえばコミュニティ主義で一族以外の者は同種であろうと遠ざける排他的な一面がある。四足歩行で肉食性の『人狼ウェルフィン』とは別種。)



「いやぁ、本当だ。今まで来た旅人の中で一番刃物が上手いぞ、村の者たちよりもな。幸い、この村は森のエルクが我らの生活を満たしてくれるから飢えることはない。肉は氷室で備蓄できるし骨は肥料、毛皮と角はスーカが売ってくれる__。」


「ありがたい話ですが__ひとつのところには留まれない性分でしてね。」


「…そうか。だが、まだ会ってすぐだとしてもな、ティキだったか?ワシはなんとなくお前さんが気に入ったよ。気が変わったらいつでもウチへ来るといい。…故郷はいいもんだぞ。」


「それじゃあ、そのことも覚えておきましょう。…スーカとは長いんですか?本人はこの辺りで細々と、なんて言ってましたが。」


「奴か?アイツとワシは年は同じだよ。元々は商人達のキャラバンに乗っていた一人で…尋ねてくる度に遊んだものだ。ワシも背が小さくて鼻がデカイからな、子供の頃なんかはノームの兄弟なんて呼ばれていたよ。」


「たしかスーカも言ってましたね、本人はキャラバンとははぐれたのだと。」


「戦争特需が始まったのさ。当時の商隊はみんな戦地へ赴くようになった。…だがキャラバンがここを訪れなくなっても奴だけは変わらず荷を運んで来てくれる。…最近は話すことも減ったがね。」


「…何か揉め事でも?」


「いや、ワシが老いて…白髪も禿げ上がってからよ。話しかければ返してくれるが…優しい男だ。奴なりに別れの準備をしてくれているんだろう。」


「…ここはいい所ですよ。スーカもきっと、ずっと来てくれる。」


「今は女たちがちとうるさいがね。」


「女子供がはしゃげるところはいい所です。歌が流れるなら特にね。」


テキストが素直に褒めるとゴラデは目を閉じて静かに笑う。心地良さげでもり、浸るようでもあった。


「せめて___森に感謝をな。森が聞いてくれるといいが。」


「村長は歌わないんですか?」


「ワシか?ワシはな____。」



「忘れるところだった!旅人さん!剥いだ皮どこ!?なめしの準備するから!出してちょうだい!あら?もう肉も骨もバラしちゃってるじゃないの!なら言ってよ!村長も!も~お!ほら持ってっちゃお!そしたら焼き場の準備ね!」



テキストとゴラデ村長との会話の途中で突如現われた闖入者。


猛然と駆けてきた村の女性は早口で捲したてたと思うと除かれたエルクの皮を掴みあげたと同時にテキストの袖を掴んで引きずろうとする。


「サリ。…客人にあまりご無体な掴み方をするもんじゃない。」


「いやぁ、押しの強い女は好きですよ。」


「ほら!旅人さんだってこう言ってる!でもアタシってもう旦那いるのよねぇ。徴兵から帰ってこなかったら口説いてちょうだい!整地が仕事らしいから多分死なないけど!アハハ!」


ゴラデは口達者な村の女たちに困った様子だがそれを楽しんでいるようにも見えた。


手で追い払う仕草をするとサリと呼ばれた女性は内臓の入った桶を抱えてテキストを誘導し始める。


「では、また後で挨拶に行きます。」


「あぁ__。ティキ、お前さんの話をぜひ聞かせて欲しいな。」


「いつでも。」



「ちょっと、早くしてちょうだい!」



歌に混じり、大きな声でサリががなった。




❋❋❋❋❋



は火を見ていた


温かかった記憶


火の記憶、火を見ていた



灯りだ





歌 むらの歌



ぅたが聞こえる


が聞こえる


好きだった歌だ




一緒にった


教えくれ


エルクが だと言っていた


が好きだと言ってくれた



よろこんでいるのか



おまえ も か



なら、きみもか


まだ大 じよぅぶ


してる




きみが、 いる?




❋❋❋❋❋




「今年も忍耐の時期が来る!しかしゼニルカの森は変わらず恵みと備えを我ら村民にくださった!肉は我らの身体を満たし、角や革は村を十分に満たしてくださる!遠き隣人が運んだ物資も無事届き、今年も全員が飢えることはないだろう!今日は我が国グッドリーデンの王の下へ奉仕する家族の無事を祈りながら、存分に楽しもうじゃないか!」


壇上のゴラデ村長が音頭を取ったあと集落の人々はいっせいに杯を掲げる。



「ビルマイナ王万歳!」


「ゼニルカに!」


「エルクに!」



日が完全に落ちて集落の中心には豪勢に丸太で組まれて作られた焚き火がそびえ立ち、その炎だけがゼニルカの村人を照らし始める頃、宴が始まった。


焚き火の周りを食べ物で囲み、村の女たちが総出で作ったスープ、エルクの煮込みにロースト、キビの粉を薄く焼いた生地に小間切れ肉を香草で炒めたものを包んだ食べ物。それにスーカの仕入れてきたものも並んでそこらの集落では中々見られない豪奢なメニューだった。


焚き火の近くではエルク肉の豪快に刺さった串が囲めてしまうほど何本も置かれて表面をじりじりと炙られている。


肋の塊は吊るし焼きにされ、油の滴り落ちる様を子供たちが輝いた目で見ていた。


きっとこれがこのゼニルカの集落の祭りなのだろう、村民たちが思い思いに楽しみながら踊り、エルクの肉を頬張り森の恵みを謳歌する。


少ない男も多い女も関係なく立ち上がって酒を口にし、全員が輪になって手を叩きながら踊り、歌っていた。


集落の子供たちも普段はなかなか口にできないであろうスーカの持ち込んだ魚介類などを口にしながら歩き回り、スーカの馬であるヘレとセレに野菜を食べさせ、皆がきゃらきゃらと笑い声をあげる。


客人であるテキストとスーカもそれに混じり、テキストは初めて会う集落の人々たちから名乗りを受けて次々に酒を注がれながら乾していった。



「エシュリカ」「サリ」「ミナ」「ヘレラ」「エリセ」「マーガリー」「サロトバ」「クシュ」「セツ__」


「よう、冒険者さん?駐屯兵のオックスってんだ。この汚ぇ青髭がリンダ。あそこで遊んでる鼻垂らしがうちのガキのイゴールだ。」


「お前の無精髭の方が汚ぇよ…リンダだ。…ところで、ヤットコ持ってたら見せてくれねぇか?持ってるのはもう見飽きちまったんだ。」



集落の人間はそれほど多くはなく、子供を含めても30人もいないだろう。


そして徴兵のせいで若い男は極端に少なく、いちばん若いであろう男のリンダとオックスも鎧を脱いで自分の妻や若い女たちにどやされていた。


老人たちは寄りあって過去の自慢話に夢中になっている。


男も女も年の隔たりなく並んで笑っている、いい所だ。厳しい寒ささえ除けば誰でも住みたくなることだろう。


きっと、自分以外の誰もが。


火と、それに照らされた人々を眺めながら酒を飲み干す。


ひとしきり挨拶が落ち着いたところでテキストの隣にスーカが座り、杯を差し出した。


テキストもそれに応える。


「ティキはよく飲むな、改めてスーカだ。」


「テキスト、変わらずティキでいい。結構色んなとこの村祭りには参加したけど、初めましてで名前と酒を注がれる文化ってのはどこでも誰でも変わらないもんだよ。」


「ハハ、いや違いない。」


「酒は嫌いじゃない。ただ、月猫人ケットシーの作るマタタビ酒には辟易したけどね。本人達は気持ちよさそうに酔って乱癡気してたが、ありゃひでえ味だ。スーカも手に入れたら今度飲んでみるといいさ。」



(月猫人ケットシー…猫と人の特性を備えた2足で歩行する知性ある猫の獣混じり。悠悠自適であり、その美貌で他種族に奉仕させる者が多く興味も薄いのか政治的には中立の立場を取ることが多い。

何故か呪いの類が一切通用しないことはその原因は未だ解明されていない。四足歩行で尾が二又に分かれ、非常に長命で人語を解する又猫カルバンクルとは別種。)



「グッドリーデンにケットシーはほとんどいないんだがね。それに、獣混じり達の作る飯は味が薄くて食い出がなぁ。」


「肉より骨を喜ぶもんな。…しっかしこの半分凍ったエルク肉を血と酒と香辛料で漬けたやつ?これは美味いなぁ!」


肉体を酷使する重労働を終えた体がぎとぎととした甘い肉の脂を喜ぶのは当然だが中でもそれは格別だったようで、ピアス越しにもわかるほどテキストは顔をほころばせる。


噛んだ瞬間にさり、と冷たい食感がしながらも口内で咀嚼しているうちに肉が徐々に溶けていき、くちくちとまとわりつく癖になる食感と大蒜の風味、スパイス、血の風味を楽しみながら嚥下した。


「お?ティキはそいつを気に入ったか。そりゃあな、この集落に伝わるとびきりのイロモノだよ。」


「イロモノ?確かによそのエルク料理では見たことないけど…」


スーカがニヤけながら首を振る。


「違う違う、“色”モノ、要は精力剤だ。5切れも食べれば一晩寝ずに動き回れるしあっちの方も強くなるってな…ティキ、お前さんそれを誰かに渡されたか?」


「え?いやぁ…さっきから集落の皆がみんな、なんかしらくれるもんだからハッキリとは…」


「なんだ、忘れたのか…もしそれを渡してきたのが女だったんなら…ま、そういうことだな。お前さん、もう気にいられちまったかもしれんぞ…おそらく…」


「そうか…楽しみにしとくよ。ところでスーカ、友人として一つ頼んでいいか?」


「どうした、友の頼みならなんでも聞くぞ。」


「…『ウィドウワーグの調教師』なんだが…」


「おぉ、なんだ官能小説ヤットコか。ティキも好き者だな__ただあいにくだが先約は集落の連中だからな、奴らが写し終わり次第お前さんにも_」


「いやなぁ…その…」


「…まさかお前さん、さっきの精力剤がもう効いてきたのか?」


にやにやと楽しそうに笑いながらちらりとまたぐらに視線を落としたスーカの顔を向いて肩に触れるとテキストは真剣に顔を見つめた。


「……スーカ…」


全身を向けて背の小さなノームの瞳を見つめて顔を近づけてくる人間ヒュームの姿にスーカは思わずたじろぐ。


なんの混じりもない、真剣な眼差しだった。


そのテキストの眼差し、吸い込まれるような灰色の瞳にスーカは酔いが醒めたかのようにたじろぐ。


「…ティキ?……!いや、そのすまん__お前さんのことは気に入っとるがその…あっしにそっちの方のケは…それもお前さんとはそもそも今日出会ったばかりで__」


「…?何言ってんだ?」


少し眉をひそめたと思うとスーカの発言の意図を察したテキストはやがてスーカの顔を指をさしてげらげらと笑い始めた。


「ん?…夜の誘いじゃないのか?」


「何を、アホ言え。…あんま大きい声じゃ言えないけどな、あのヤットコは…そのな……俺が書いてる本だから写本商売は他の奴のでやってくれねぇか?…次からは。」


テキストがこっそりと耳元で囁くとスーカが口に含んだ酒を吹き出し、ばちばちと焚き火がはじける。


その友人の様子を見てテキストは再びげらげらと笑ったのだった。


「ちょっとちょっと、スーカさん、ティキさんもそんな他所の人同士だけで楽しく飲んでないでさ、こっち来てよ!お酌したげるからぁ。」


「なぁにを!スーカさんだってもうココの人みたいなもんでしょ!…ちょっとアンタ、もう酔っちゃって顔赤くしてんの?」


「これしきで酔うわけないでしょお?これはね…新しい恋よォ!キャハハハハ!ティキさん?ほらこっち。こっちおいでなさいな!お肉切ってあげるから。」


「お口にも運んでベッドでシモの世話までしてあげてって!?キャハハハ!」


「足りないの分はお肉巻いてって?」


「この前でアンタ60になっちゃったっていうのに何言っちゃってんのさ!あははは!」



「こらこら、客人に絡んじゃいかんだろう。今日のエルクは彼が殆ど処理したのだから感謝しなさい、まだ子供たちも起きとるんだぞ。」



宴はまだ始まったばかりだが、もう酔いが回っているようで子供のように足をパタパタと揺らして下品なジョークで笑う女たちにゴラデが諌めに入ってきた。


そして、テキストが姿勢を正そうとするのを手で制してテキストとスーカに改めて酒を注ぐ。


「これはスーカの荷の中にあったワシの選んだウォッカだ。口当たりは辛いが脂を流すのにいいぞ。…スーカのウォッカってな!くはは!」


「なんだゴラデ、お前も酔っているのか?それに大して上手くもない洒落を__孫もいるんだからもっと身体を大事にだな…」


快活に笑いながらウォッカを注ぐゴラデを今度はスーカが諌める。


その顔つきは、紛れもなく旧知の友に対するものだった。


「…なんの酒でもいただきますよ。改めてテキスト…ティキです。」


「さっきは解体、ご苦労だったな。普段ならワシ1人でやるんだがあいにく足がこのザマでな…改めて村長代理のゴラデだ。一週間だったか?とにかくしばらくゆっくりしていくといい。」


「村長…代理?でっきり村長本人だとばかり…しかもみんなもそう呼んでる。」


「実は既に引退していたんだが___生憎後を継いだ息子は今義務徴兵中でな、またワシが代行しとるよ。」


「道理で今日は村に男が少ないわけだ。」


スーカが周りを見渡して言った。


すると、間髪入れず老女たちが身を乗り出してきて、1人に至ってはテキストの肩に頬を擦り付けて体毛の少ない顎に触れた。


「ゴラデさんも村長やってた頃はたぁんと髭を蓄えて威厳たっぷりにしてたのにねぇ?」


「嫁さんの次は義理の娘の尻にも敷かれて、今じゃ髭も孫のおもちゃって。キャハハ!」


「…いやすまんな、やかましい女共で。」


「いや、元気な女は好きな方だ。」


「あっしも同じく。」


「それはそうとさっきはご苦労だったな、礼には足りんかもしれんが肝臓の上部と真ん中はお前さんの物だ。新鮮なエルクの中で最も美味いが、この歳になると味が強すぎてな__。」


「何言ってる。仮にも長なんだ、分けるのは構わんがそれじゃあ示しがつかんだろ。それに弱った体だからこそ強いものを流し込め。」


スーカも酔っているのか、遠慮なく杯をあおり口を挟みながらくっくっ、と笑ってまた酒を全員分継ぎ足す。


ゴラデはムッとしながら注がれたウォッカを一息に飲み干し、ぶはぁと酒臭い息を吐いた。


「なんだなんだ、スーカ。今頃になってワシの心配か。お前に心配されるほどまだ老いてもないし孫にも杖の世話にもならんわ。同食同治という言葉もある、今のワシにはアキレス腱くらいがいいのさ。」


そう言って固く煮たアキレス腱をぎしぎしと噛むゴラデの顎はとても頑丈そうだった。


ゴラデ、スーカ、テキストの3人でしばらく酒を酌み交す。



「…ティキ、そういえばお前さん、集落に入る前にオックスとリンダに通行証以外のものを見せてたな。“なすか”…とか言ってたか?ありゃあ、一体なんだ?」


「なすか?」


「あぁ、あれな__」


テキストが懐を漁り、1枚の小さな紙を取り出すと2人に広げて見せる。


それは、紙幣のような小さく細長い紙だった。


しかし、明らかに人のものではない言語と証印が血の文字で紙から赤く浮かび上がり、2人の目の前でゆらゆらと揺れている。


そのことからこの世界のどこの地域でも公文書としては取り扱われていないで書式だということは明白だった。


ゴラデにはどのようなものかよく分からなかったようだがその不気味な用紙に顔をひきつらせ、逆にその書式を見たスーカは眉を顰めた。


「ティキ…初めて見たがお前さんこれは、『魔封書』じゃないか?」


「へぇ、よく分かったな。」


一発で導かれた正解にテキスト素直に賞賛の顔を浮かべた。


しかし、より一層スーカの表情は曇るばかりだ。


「…まふうしょ?」


不穏な表情を浮かべるスーカにゴラデが問う。


「…悪魔の作った書類であり、契約書だ。連中は取り引きを好むからな___契約者を魂で紐づけるからそこに書かれた契約…条件からは絶対に逃げられない。」


「…それは、ティキ…あまり良くないものなのではないか?」


「まぁ、悪魔との取引なんて言えば聞こえは良くないけど問題は何が書いてあるか、だからね。これに書いてあることはそう恐ろしいことじゃない、許可証ライセンスなんだから」


別に何も呪われてやしないよ。


そう言ってテキストはなんでもないかのように指で挟んでピラピラと紙を揺らした。


「それで、それにはなんと?」


「そうだな…簡単に言うと【全国家に認可され最新の世界地図制作を担う地図隊ナスカの一員である証です。世界のどんなところにも入れる資格があります】


【ただし、地図隊が保証するのはそのです。所持者自身の安全に対しては一切の責任を負わず、所持者に上記の資格以上の権利等は一切発生しません。】


ってところかな、簡単に言えばこの世界のお偉いさんが作ったどこにでも入れる許可証。これを持ってれば俺は禁足地だろうが火山の火口だろうがどこにだって入っていい。だけど俺が入ることで…例えばその地の誰かが禁足地を汚された呪いで死ぬことになる、とかそういう明確な害があって断られたとしても許可証あんだから入れろ、なんて風に使うことはできないってわけ。裁判所とか牢獄の中とかも当然ね。」


「…………………」


「……………」


べらべらとまくし立てるようなテキストの説明を疑問視するスーカとゴラデ。


腑に落ちない反応は誰だって当然のものだ。



「……それで終わりか?ほぉ?いやしかし…」



「……ティキ…この契約をする際にお前さんはいったい自分の何を取引したんだ?」



「そこそこ大金を支払ったよ。スーカ…あんたの荷馬車が3回は買い直せて繋げる馬をもう1頭増やせるくらいのね。」


「その不気味な気色の悪い紙切れ1枚にか!?」


「ヘリとセレは夫婦だからもう一頭は要らんのだが…なぁ、ティキ___こんな話を知っとるか?」


「何だよスーカ。物書きたる俺のお株を奪うような真似をして…」


「あっしが元々は商隊…キャラバンにいたことは道中で話したな?」


「あぁ。」


「あっしは当然商売に長けた連中と行動を共にしていた。モノの売買だけに留まらず、“投資”の話もあったりして…その中で『天界権利書』なんてものが一時期流行ったのは知っとるか?」



「天界だけならワシも聞いたことあるな。天界発見と言えば…5次戦直後か?」


「俺も天界は知ってる。まだ行ったことは無いけど。で、『天界権利書』?って?」


「グンカンドリの有翼人タンガタ、ハミルタの功績により天界へ繋がる雲海航路が発見され地上の住人が空にまで進出した際、地上で出回ったものなんだがね…」



有翼人タンガタ…二対の羽を持つ鳥の獣混じり。背に羽を生やし飛行する者、そして腕と羽が一体化している者と二種に分かれる。前者は天界の血がより濃く、後者は人の血が濃いとされるが起源に関しては未だ謎が多い。)



「ハミルタは分かるよ。冒険者の中で最も功績を残した渡り鳥だ、俺も何度か会ってる。今でも生きてるぜ。」


「そんな奴とも面識があるのか!?いや、今は置いとこう__ある時、天界の地図を出し区切って土地を競売にかけた団体がおったのさ。土地はどんどん落札され、その中には教会やカンパニーもいた。」


「そりゃあ売れるだろうな。道ができるより前に乗り込むのがカンパニーだし、天界に一番乗りした教会なんて土地代はすぐにもと取るどころか釣りが来る。」


「…だがいざ天界でその権利書を見せてみても天界人は知らん顔。そもそも天界は誰のものでもないし『』なんて具合にな。文句をつけに行ったら売り捌いてた連中は、という具合だ。』


「ははぁ__スーカが何を言いたいかワシにはだいたい分かったぞ…ティキの持っている地図隊のライセンスに書かれていることは…言ってしまえば【そんな資格、大金払って手に入れなくたってそんなことはどこの誰だって似たようなもんだろう?】ということか。」


「あぁ、そういうことだな…。あっしらには愚行権があるのだから火山の火口に行くのは構わないだろう、溶岩の中でもな。しかし危険地域の見張りに見つかればそりゃあ止められる__なのに特権がないのならそんな許可証になんの意味がある?」


半ば呆れた様子の表情をしたスーカと村長にテキストは苦笑を漏らす。


「まぁ、本当に言われてみればそうなんだよね。それこそ、スーカみたいな商人なんかにこの紙を見せるとよく笑われるよ。タチの悪い冗談だこれは、ってね。」


「そりゃあ、そうだろう。あっしはまぁ、せこい荷引きだがそれでも契約書にはきっちり目を通す。特に“際限のないもの”が条件に含まれてる、なんて時はな__仮にそれが水だとするなら入れ物が極端に小さな小瓶に指定されてるか瓶が最初から割れてると相場が決まっとる。」


「『許可証どころか間抜けの証明書』だなんて言われたりしたこともあったな__。それも正しい、だけどこの許可証の真価は別のところにあるんだ。」


「真価?今言ったこと以外の記載が?」


「いや、ない。この契約を作ったのはとある悪魔なんだが…この紙を持つ奴らが世界のどこかを歩く度にそこの地形、気候、風化具合なんかが記録されていき、冒険者の手で備考欄を付け加えて行くことも可能だ。そうして毎年最新の世界地図が発行されている。」


テキストの説明にゴラデの顔が曇る。


「まさか、この集落のことも色々と載るんじゃないだろうな?」


「人の暮らす様や文化なんかは特別に記載しない限りは載らないんで安心してほしい。…何より重要なのはこれを持つこと、それこそが特権なんだ。俺たちはこの許可証の有無で冒険者のことを見極める。もぐりか、間抜けか、かをね。」


「…なるほど、それがお前さん達だけの繋がりってやつか。」


「そんな排他的なもんでもないよ、どこにでも置いてある掲示板みたいなもんさ。信憑性が変わってくるだけでね…こんな日々だからこそ情報抜きに出会いは大事にしたいし、何よりライセンスなんかなくったって筋金入りのアホはどこにでもいる。」


テキストはウォッカを呷り、1匹のワーグを思い浮かべて思い出し笑いをした。


保安官、今は捜査官か。ジェロ__今頃あいつは慣れない旅に四苦八苦していることだろう。


あの未熟な狼人ワーグはまた焼きもしないで虫でも食ってるんじゃないだろうか?


くくく、と笑みを浮かべるテキストを2人が眺めている。


「楽しい思い出でもあったようだな。…良ければ聞かせてくれるかね__ティキ、お前さんの旅の話を。」


「そうだな、これはつい最近の出来事なんだが、ジェロという名前の間抜けで強欲な保安官のワーグがいてな__」



「あぁ、少し待て待て…。おい皆!客人のティキさんが面白い話をしてくださる!旅の話だ!集まれ!」


ゴラデが呼びかけるとすぐにぞろぞろと人が集まりだし、テキストを囲むように座り出す。


辺境の村だ、楽しそうな何かへの嗅覚は鋭敏なのだろう。


「…俺は物書きであって語り部ってわけじゃないんだけどな…ま、いいか。これはジェロという名前の間抜けなワーグの話なんだが…あ、ちょっとそこ、子供は前に入れてやってくれな。___こんな話がある。」


燃え盛る焚き火を背景にテキストが立ち上がり人々に向かって語り始める。


宴の火は当分消えそうになかった。



❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋





口での呼吸を止めて、口蓋の肉を軽く噛む。


同じ強さで、意識が冴えるよう少し痛い程度に。


力まず、平常の呼吸をして落ち着いていれば噛み切ってしまうことはない。


溜まった息は鼻から少しずつ出していく。


吸うことはしない。


どんな状況下にあっても心を鎮めて矢を射るための呼吸法はの教えだ。


いた。


少年は矢をつがえ、その先にある獣の香りを放つ暗い瞳へと照準を向ける。


しかし、瞳を覗くというのは相手の見ているものをも覗く行為だ。


ぎりぎりと弦を引き絞り、それを手放せば全てが終わる。


分かっていても少年はそれが映す瞳の中の灯りを見た時、その弓を下ろした。


今日も、撃てなかった。



また次もエルクを捧げよう____



❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋


…たとえ目が見えなくとも肌に触れる暖かい空気で朝の訪れは分かる。


…風の運ぶ匂いで季節の訪れは知れる。


自分の思い描く色は、油臭で自然とその手に欲しい絵の具を握らせて筆に乗せ、キャンバスに表現することができた。


自分に触れた人が母であるかどうかは水仕事で荒れた手を、それさえも包み込むようなあたたかい体温が触れてくれればすぐに分かる。


父という人間は草土の匂いを孕んだ大きくごつごつとした手、分厚い手の皮から働き者であることは明白だ。


両親の自分に対する愛情は声色で分かる。


しかし、自分が見えなくとも簡単に分かるものは、他の人には簡単に見えないものらしい。


見えるものではないのだろうか?


故に、私の描いたものには高値がついた。


見えない世界で私は描いた。


私だけの世界を。私だけが見える世界を。



___ある日のことだ。



《_____さぁ、聞かせて貰おうかな。》


ある日、何も映すことのない私の瞳の内側に1匹の魔神が現れた。


《_____君の欲しいものは?》


語りかけてくるそれに私は願う。


?》


彼は聞いた。


《…そっかぁ。》


そして呆れた。


《いや何、意外とつまらないものを願うんだね。しかしそれこそ君が正常である証だよ。》


僕を瞳の内に映せること___


それに比べればその価値が分からない君の願いなんてありふれていてくだらない、チンケなものさ。


白い“もや”のような彼が私の瞳の内を泳ぐ。



《分かりきってたことではあるんだけどね。》



彼の顔も見えないのに私には分かっていた。


彼が今腕を組んで、呆れ顔をしているのが。



《当然もあげられるよ?それだけスゴい力があるんだよ、ボカァね。》


見えないのに、分かっていた。


《ただし、というかもちろんタダじゃない。》


貴方は神ではないのか?


《そう都合のいい存在じゃないよ、ボカァ。》


僕は魔神だからね、そう付け加える。


《あげるんじゃない、引き換えさ。》


魔神と名乗った彼は指さす。


瞳の中にいるはずなのに、確かに私の瞳を指さしてこう言った。


《それも、君が持ってる君以上に価値があるものと引き換えるのさ___。》


引き換え?


《…対価っていうのは必ずしも平等なものだとは限らないだろう?公平であってもね。》


引き換えるとは一体何を?


《君にとって、いやだれにとっても同じことなのだけどね___。》


死後、魔神らしく私の魂を自分のものにするとでもいうのか?


これは悪魔との契約か?


《なに?君の魂?そんなものなんか要らないよ、そんなのはね、とっくに僕ァ腐らせるほど持ってるんだ。腐り果てて、枯れて、何にもならないたまクズばかり持て余しているんだよ、僕ァね。》


なら_____


《魂でないなら?身体かって?》


私の持っているものなんてそれしかない。


《馬鹿言うな。君の身体にそんな価値があるとでも?今しがた君自身が容易く譲り渡そうとした、そんなものにまさか価値があると?冗談じゃない、馬鹿言えよ。》


魔神が再度呆れた声を出す。


何度も誰かと似たような問答をしたのだろうか?その声はうんざりしたものを孕んでいた。


《…まぁ、身体は貰うんだけども。》


《…いや、やはり魂もなのかもしれない。》


私の全てを?


《しかし君を縛るわけじゃないんだ》


《いや、これはやはり縛りかもね。》


いったい、どういうことだ?答えてくれ。


《君が望むのは僕にじゃない、君にさ。》


《君が望んだ世界に臨めるのは君だけさ。》


《それこそ僕が君に求めるもので、君が求めるものこそ僕が望むものなんだよ。》


…………。


《何?》

《よく分からない?そりゃあいい。》


魔神はようやく素直に笑う。


《理解されても、知った気になられてもそれじゃあ興が醒めるだけだ。僕も、君もね。》


《それじゃ、成立だ。頂くよ。》


《君のような物分かりの悪いアホウは好きさ》


《ま、せいぜい楽しんでくれ。》


《少しばかり痛みを伴うだろうがね____》



瞬間、白いもやは消え去り世界は暗転して…その次に目の中に指を突っ込まれて瞳の中をかき混ぜられるような激痛が走った。


《おっと、名乗り忘れてた…僕はグリストってんだ。魔神とはいえそう大したもんじゃない、ただの道楽者さ。》


黒がほどけてそこから見たこともない色が網膜に流れ出す。


《世界は君が見るべき程のものか、。》


本能が赤を、青を、緑を認識して私の頭の中に散らばり奥底から白が散った。



《何となく、君とは長い付き合いになりそうだ…よろしく、。》



応じる気にもなれない。


涙が止まらない。


光が痛い。



それはしばらく続き、やがてやわらぎ始めた頃に魔神が薄れゆく意識の中で私に問いかける。




《ところで君、僕と取引してまで見てみたいものってのはいったいなんなんだい?》



……虹。



そう答えた。



魔人からの返答はなかった。






次に目を開けると何の変哲もない部屋があった。


おそるおそる、やわらかなベッドから身を起こして足を下ろし…見えている足と床が触れるその瞬間を確かめる。


あたりは夜。


月はまだ登りきっていない。


…その時私の目には本当に、世界があった。


しかし、さほど混乱はしなかった。


私はいつものスツールへ腰掛けると目が慣れるまでキャンバスに描いた。


描いて、描いて、描いた。


未完成のキャンバスを、頭の中の朧気な記憶を、見えなかった頃に見ていた、見えないものを描き切って描き潰した。


できるだけ、思い出せるだけの全てを白い紙の上で筆を踊らせ、描き遺した。



最後に、鏡を見た。



初めて見る私の瞳は、黒と白を当分に混ぜたような灰色をしていた。



そして月が沈みかける頃、私は最後に鏡に映る自分の姿を描き遺すとそのまま家を飛び出したのだった。




❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋❋



…………ぅ~~~~~~~…


微かな鳴き声。


テキストがベッドの中で目を開けると、視界の先には下着だけをその身にまとった赤毛の女性が暖炉の炭を掻き回していた。


ぱちぱちと音が鳴ると小さな明かりが揺らめいて、火かき棒を持った彼女の赤毛が少し煌めいている。


30代より少し前くらいだろうか?年相応に肉付きのいい身体と厚くぽってりした唇に火の赤が程よく映えて美しいシルエットを描いていた。


照らされた相貌を眺めていると視線に気づいたのか彼女は振り向き、はにかむ。


「あ、起きた?」


「ずっと起きてたよ。」


「嘘。満足してしっかり寝てたじゃない。」


「目を閉じてただけさ、ちゃんと起きてた。」


「うっそだぁ。だったら、私を起こさないようにちゃんと暖炉に薪を足してくれなくっちゃあ。」


そう言って静かに燃える薪を投げ込むとかこん、と乾いた音が響く。


「そうするとほら、ベッドから君の背中とお尻のラインを寝そべりながら覗けないだろう?」


「スケベね。…葡萄酒、一緒にのむ?」


「貰おうかな___。」


女性はワインの入った水差しとグラスを1つ手に持ち、ベッドの上に座ると膝に毛布を敷いておいでとばかりにぽんぽんと叩いた。


テキストは笑いながら首を振って毛布を取り払うと遠慮なく彼女の柔らかな太腿に体を預け、頬を撫でる。



「…エルクが鳴いてたな。」


「嘘、聞こえるの?」


「どっちだと思う?」



彼女が葡萄酒を口に含んだのでテキストも杯を受け取ろうとしたがテキストのつまらないからかい方に怒ったのか、頑なに手にしたそれを離そうとしない。


意地悪な笑みを浮かべる彼女がワインを口に含むとテキストは彼女の顎を軽く掴んで寄せ、唇を交わして伝ってくる葡萄酒を飲み干した。


離れ際に唇をほんの少しだけ噛んでやると女性はかすかに甘い声を漏らし、照れを隠すようにテキストの頬をぴしゃりと軽く叩く。


少し前までテキストの腰に跨って跳ねていた、祭りの宴の席で精力剤である鹿肉の血漬けを渡した女だった。


名前はヘレラと言うらしい。


「こぼしたらベッドが汚れちゃうでしょ?」


「こぼさなかったろ?それに、ベッドはとっくに君がだいぶ汚してる。」


「汚させたのは誰よ。」


「さぁ?」


子供たちが満腹になって寝床に入り出し、大人もちらちらと帰り始め、誰も彼もが前後不覚になり始めた宴もたけなわの頃、狙い済ましたかのようにテキストの隣に座って「旅の話が聞きたい」と手を重ねて上目遣いに見てきたのを無下にしなかったのは、彼女に惹かれていたからかそれとも精力剤の影響だろうか?


どちらにせよ、本来ならば滞在初日はゴラデやスーカの厚意に応えて寄り合い所で寝るべきなのだろうがそれで女性からの誘いを断るほどテキストは我慢強い方ではなかった。


「いつも村を訪れた奴とこうしてるのか?」


「どうしてそんなつまらないこと聞くの?」


ヘレラはからかうような、いたずらっぽい笑みを浮かべてワインを口に含む。


「君の持ってるグラスだよ。北方じゃ見ないデザインだ、そしてこの集落でもね。形が東方あたりの調度品っぽい。」


「あら、私にじゃなくて興味はそっち?」


「傷つけたかな__」


「ちょっぴりね。でも冒険者さんたちの…なんていうか…そういう感じにもだいぶ慣れたわ。…だからって寝るのも泊めるのも誰でもいいって訳じゃないのよ?」


「そんなに軽く見てはいないさ。…結婚は?」


「…できないのよ。医者が言うには子供が埋めない身体みたいでね__この生活でもね。前の村でフィアンセとそいつを寝取った女から追い出されて、ここに来た。」


「けど、別にこの集落で娼婦として身をひさいでるわけじゃないんだろ?ちゃんと働いてたし、集落の人達から爪弾きにされてるわけでもなかった。」


彼女の指を手に取り、手のひらを眺める。


指も細く爪も綺麗にしているが短く切られていて皮が厚い、よく働く者の手だった。


「役割ってやつね。今日みたいに男の人たちが出てる日なんかにやってきたあなたみたいな冒険者が奥様や若い女の子へ悪さしないように私が相手する。たまに女の人相手でも、ね。」


「君も充分若いだろ。しかしそうか…ま、よくある話だよ。」


「同情してくれないの?」


「して欲しいのか?」


「ぜんぜん。」


「だろ?そうは見えない。___綺麗な目だ」


ヘレラの瞳には今の生活やこれまでの人生に対する悲観も引け目も感じられない。


そう確信できる強い虹彩だった。


「貴方こそ誰にだってそう言うんでしょ。…別に誰かに言われて旅人と寝てるわけでもないしね。ここは私なんかも受け入れてくれる所だから、私なりにできることで返したいのかも。」


「しかし今度は集落の連中から言い寄られたりはしないのか?それこそ俺みたいな冒険者にも口説かれたりとか。」


「そんなもん突っぱねちゃうわよ。集落の男から色目を使われないことがないわけじゃないけど、ここじゃあ女の方が強いしね。」


笑いながらヘレラはグラスを置いてテキストの髪に指を通した。


そのまま手を耳に持って行くとイヤリングをちゃらちゃらと弄り出して無邪気で面白そうな笑みを浮かべ始める。


心地いい手つきだった。


「でも、今の生活は好きよ。たまに冒険者さんが来た日なんかもこうして夜はひとりじめできるし、面白い話やこのグラスみたいに面白いものを見せてくれる。たまにセックスが乱暴なのもいたりするけどね。」


「へぇ、獣混じりなんかとも?」


「何度かね。…でも彼ら、大抵は子供がいる家で寝泊まりすることになるから。毛の長い狼人ワーグや優しい狼犬人ガルムなんかは特にね。」



狼犬人ガルム…人と魔の世界が交わって以降の時代に生まれた獣混じり。ワーグよりも身体が小さく犬の特徴を多く含む。知性が非常に高く、従順。その様を他の獣混じりからは軽蔑されている。二足歩行、四足歩行を問わずそう呼ばれる。)



「それもそうか。おかげでアイツら、快く迎え入れてもらえることも多いんだけどな。子供にせがまれるいつものパターンだ。」


「…とはいえ、私がお客様と寝てることは変わらないから。諍いとか不平の種を撒かないように何か貰えばみんなに分け与えるし多少気は使ってるけど、それでもここの人たちはみんな優しい。」


「これからもずっとこの生活を?」


「どうだろうかしら。私ももうそんなに若くは無くなってきてるし、誰も私と寝なくなったらただの独り身のおばあちゃんになるか…森に消えるのも悪くないかもね…幸い、あの世に持っていける話は沢山あることだし。」


「ゴラデさんが怒るんじゃないか?ただでさえ俺みたいなアホの探検者の屍が夏に溶け出してくるんだ、集落の仲間の処理までさせられちゃあかなわんぜ。」


「…それもそうかもね。村長も面白い人よ__意外とロマンチストなの。」


ワインをくゆらせながらヘレラが面白いものを見つけたような、子どもっぽい笑みを浮かべる。


「へぇ?あの顔で?息子に孫がいるんだからそりゃあロマンの欠片くらいは持ってたんだろうけど。」


「あら、村長は可愛い顔してるわよ。…私は呪い師でもないし信心深くもないから妖精とかスピリチュアルなものは信じないけどね…ゼニルカには何かあるんじゃないかって。」


「【森】か?」


「ええ。皆も、私も貴方も行くと危ないと知ってるのに頭の片隅にあって惹かれるあの森。」



ヘレラがワインを飲み、今度は口移しせずテキストへグラスを渡す。


テキストもワインを口に含んだ。


「…君はよそから来たと言ってたけど森に入ったことでも?それとも何かそう思うだけのきっかけが?」


「きっかけ…そうね。ここに越したての頃村長がエルクを捌くのをなんとなく見てたんだけどね…ある時ぽつりぽつりと語り出したの、今でも覚えてるわ。」



ヘレラが言うにはこうらしい。


『どうしてなんだかなぁ___ここいらのエルクは死を悟るのか、罠にかかった奴は一様に目を伏せて黙るんだ。』


『私ら人間よりも遥かに大きいのに、皆一様に頭をもたげてな。』


『おこがましく聞こえるかもしれんが、まるで自らを捧げるかのようにな。儂にはそれがていたかのように見えてならんのだよ。』



「…待ち焦がれる、ね。そりゃあ確かにロマンチストだ。駆け落ち相手や心中相手を待つ思春期の乙女みたいにエルクを呼ぶとはね。」


「私も、それって人間側の傲慢なんじゃないの?って思ったわ。罠にかかって暴れたけど体力を使い果たしたとか、諦めたとか怯えだとか色々理由は考えられるでしょうにって。」


「でも変わった。その…ゴラデさんの言葉の後日か?」


「ええ__ある日、集落の罠にエルクがかかって、その時は私が一番近くにいたの。鳴き声があったから確認しにいって…ティキ、あなた罠はまだ見ていないでしょう?あんなサイズのエルクを捕らえる罠がどんなものなのか、見当がつく?」


「興味はあるから明日にでも見せてもらおうと思ってたよ。…だけどその顔…まさか、普通の括り罠だなんて言うんじゃないだろうな?」


。」


言葉のわりにはなんでもないかのように話すヘレラを見てテキストは身体を起こした。


「なんだって?あのサイズだぜ?戦車チャリオットですら1匹で引き回せそうなあんなサイズのエルクに対して、餌のそばに仕掛けを埋め込んで木に括り付ける、あの簡素な罠で?」



「それよ___。…最初にまだ生きているエルクを見た時、正直一歩も動けなかった。たしかに大人しくしてたけど首だけで私よりも大きいんじゃないかってエルクが、じっと黒い瞳で私を見ていて、足に食い込んだワイヤーも少し力を込めてしまえば括り付けられた木の根っこごと持ち上げて私の事なんて簡単に踏み殺せるんじゃないかってね。」


「村の男たちは?相手がまぁ、化け物みたいな大きさだろうと獲物の鳴き声を1度聞けば駆けてくるのが性ってもんだろ?」


「誰も来なかったわ…その時もみんな知ってたのね、エルクが暴れないって。でも誰もやってこない間、エルクと見つめ合ってる間、私は永遠にそこへ縛り付けられてるような気分だったわ。エルクは確かに伏せているのにも関わらずね。」


「オックスやリンダですら来ないのか。…本当にエルクはゴラデさんに任せてるんだな。彼もゆっくり歩いてきたわけか?」


「そうね…なんでもないみたいに歩いてきた村長が、何回か撫でると慈しむように片方の手でエルクの目を覆って、素早く喉笛を切ってとどめを刺すのを見てからはね…。多分、案外エルクに恋してるのかもね?」


思い出したのか、ぶるっと少し身震いをしたかと思うと平常を取り戻すためかヘレラは少し多めにワインを口にした。


瞳から察するに、恐れ多くもエルクを、そしてそれを屠る様を美しく思ったのだろうか。


「森とエルク、そして村長、か。」


「ちょっと不思議でしょ?」


「そうかも。」



「…ところでティキ。エルクの話で思い出したけど貴方、相当他の種族ともよろしくやってきたでしょ?」


「なんでそんなつまんないこと聞くんだ?」


先程ヘレラがしたつれない返答を意地悪な笑みを浮かべてお返ししてやると彼女は唇を尖らせてテキストの頬をぐにりとつまむ。


テキストは腕を引いてヘレラをベッドに転がすと唇を吸い、首筋から耳までのラインを舌を這わせながら進み、形のいい耳たぶを少し強めに噛んだ。


そして背中を指で下からなぞりあげるとヘレラは弓なりに体をそらして悶える。


「…答えてくれないの?」


「森と同じで不思議の多い男なんだ。」


「バカ。」


今度はヘレラの方からテキストの唇を吸って舌を噛み、手を掴んで自分の秘部へと誘う。


彼女の髪と同じ赤茶色の豊かな密林の奥では熱い粘液がひしめいていた。


誘われるがままに彼女の中へ割り入ると恍惚の表情を浮かべて足を閉じようとするので足の間に自らの足を入れ込み、愛撫から逃げられないようにする。


「さっきも私のお尻じゃなくてお尻の骨を何回か無意識に撫で回してた。…獣混じりを組み敷いたことのある人はそうするクセがあるんですって。」


「へぇ、そりゃあいいこと聞いた。…参考に覚えとくよ」


ゼニルカの森、村長、ゴラデ、エルクか…


…何かないわけがないな。


「駄目、今して___。」


「それは当然さ。」


指2本を秘所に割り入れたままの状態で力を込め、下半身を引き寄せると身を震わせた彼女に今度は四つん這いのポーズを取らせて乱暴気味に尻を掴む。


指を引き抜くと同時にヘレラはまた絶頂したのか声を上げて背中を弓なりに反らせた。


テキストはくたりと下がった彼女の尻を叩いて甘い声を上げさせ尻を起こすとすぐに覆いかぶさって、自らのそれを突き入れる。


ヘレラとの濃密な夜はその後も2度、3度と北国の空が白むまで続いた。





…その後、互いに疲れ果てて汗の始末もそこそこに微睡む頃、ヘレラが半分寝ながら口にした



「…あなた、きっと森へ入るわ。」



という言葉に言い返すことはせずテキストは眠りについた。



「…そういう顔をしてるもの」



❋❋❋❋❋



『それ』が見ていたのは、村から見える炎の残滓だった。



『それ』は考える。



きょうも えるくは たべられて


たすける だれも なかった


きみは? あのひとは わた の あ なのだ



いこぅ つぐない さしだせ


におい。 ぃ のかい?



こわい ーちか




な してる


はやく うて


わたしを はやく



…………るぅ~~~~~~~…


『それ』が旋律のような一鳴きをすると、コブフシの木から氷柱が落ちて割れる音が風に混じった。

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Tumble Weed 智bet @Festy

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