【ホラー】水路と老婆

花田縹(ハナダ)

第1話

 いつも通り、私は自転車で駅へと向かっていた。

 それは夏の暑い盛りで、まだ朝だと言うのに通勤路である田んぼに挟まれた農道は猛烈な日差しに焼かれ、空からも地面からも熱気を受けた私の背中にも、日除けのアームカバーの中にも、汗が噴き出ている。

 まだ駅にもついていないのに、体力も精神も削られている。

 だから、見間違いだと思った。

 暑さで頭がぼんやりしていたから、きっと脳が誤作動を起こしたのだと。

 田んぼ用の水路に人が沈んでいるなんて、まさか、そんなことは起きやしない。

 きっと、目の錯覚でそんな風に見えただけだ。

 でもーー波立つ水面が日差しを反射して水底など見えなかったはずなのに、沈んでいたのは多分、年を取った女性だった。そう思った。


(いや、気のせいだ)


 余計な思考をかき消すために強くペダルをこいで、私は急いで水路を離れた。

 だいたい、炎天下に一人ほっつき歩いて水路に落ちるなんて。そんな哀れな老人には関わりたくない。


(そんな老人にはならないようにしなきゃ)


 できることがあるはずだ。まだ若いうちに。

 いつか孤独に死んでいくかもしれない。生前明るくて活発だった祖母ですら、一人暮らしのアパートで亡くなったのだから。

 自分の老後のことを考えながら、水底の老女の記憶を無理やりかき消そうとしていた。

 



 駅近くの駐輪所に自転車を停め、上りホームで電車を待つ。

 今の職場に勤め始めてから幾度も繰り返した普段と変わらない行動なのに、私はどこかうわの空だった。

 忘れようとしても、脳裏で水底に女の老人が仰向けに沈んでいる。

 止まって確認すべきだっただろうか。 

 いや、どうせ気のせいだ。

 でもーー、気のせいではなかったら?


(だとしても、どうせ誰かが通報するだろう)


 そう思い直して、うつむき加減だった顔を上げた途端、私は凍りついた。背中に冷たい戦慄が走る。そこには私をじっと見つめる小柄で痩せた、高齢の女が立っていた。

 線路を挟んで向かいの下りホームはいつもなら高校の制服を着た学生で混んでいるけれど、今は夏休み期間らしく空いている。電車を待つ人も疎らな、そのホームで、女はこちらを見ている。気のせいなどではない。

 どこかから蝉の声が聞こえる。

 生温い風が通り過ぎていく。

 私は、女から目をそらすこともできなかった。

 ベージュのスラックスにやけに生地の薄い水色のシャツを着ている。お尻が隠れるくらい裾が長い。そこからポタポタと水滴がたれている。何故か女はびしょ濡れだった。

 ふと、女が手招きした。

 こちらへ来い、とでもいうように。

 恐怖で動けない私を見て、女は眉間にしわを寄せた。弱々しく痩せた老女は、「自分のために年下のお前が動くのは当然なのに」と言わんばかりの訝しげな顔をしている。

 込み上げる吐き気は恐怖からか、嫌悪からか。


(罪悪感かもしれない)


 私は女から目をそらした。

 

(こんなものを見るのは、気にしているからだ)


 私は駅を飛び出し、再び自転車を走らせた。

 こうなれば体調不良で遅刻をすればいい。

 老女のいた場所へと戻って、本当にそこに人が沈んでいたか、この目で見ればいい。いたのなら、ちゃんと通報すればいい。

 一人で水路に落ちた老女を蔑んだのも、どうせ罪悪感から逃れるため。

 

 


 水路にたどり着くと、自転車を停めてしゃがみこんだ。水はサラサラと流れてている。そこに老女はいなかった。


(やっぱり。気のせいだった)


 ホッとして再び自転車にまたがった、その時。

 突然、足を引っ張られた。

 見ると、水色のシャツを着た年老いた女が水路から這い出て、私の足首をつかんでいた。

 沈黙は一瞬のことだった。

 自転車が派手な音を立てて倒れ、私は水路の流れの中へと引きずり込まれていた。


 (息ができない!)


 苦しくて、もがきながら顔を上げた時。


「……なにこれ」


 声がした。誰かがが通りかかったのだ。

 水面の向こうで自転車に乗った誰かがこちらをチラリと見て、目が合う。


(助けて!)


 声にならない声を上げた時。そいつが水路から目を背け、自転車を漕ぎ出そうとしているのが見えた。

 無視して去っていこうとしている!


(そんなこと許さない!)


 私は老女を振り払い、立ち上がる。

 視界の低さに違和感を感じつつ、私は「誰か」の足首をつかんで、その人をみあげた。


「見殺しにしたな」


 呪うように発した私の声は低く嗄れていた。   

 自分のものと思えないほどに。


(そんなことどうでもいい。今はこいつを逃さない)

 

 見殺しにされた怒りでいっぱいだった私は、夢中で「誰か」を水の中へと引きずり込もうとした。でも、腕の力が弱くてうまくいかない。

 そして、ようやく気づいた。

 腕にアームカバーがない。

 代わりにやけに薄い水色のシャツの袖があり、そこから伸びる腕は痩せて骨張り、皮膚は薄く、老婆のような皺とシミがある。


「入れ替わったね」

 

 誰かの囁きが聞こえた。

 私が戸惑ったその一瞬を狙っていたのか、足首をつかんでいた「誰か」は私の頭を蹴り上げる。

 手が離され、水路に戻された私は「誰か」を見上げる。そこにいたのはアームカバーをした、私だった。


「見殺しにしたのは、お前が先だろ?」

 

 浅ましい笑みを浮かべた私は自転車に乗り、炎天下の中を去っていく。

 まだ若い体の後ろ姿が見えなくなる。

 蹴り上げられ、崩れ落ちた老婆になった私は水底に沈んでいくことしかできなかった。

 

 



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