【一晩限定バイト】夜間待機、三万円。でも絶対に上を見るな。

シラカバ

第1話

 金欠の大学生にとって、深夜バイトというのは希望であり絶望でもある。

 時給は高い。でも、体はきつい。授業があると尚更きつい。で、結局辞める。

 それを繰り返すうちに、僕のスマホの求人アプリは即日払い・短時間というカテゴリで埋め尽くされていった。


 そして──

 その日、僕はそれを見つけてしまった。


<< 一晩限定バイト >>

【内容】指定の部屋にて夜間待機。

【報酬】30,000円(現金当日支給)

【時間】21:00〜翌6:00

【条件】

・部屋から出ないこと

・上を見ないこと


 ……上を見ないこと?


 意味がわからなかった。

 でも、興味は引かれた。

 部屋で寝てるだけで三万円。しかもその場で現金。最高だ。

 「なんかヤバそう」とかいう直感は、夕食を二日抜いてる胃袋にはまったく勝てなかった。


 駅から少し外れた住宅街。

 約束された住所に着いたのは、20時50分。


 そこには、築年数を数える気すら失せるような古い木造家屋が一軒ぽつんと建っていた。

 全体的に傾いて見えるのは、気のせいだと信じたい。

 郵便受けはサビだらけ。塀にはヒビ。植木鉢は逆さま。誰かのいたずらか。


 インターホンもない。というか、玄関の扉がすでに半開きだった。

 あれ、入っていいのか?


 ためらっていると、中からぬっと人影が現れた。


「……バイトの子か?」


 中年の男だった。背は高くない。痩せている。やけに無表情。


「は、はい。アプリで……」

「聞いてる。これ、鍵。21時になったら部屋に入れ。朝6時まで出るな。それまでここには誰も来ない」


 ぽん、と鍵を渡された。すこし冷たい金属の感触。


「部屋は2階の奥。廊下までは電気ついてる。中に灯りはない。ランタン使え」


 男は無造作に小さなLEDランタンを差し出した。


「注意すること、ありますか……?」

「──上を見るなよ」


 それだけ言うと、男は黙って立ち去った。


 なんなんだこの空気。

 怪しい、なんてもんじゃない。


 でも僕は、お金が欲しかった。


 玄関をくぐる。

 踏み込んだ足に、床の板がぎし、と鳴った。


 廊下は細く、埃のにおいがした。

 電気はついているけど、心なしか揺れて見える。

 LEDのはずなのに。


 階段をのぼるたび、木の軋みが身体に伝わる。

 なにか、空気が重たい。湿っている。


 目的の部屋は、廊下の一番奥。

 昭和の映画に出てきそうな、古い引き戸の和室。


 中に入ると、そこだけ、異様に静かだった。


 壁は茶色く変色し、畳もすり切れている。

 家具はなにもない。ただ、ぽつんと置かれたクッションの上に「ここに座っていてください」と書かれたメモ。


 あとは……天井の方を見なければ、問題はない。


 見上げないように、そっとランタンを床に置く。

 それでも、視界の端になにかが映ってしまいそうで怖かった。


 ──『21:00』。

 ランタンの光が、和室の畳をぼんやり照らしている。

 懐かしいような、埃っぽいような、あたたかくも気味の悪い空間だった。


 古びた壁紙、すり切れた畳。

 なにもないはずの空間なのに、妙に目を合わせられない気配だけが漂っていた。


 最初の30分は、まあ平気だった。

 スマホは通じないけど、録画しておいた動画を見て時間を潰す。

 座布団もまあまあ柔らかいし、風も入ってこない。虫もいない。快適っちゃ快適だ。


 ──ただ、やっぱり、気になる。天井が。


 別に、天井が光ってるわけでも、音がするわけでもない。

 でも、見ないようにしようと思えば思うほど、目がそっちへ行きたがる。


 お化け屋敷で「振り返るなよ」って言われたときの感覚に似ている。

 じっとしていればしているほど、背筋がむずがゆくなるような……そんな感じだ。



 ──コツ、コツ。



 最初に音がしたのは、たぶん『22:00』を過ぎたころ。

 上だ。確実に天井の上を、誰かが歩いてる。


 ……いや、気のせいだ。木造だし、家が軋んだだけ。

 そう自分に言い聞かせるけど、そのあとも間を空けて──



 ──コツ、コツ。



 今度ははっきりと、音がした。


 しかも、移動している。

 部屋の端から、ゆっくりと。足音のように。真上へと。


 視線を必死に床へ向ける。

 見上げてはダメだ。見上げたら、なにかがいるかもしれない。


 そして23時ごろ、異変はもうひとつ。


 時間が、止まった。

 スマホの画面に表示された『23:01』の数字が、ピクリとも動かない。


 まさか。バグか?


 スマホを再起動しようと電源ボタンを押すが、うんともすんともいわない。

 充電ケーブルを繋いでみても、反応なし。

 ランタンの灯りだけが、薄暗く揺れている。


 時計が止まるのは、ちょっとしたオカルト作品でよくある描写だ。

 でも、実際に目の前でそれが起きると、笑えない。むしろ寒気がする。



 ──「みてるのか」



 声、だった。


 天井の上から、男とも女ともつかない低い声。

 でも確かに、部屋の中に響いた。


「……誰?」


 思わずつぶやいた声は、自分のものじゃないみたいだった。

 喉が震えている。全身の毛穴が、いっせいに開く感覚。



 ──「みてるんだろう?」

 ──「なんで、みないの」



 誘うような、ねばりつくような声。


 ランタンの光が、ほんの少しだけ上を照らしているのに気づいた。

 だめだ、それすら怖い。すぐに布で覆った。


 天井が、呼吸しているような音を立てている。


 静かに、かすかに、膨らんで、しぼんで──

 まるでそこに、誰かがへばりついているみたいに。


 座布団の上から立ち上がることもできず、僕はただ膝を抱えて、視線を下に落とし続けた。


 時間が進まない。

 音は止まない。

 声は、すぐ上から。



 ──「ねえ、こっち、みてよ」



 それは、どこか悲しげな響きだった。

 けれど僕は、どうしても、見上げることができなかった。


 静寂は、狂気を連れてくる。

 いつからだろう。

 この部屋に響く音が外からのものではなく、内に向かってきているように思えはじめたのは。



 ──コツ、コツ、コツ。



 足音が天井の上を回っている。

 それはもう、明らかに人の歩くリズムだった。

 一歩ずつ、確かめるように、僕の真上をなぞるように。


 そして気づく。


 さっきからずっと、天井の「同じ一点」から声がしている。



 ──「ねぇ、そこにいるんでしょ」

 ──「わかってるんだよ」

 ──「なんで見てくれないの?」



 男女の声が混ざったような、不明瞭な囁き。

 誰かが耳元で話しているように感じるのに、声は天井の中心から発されている。

 距離感がめちゃくちゃだ。空間が歪んでいるのかもしれない。


 もう、時間はわからない。

 スマホの表示は『23:01』のまま。秒数すら動かない。

 電源は入る。でも画面は変わらない。通知も来ない。


 おかしいのはスマホだけじゃなかった。

 僕の身体も、だ。


 ……寒くない。


 冷え込むはずの夜中の木造家屋で、まったく寒さを感じない。

 汗も出ない。喉も乾かない。

 まるで、生理的な時間が止まっている。


 ふと──気づいた。


 この部屋、最初に入ったときよりも暗くなっている。


 いや、ランタンの光量は変わっていない。

 照らしている範囲も同じだ。

 なのに、部屋の上の方が、どんどん黒く、深く沈んでいっている。


 天井が……遠くなっている?

 そう思った瞬間、全身が総毛立った。


 ──それ、最初からあったっけ?


 思い返してみる。

 部屋に入ったとき、僕は天井を見ていない。

 上を見てはいけないというルールがあったから。

 だから、見てないのに「ある」と思い込んでた。


 でも、誰が言った?

 この部屋に「天井」があるって、最初に。


 その根拠、どこにあった?


 今はもう、そこにある黒い空間が、どれだけ深いのかも、本当に天井なのかすらも、わからない。



 ──「ねぇ、見てよ」

 ──「ここにいるのに」

 ──「ずっと見てるのに」

 ──「君が見てくれないから、動けないんだよ」



 言葉が、だんだん形を持ち始めていた。


 声ではない。

 脳に直接、語りかけてくるような、音を伴わない意思の塊。


 そして、僕の肩に、小さな何かが落ちてきた。


 見たくない。絶対に見たくない。

 恐る恐る視線を向けると、そこには指があった。


 小さく、白く、冷たい、人の指が、すうっと肩をなぞるように触れた。


 そして、天井の暗がりから、確かに──


 笑い声が聞こえた。


 限界だった。

 怖い。怖い。怖い。


 逃げ出したい。

 でも、立ち上がるには、必ず上を見てしまう。


 ドアに背を向けて、手探りで這うように出口を探そうとした、そのとき。



 ──「朝になれば、見なくてすむよ」



 柔らかく、優しい声が、耳元でそうささやいた。


 ……それは、救いのように聞こえたけど。

 ほんとうに、そうだろうか?


 ──カチッ。


 小さな機械音で、ランタンの灯が自動で消えた。

 真っ暗になった。


 同時に、耳を覆うような沈黙が部屋を満たす。


 その瞬間、空気が変わった。

 湿気、熱、音。さっきまであった全てが、ふっとどこかへ消えたように。


 朝だ。

 朝が来た。


 静かに目を開ける。……いつの間に、眠ってた?

 時計は、スマホも腕時計も『6:00』を示していた。止まっていたはずなのに。


 不思議と、体に疲れはなかった。寒くも、痛くもない。

 まるで時間が、本当に飛んだような感覚。


 天井は……見てない。

 見なかった。最後まで、絶対に見なかった。


 そのことが、救いだったのか、裏目だったのかはわからない。


 廊下に出ると、あの中年男が無言で立っていた。


「……ご苦労さん」


 言葉はそれだけ。

 彼は無表情で封筒を差し出してきた。


 中には、ぴったり三万円。


「……あの、見たらどうなってたんですか?」


 恐る恐る聞いてみた。


 男は答えなかった。けれど──


「……君、強いな。二人目だよ、最後まで見なかったの」


 その言葉に、ゾクリとした。

 じゃあ、見たやつが……いた?


「他の人は……?」

「朝になっても、戻らなかったさ」


 男は、それだけ言って踵を返す。


 ……帰ろう。

 金は受け取った。無事だった。

 もう関わるべきじゃない。


 家に戻ってシャワーを浴びて、ようやく落ち着いた気がした。

 不思議と眠気もない。

 昨夜の出来事が、現実だったのかも曖昧になってきた。


 夕方、ふと気まぐれでバイトアプリを開いた。


 あの案件は、もう掲載されていなかった。

 アカウントごと消えていた。


 ──終わったんだ。


 そう思って、スマホを伏せた、その瞬間だった。



 ──カチリ。



 なにかが、家の中で鳴った。

 天井の方から。


 音じゃない。気配だ。

 視線のような、圧力のような、誰かがそこにいるという実感。


 ……やめろ。

 もう終わった。見てない。終わったんだ。


 けれどそのとき、僕のスマホが小さく振動した。


 ──非通知着信。


 無視しようとしたが、画面に表示された名前に、凍りついた。



 「上」



 ──ブツッ。

 電話が切れた瞬間、耳元で囁く声がした。



 「ありがとう、でも──」


 「──次は、見てね?」



 そして僕は──今も、天井を見られずにいる。

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【一晩限定バイト】夜間待機、三万円。でも絶対に上を見るな。 シラカバ @shira-kaba

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