第3章

 自分が、自分の人生の脇役であるようだった。軸は、私の右斜め前にある。毎日の掃除のたびに、その角度は微妙に変わる。小学校では先生が教室の床に赤いビニールテープで印をつけてくれていた。めくれ上がったり黒くなったりしても、そこにはいつも痕跡があった。それを頼りに、机を並べるのだった。


 窓の外では、雨が降っていた。梅雨かどうかももうどうでもよくて、濡れた地面が光を反射していることだけが、現実のように見えた。湿気で髪が広がることもない。制服の袖が肌に貼りつく感覚もない。ただ、その場にいるということだけが、わずかに形を残していた。


 あの日も、たしか雨だった。朝、駅から学校までの道を、いつものように歩いている途中だった。


 「そうそう、わかる?〇〇」


 信号待ちの間、誰かが小さく名前を口にした。たしかに聞き覚えがある名前だった。でも、もう私とは関係ないはずの名前でもあった。雨の音が邪魔をして、よく聞こえなかった。それなのに、意味だけが強く残った。誰かが言った。


 「あの子、昨日、死んだんだって。」


 そのときの自分の反応を思い出そうとするけど、うまくできない。驚いたのか、悲しかったのか、なにも感じなかったのか。どれも正しいようで、どれも違う気がした。ただ、その後に誰もその話をしなくなったことだけは、鮮明に記憶に残っている。


 放課後、昇降口に立って、雨を見ていた。傘を持っていなかったわけじゃない。でも、さす理由もなかった。外に出る必要がなかったから。ただ、誰かが私の名前を呼んでくれる気がして、少しのあいだだけ立っていた。でもその声は来なかったし、靴の音も、笑い声も、全部どこか遠くのものに感じられた。


 水たまりを避けながら帰る道。道端の花がいつもより鮮やかに見える。コンビニの角を曲がると、制服を着た誰かが通りすぎた。私と同じ道を歩いているはずなのに、私の存在には気づかない。声をかける理由もないし、かけられることもない。それが当たり前になって久しい。私がここにいるということを誰かに証明する方法を、もう思いつけない。


 家に帰ると、母さんはいつもの服で座っていた。この時間に家に居た。母さんの化粧が崩れているのを初めて見た。テーブルには食パンが一枚に目玉焼きが一つ。それが自然なことである。母さんは何も言わなかったし、私も言わなかった。目玉焼きに塩をかけて、パンをゆっくりと口に運ぶふりをしてみた。味は、もう思い出せない。でも、今までにないくらいしょっぱかった。


 部屋に戻って、制服を脱ぐ。どこにも湿っている感覚はなかった。タオルも要らない。鏡の中の自分はぼんやりとして、ピントが合わない。でも、もう気にしなくなった。こうやって、少しずつ色んなものから離れていくんだと思う。忘れられていくんじゃない。自分から、少しずつ手を離していくんだ。


 明日もきっと雨。でも、もう傘は持っていかない。


(了)

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Still. 多胡しい乃 @takosumi

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