珈琲
車清
珈琲
珈琲の入ったグラスが音を鳴らした。
夏の始まりを感じさせるそれはカフェテリアの雑踏へと溶け、やがて騒音の一部となる。いつもの店、いつもの席には飲みかけのアイス珈琲が2つ。
しかし、私の向かいにいつもの人は座っていなかった。いや、座っていた。さっきまでは。遡ること数分前。気まずい沈黙、届く珈琲、用意されていた別れの言葉。
彼女の口から取り出された凶器は私の所在不明の心という概念を抉っていった。
君は最後にどんな顔をしていただろうか。私達の未来というものの死に涙の一つでも零してくれていたらいいな、などと思う。カラン、コロンと愉快な音をさせながら店をあとにする彼女の姿を、私は心の流血を感じながら、ただ見送ることしかできなかった。
一体あれからどれくらいの時間がたったのだろう。腕時計は持っていない。かといって携帯で時間を確認する気も起きなかった。きっと、一番最初にいつかの君と目を合わせてしまうだろうから。ふと窓に目をやってみる。家を出たときの曇り空はいつしか雨を零していた。彼女は濡れずにいるだろうか、などとつい無駄なことを考えてしまう。窓に打ち付ける雫は私の情けない姿を何倍も醜く写す。やはりこの季節の不安定な天気はどうも好きになれない。センチメンタルになってしまうから。底の見えない深い海にどんどんと沈んでいく。今ならもっと彼女とうまくやれるはずだ。でも、彼女用に調律された私は、果たして彼女が愛した私なのだろうか。とりとめのない思考が私を取り巻いていた。
しかし、彼女のことを回想しているうちに私も彼女に言いたいことがたくさんあったのを思い出す。不平や不満、愛ゆえの憎しみ。それらを言わせずに勝ち逃げは卑怯である。悲しみが徐々に苛立ちへと変わっていくのを感じる。私は眼の前にあった結露したグラスをつかむ。そして氷の溶けた珈琲を一気に腹へと流し込んだ。勢い余って頬を伝い、シャツを自分色に染めた漆黒の液体。それは食道を押し広げながら進み、体を冷やし理性を取り戻させた。ぼやけた視界が段々と明瞭になっていく。私は立ち上がる。そして歩き始める。目的地のない自由な旅。ドアに手をかけ、外に出た瞬間雨が上がっていることに気づいた。
大きなシミを胸元につけた男は確かな足取りで夏の日差しに溶けていく。彼らが座っていたテーブルには空っぽのグラスと飲みかけのコーヒだけが残されていた。
珈琲 車清 @fan-the-man
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます