SCENE#68 江戸崎俊介が挑む、東洲斎写楽の真実

魚住 陸

江戸崎俊介が挑む、東洲斎写楽の真実

第一章:忽然と現れた天才





「まったく、何とも厄介な男が現れたものだ…」





江戸崎俊介は、骨董屋から仕入れたばかりの写楽の復刻版画、特に「三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛」を睨みながら呟いた。埃が積もった書棚には古文書や浮世絵の版木が無造作に置かれ、使い込まれたルーペと片眼鏡が転がっている。





古地図の切れ端は散らばり、埃をかぶった能面が隅にひっそりと。彼の事務所は、まるで江戸時代から時が止まったかのようだ。この場所で、彼は今日も歴史の闇に埋もれた真実を掘り起こすのだ。






江戸の浮世絵界に、彗星のごとく現れた男がいた。その名は東洲斎写楽。寛政6年(1794年)5月から翌年1月までのわずか10ヶ月間、歌舞伎役者の大首絵を中心に約140点もの作品を残し、忽然と姿を消した謎の絵師である。彼の描く役者絵は、それまでの浮世絵師には見られない、役者の内面までをも抉り出すような迫力と、デフォルメされた特徴的な筆致で、見る者を惹きつけた。






「この『奴江戸兵衛』の不敵な表情、まるで世の矛盾を嘲笑っているかのようだ。並の絵師に、これほど役者の本質を捉える洞察力があるものか、坂本君?」





隣に座る助手の坂本が、熱心に作品に見入っている。





「本当にそうですね…先生。目力もすごいです。まるで語りかけてくるようですよ!」





当時、浮世絵界を席巻していたのは喜多川歌麿や鳥居清長といった美人画の大家たちだった。そんな中で、写楽は歌舞伎役者の醜い部分や滑稽さまでも露わにする、ある種挑戦的な表現を臆することなく描いた。しかし、その革新性は必ずしも当時の大衆に受け入れられたわけではなかったらしい。「絵本増補浮世絵類考」には「写楽は、その奇抜な画風が受け入れられず、人気が出なかったために筆を折った…」と記されている。






「人気が出なかった?本当にそうかな。これほどの腕を持ちながら、たったそれだけの理由で筆を折るとは、どうも腑に落ちないんだがね。当時の評価は芳しくなかったかもしれないが、現代では世界中で彼の作品が評価されているじゃないか。この時間差も、謎を深める要因だよ…」






江戸崎は、写楽の作品の前に立つと、まるで絵の中から何か声が聞こえてくるような気がした。彼の胸に、この謎を解き明かしたいという抑えきれない衝動が湧き上がる。





「私たちは、この謎多き絵師、写楽の消息を追うことにしよう。彼の突然の登場と、そして突然の失踪。その裏には、一体何があったのだろうか?さて、坂本君、この謎に、君ならどんな答えを見つける?」






第二章:残された手がかり




「まずは、彼の正体を突き止めるのが先決だ。手がかりは、残された作品と、わずかな文献のみだ!」






江戸崎は、写楽に関する資料を片っ端から読み漁っていた。数日かけて古書店を巡り、埃まみれの奥座敷からようやく見つけ出した古文書を広げる。その横で、坂本は最新の研究論文に目を通している。






写楽の正体については、これまで数多くの推測がなされてきた。最も有力視されているのが、阿波藩主蜂須賀家の能役者であった斎藤十郎兵衛説である。この説は、明治時代にドイツ人美術史家ユリウス・クルトが提唱し、その後も多くの研究者によって支持されてきた。





「斎藤十郎兵衛か……蔦屋重三郎の近所に住んでいたというのも興味深い。能役者であれば、役者の心理を深く理解する素養は十分にあるだろうしな。能の舞台で培われた、人間観察眼が活かされたとすれば、あの写実性は説明がつく!」






斎藤十郎兵衛が写楽であるとされる根拠はいくつかある。一つは、写楽の作品の版元である蔦屋重三郎と、斎藤十郎兵衛の住まいが近かったこと。また、斎藤十郎兵衛が能役者であったことから、役者の内面を深く洞察する写楽の描写力と結びつけられる。能役者は、役の感情を表現するために、その内面を深く探求するからだ。さらに、斎藤十郎兵衛が隠居した時期と写楽が姿を消した時期が重なることも、この説を裏付ける要素とされている。






「しかし、決定的な証拠がないのがもどかしい…『東洲斎』という号も、どこから来たものか、まるで手掛かりがない。何か、意図的に正体を隠すための偽名だったのかもしれない…」





しかし、この斎藤十郎兵衛説も、決定的な証拠があるわけではない。写楽の作品に署名されている「東洲斎」という号も、一体どこから来たのかは不明のままだ。当時、絵師たちは自分の作品に雅号や画号を記すのが一般的だったが、「東洲斎」という号は、他のどの絵師の号とも一致しない。






「他にも、歌舞伎役者の三代目中村歌右衛門説、浮世絵師の葛飾北斎説、喜多川歌麿が別名で描いたという説まである。どれも一理あるようにも思えるが、決め手に欠けるな。坂本君、君はどの説に魅力を感じる?」





「私はやはり斎藤十郎兵衛説が有力だと思います。役者絵から漂う独特の静けさは、能舞台に通じるものがある気がします!」と坂本が答える。






「なるほど、それは面白い視点だ。私たちは、これらの残されたわずかな手がかりを頼りに、写楽の足跡を辿ることにしよう。もしかしたら、作品の中に、彼の真の姿を暗示する何かが隠されているのかもしれない…」





江戸崎は、写楽の描いた役者の瞳に、何か語りかけられているかのような錯覚を覚えた。彼の内なる探究心が、さらなる深淵へと誘うのだった。






第三章:空白の十年と北斎




「写楽が消えた後、浮世絵界は新しい潮流を迎える…特に、あの男の躍進は見事としか言いようがない…」






江戸崎の頭には、一人の絵師の顔が浮かんでいた。葛飾北斎である。彼の机の上には、写楽の「市川鰕蔵の竹村定之進」と、北斎の「諸国滝廻り」シリーズの人物画が並べられていた。






写楽が姿を消した後、浮世絵界は新たな展開を見せていた。特に、葛飾北斎は、その圧倒的な画力と探求心で、風景画、花鳥画、そして人物画と、あらゆるジャンルで傑作を生み出していた。彼の作品の中には、写楽の描写とどこか共通するデフォルメの妙技が見られるものもある。






「北斎の人物描写には、写楽に通じる大胆さがある。特に、この『竹村定之進』の歪んだ顔と、北斎の描く『木曽路ノ奥阿弥陀ヶ滝』の旅人の姿……表情の捉え方や、見る者を惹きつける独特のデフォルメは、どこかで影響を受けたのだろうか?」






例えば、北斎の代表作「冨嶽三十六景」の中には、人物が大胆に省略され、時にはユーモラスに描かれているものがある。これは、写楽が役者の個性を際立たせるために、敢えて顔の特徴を誇張して描いた手法と通じるものがあるのではないだろうか。






「だが、写楽が活動していた寛政6年から翌年にかけての約10年間、北斎の活動はあまりはっきりしない。この空白の十年……ここに何か秘密が隠されているのかもしれない。もし、写楽が北斎であったとしたら、なぜ彼は正体を隠してまで役者絵を描いたのか?そして、なぜ突然、その活動を終えたのか?」






「先生、当時の出版記録を調べましたが、北斎はこの時期、改名や転居を繰り返しています。何かを隠すためだったのでしょうか?まるで、別人格を演じていたかのように…」と坂本が興奮気味に報告する。





「ほう、それは面白い!もし、北斎が写楽だとしたら、彼はなぜ別の名義で、しかも短期間で役者絵を描いたのだろう?単なる気まぐれとは思えないが……もしかしたら、役者絵の試みは、彼の画家としての実験段階だったのかもしれないぞ!」






江戸崎は、この空白期間に北斎が何をしていたのか、写楽の作品と北斎の初期の作品を並べ、細部の比較を始めた。二人の絵師の間に、筆致や構図における共通点が、隠されているのではないかと考えていたのだ。写楽の筆跡鑑定を専門家にも依頼したが、決定的な結果はまだ出ていない。この空白の10年が、全ての鍵を握っている気がしてならなかった。







第四章:時代の闇と写楽の意図





「寛政の改革か……あの厳しかった時代が、写楽の行動に影響を与えた可能性は十分にある…」






江戸崎は、当時の社会情勢を示す古文書を読み解いていた。彼の机の上には、当時の検閲に関する布告文の写しが広げられている。一枚一枚、指でなぞるように読み進める。






写楽が活動していた寛政年間は、幕府による厳しい出版統制が行われていた時代でもあった。特に、風俗の乱れを取り締まる名目で、贅沢を禁じ、役者や遊女を描いた浮世絵にも制限が加えられるようになった。美人画や役者絵は、出版統書生本の格好の標的となり、時には絵師や版元が処罰されることもあった。






「正体を隠して活動した理由が、ここにあるのかもしれない…幕府の目を欺くため、あるいは、危険な意図を隠すためか……当時の絵師や版元は、常に監視の目に怯えていたはずだ!」






このような時代背景の中で、写楽が「東洲斎」という謎めいた名で活動したことには、何か特別な意図があったのかもしれない。もしかしたら、彼は幕府の監視の目を欺くために、正体を隠して活動していたのではないだろうか?





「彼の描く役者絵は、ただの似顔絵ではない。役者の人間性、その奥底にあるものを描き出している。これは、当時の社会に対する、ある種の問題提起だったのかもしれない。歌舞伎役者という、庶民の娯楽の中心にいた彼らを通して、社会の矛盾や不条理を描き出そうとしたとしたら、それは幕府にとって非常に不都合な存在だっただろう…」






彼の描く役者絵は、単なる似顔絵に留まらず、役者の持つ人間性そのものを深く掘り下げていた。当時の歌舞伎役者は、庶民にとって憧れの存在であり、彼らの内面を描くことは、ある種の批判精神を含んでいた可能性も考えられる。社会の矛盾や不条理を、役者の姿を通して表現しようとしていたのかもしれない。






「もし、彼が体制を批判する意図を持っていたとすれば、その正体が露見することは、彼にとって致命的だったはずだ。だからこそ、突然姿を消した……病に倒れたという説も否定できないが、この時代の絵師が突然姿を消す背景には、多くの場合、何らかの政治的な圧力が関係している。あるいは、特定の役者との関係が、彼を危険に晒した可能性も考えられる…」






江戸崎は、写楽の作品一つ一つに込められた、見えないメッセージを読み取ろうと、静かに目を閉じた。彼の心には、写楽の孤独な闘いが、鮮やかに浮かび上がっていた。






第五章:永遠の謎、そしてその後の写楽





「結局のところ、写楽の正体は、今も私たちを煙に巻いているな…」





江戸崎は、淹れたてのコーヒーを一口すすりながら、壁に貼られた写楽の複製画を見上げた。事務所には、坂本が淹れたばかりのコーヒーの香りが漂っている。





結局のところ、東洲斎写楽の正体は、今もって永遠の謎に包まれたままだ。斎藤十郎兵衛説は最も有力ではあるものの、決定的な証拠は見つかっていない。葛飾北斎をはじめとする他の絵師たちも、それぞれの可能性を秘めているが、確証はない。





「しかし、一つの仮説を立ててみた。写楽は、時代が求める新たな表現を模索する、ある種の『実験』だったのではないだろうか?」





彼の描いた大首絵は、役者の個性を際立たせ、その内面を深く掘り下げた。これは、従来の浮世絵にはなかった、まさに革新的な試みだったと言える。しかし、当時の大衆がまだそれを十分に受け入れられなかったため、写楽は一旦その活動を休止した。






「その後、写楽は筆を折ったのではなく、別の名義で活動を再開したのかもしれない。あるいは、彼の斬新な表現は、葛飾北斎のような若き才能に間接的な影響を与え続けた。北斎の自由奔放な筆致や、対象の本質を捉える洞察力には、写楽の影が宿っていたと考えても不思議ではない。例えば、斎藤十郎兵衛が写楽であったとすれば、彼は能役者としての生活に戻りながらも、水面下で絵を描き続けた可能性もある。もしそうなら、彼の隠された作品がどこかに眠っているかもしれない…」





「あるいは、先生がおっしゃったように、写楽が単一の人物ではなく、実は複数の絵師による共同ペンネームだった可能性も捨てきれませんね。一種の匿名集団で、特定のテーマを追求していた、と」と坂本が付け加える。






「そうだ。それぞれの絵師が、実験的に写楽の画風を試み、時代や社会情勢の変化に応じて、その表現を変えていったのかもしれない。そう考える方が、あの短い期間での圧倒的な画業と、突然の沈黙に説明がつく。いずれにせよ、写楽の登場は、浮世絵の歴史に新たな風を吹き込んだことは間違いない!」






写楽は、物理的には姿を消したが、その芸術は永遠に生き続けている。彼の謎は、私たちに想像力を掻き立て、作品を通して彼の魂に触れる機会を与えてくれる。そして、彼が残した鮮烈な作品群は、200年以上の時を超え、今もなお世界中の人々を魅了し続けているのだ。現代の美術史家やコレクターが、写楽の作品に熱狂しているのも、その証拠に他ならない。






「さて、次はどの時代の、どんな謎を追ってみるか……。まだまだ埋もれた真実が隠されているはずだ。坂本君、次の手掛かりを探しに行こうか!」





江戸崎は静かに、しかし確かな手応えを感じながら、新たな謎へと想いを馳せた。彼の歴史探偵稼業は、どうやらまだまだ終わらないようである…


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