バニラ・エコー

よし ひろし

バニラ・エコー

「チェックメイトだ」


 僕は望海のぞみにそう言うと、キスをした。その唇は、ほのかにバニラの味がした。


 長い、本当に長いゲームだった。相手は神か、あるいは運命という名の冷酷なシステムか。盤上には僕と望海の人生が駒として置かれ、僕は何度負け続けたか分からない。だが、今この瞬間、僕の指した手が、紛れもない詰みの一手となったことを確信していた。


 唇を離すと、望海はきょとんとした顔で僕を見上げた。公園の噴水が夕日を反射して、彼女の瞳をキラキラと濡らしている。


「なに、急に。チェックメイトって……チェスなんてしてないじゃない」

「ううん、してたんだ。ずっと。僕だけのゲームをね」


 そう言って僕は微笑む。彼女には、僕の言葉の意味など分かるはずもない。それでいい。彼女が知る必要のないことなのだから。



 僕が初めて望海に出会ったのは、三年前の今日、この公園だった。古びたベンチで文庫本を読んでいた彼女の姿に、僕は一瞬で心を奪われた。


 幸せな日々は、しかし、ちょうど一年後に唐突な終わりを迎える。


 交差点の信号無視のトラック。悲鳴。赤く染まるアスファルト。僕の腕の中で冷たくなっていく彼女の感触は、今もこの皮膚に焼き付いている。


 絶望の淵で、僕はそれを見つけた。祖父が遺したガラクタに紛れていた、奇妙な懐中時計。それは時間を遡る機能を持つ、未来の遺物――タイムマシンだった。藁にもすがる思いでスイッチを入れた僕の意識は、過去へと跳躍した。


 最初のループは単純だった。事故のあった交差点に、彼女を近づけさえしなければいい。僕は強引に彼女を別の店に誘い、運命の時間をやり過ごした。上手くいった、と思った。だがその帰り道、彼女は駅の階段から足を滑らせて転落し、頭を打って死んだ。


 まるで世界そのものが、彼女の死を望んでいるかのようだった。


 それから僕の本当の戦いが始まった。


 ――通り魔に襲われ刺される

 ――火事に巻き込まれ焼死

 ――ハチに刺されアナフィラキシーショック


 ありとあらゆる死が望海を襲う。

 何十回、いや、何百回繰り返しただろう。僕は気づいた。大きな悲劇の根本的な原因は、もっと些細な、偶然の連鎖にあるのだと。蝶の羽ばたきが竜巻を起こすように、彼女の死へと至る道筋は、無数の小さな選択の枝分かれから始まっている。


 そこで、死とは関係なさそうなことを変えていく。


 出会い――彼女が座っていたベンチに僕が先に座り、本を読めなくなった彼女は仕方なく公園の池で泳ぐカモを眺めていた。そこに僕が話しかける。最初の駒の置き場所を僅かにズラした。

 更にはデートで訪れたカフェでの注文。彼女がいつも頼む紅茶ではなく、僕が誘導してコーヒーを注文させた。

 帰り道。いつもならバスを使う道を、僕は「少し歩かない?」と誘った。


 そうして、何百という小さな変数を一つずつ、慎重に、だが大胆に書き換えていった。運命の盤面を思うようにコントロールしていく。


 そして今日、運命の一日。本来ならトラックが突っ込んでくる交差点へ向かうはずの道を、彼女は自らの意思で避けた。その後も、死の可能性を自然と遠のけていく。

 僕の打った無数の布石が、パズルのピースのようにカチリ、カチリと嵌っていくのが分かった。


 全ての死の可能性が潰え、彼女が「生きている未来」へと繋がるただ一本の道筋が、僕の目の前に現れた。


 だから、僕は言ったのだ。「チェックメイトだ」と。このキスは、勝利を確定させ、この時間線を正規の歴史として固定するための、最後のトリガーだった。


「ねえ、なんだかあなた…体が少し、透けてない?」


 僕の腕に寄り添いながら、望海が不安そうな顔で言う。僕の左手は、夕日の中で向こう側がうっすらと見えるくらいにまで透明になっていた。甘いバニラの香りが、風もないのに僕の周囲に立ち上っている。


「気のせいだよ」


 僕は笑って、彼女の頭を優しく撫でた。


 ――代償の時間だ


 タイムパラドックスを防ぐため、世界は異物である僕を排除しようとしている。因果律を乱した僕という存在は、この新しい時間線には本来存在してはならないバグなのだ。バニラの香りは、時空の狭間を渡る際に浴びた特殊な素粒子が、体内に蓄積された証だ。そいつが、僕の存在を消す。


「そうかな……。それに、なんだかすごく甘い匂いがする。バニラアイス、食べたくなっちゃった」


 無邪気に笑う望海を見て、胸が締め付けられる。それでいい。それが僕の望んだ全てだ。


 足元から体が光の粒子となってゆっくりと崩れていく。彼女の驚いた顔が見えた気がしたが、もう何もできない。


 ありがとう、望海。君と出会えて、よかった……


 公園のベンチで少女が一人、不思議そうに首を傾げている。さっきまで誰かと話していたような気がしたのに、なぜか思い出せない。ただ、どこからか漂ってくる甘いバニラの香りだけが、彼女の記憶の片隅に、小さな、温かいエコーとなっていつまでも残っていた――



END

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