第12話 それでも深井戸は臆病になる
新道先輩は苦痛と恐怖に歪んだ表情で部室を出ていった。その足が一瞬止まったのはたぶん、安藤と鉢合わせたからだろう。
そんな安藤は何も言わず、ただ呆然としていて、愛季内を見れば、どこかもどかしそうな顔で俺を見ていた。組んだ腕が微かに震えている。とてもじゃないが、二人とも話せるような状態ではなかった。
「帰るな」
だから、そう言って俺もその場をあとにした。
彼女たちはこの事を誰かに言うだろうか。もし言うのなら、俺も新道先輩も何かしらの罰を課せられるかもしれない。
まぁ、それならそれでいいと思う。
言わないと公言したのは俺だけなのだし、それで罰を与えられるのなら仕方のないことだ。
偉い大名が言っていた。勇断なき人は事を成すことはできない、と。結局、何かを起こすには不利益を被る覚悟を持たなければならない。
だが、翌日になっても、翌々日になっても俺の話はどこからも出てきはしなかった。新道先輩の話も、クラスメイトを殴ったという話のみ。その原因は彼が偽物だという噂が根源なのだが、本物が現れない以上、それを確定させることはできず、疑惑は疑惑のままに終わってしまう。
どうやら、彼女たちは沈黙することを選んだらしい。
「――これで良かったのか?」
「良かったも何も、もう終わったことよ」
そのうちの一人、愛季内は俺の問いに淡々と答えた。
「お前も良かったのか?」
「あの時狙われたのは愛季内さんでしょ? 愛季内さんが言わないなら言う必要なくない?」
そして、もう一人の安藤もまた、興味なさげにそう答える。
その様子はあの日とはまるで違っていて、おそらく二人で話し合って決めたことなのだろうと察することができた。
なら、それにこれ以上俺が言うことはない。愛季内の言う通り、それが彼女たちの結論なのだろうから。
「というか、なんで安藤はまたここにいるんだ」
「知らない? 私、市場クラブに入部したの」
「知らなかったし、そんなクラブがあること自体はじめて知ったな」
「私、周りからの意見に流されやすいからさ、自分だけの価値を見つけなきゃと思って。今回の件もそうだったし」
「そうなのか」
「うん」
連絡先を交換していたこともそうだが、今回の事で愛季内と安藤は仲良くなったらしい。
「深井戸くんも早く入部届を出してくれる?」
「……俺?」
そして、愛季内がさも当たり前のようにそんな事を言ってきたものだから、うっかり「入部する」とでも言ってしまったのか考えてしまう。いや、言った覚えないけどな……。
「なんで俺なんだ」
「ここは自分の市場価値を上げようというのが目的の部だけれど、それには本人にやる気がなければ意味なんてないと思い知らされたのよ。もう、あなたに「評価されるべき人間だ」とは言わないわ。でも、あなたは評価されるよう頑張るべき人間だとは思う」
「だから、部に入れと?」
「それと、あなたは自分のことを「善人じゃない」と言っていたでしょう? だから、あなたが悪人にならないよう私が見張っててあげることにしたの」
「……それ見張るとは言わないぞ。なんで見張られる側が、見張る側にわざわざくっついてあげるんだよ」
「じゃあ、監視かしら。たとえ悪人であっても、人の腕を躊躇いもなく折ってしまうような人間は危険だから一般生徒からは隔離しておかないと」
「隔離って、もはや“人間失格”みたいだな」
「奇遇ね。私も同じ事を思っていたわ」
「俺が人間失格だと?」
「逆よ。あなたは自分に失格の烙印を押しすぎているのよ。だから、非道な行いに躊躇いがないのだわ。自分を正常だと思っている人はあんなことはしない」
「それが正義でもか?」
「そんなものを正義とは呼ばないわ。だから、私は太宰治が嫌い」
愛季内はやはり淡々とそう言い、その答えは彼女らしいとも思う。
著書、人間失格の主人公は最後、精神病院に隔離されてしまう。それは、世の中の生きづらさを謳った本だという解釈が多いが、もしそうであるならば、なぜ、太宰治はタイトルに断罪めいた言葉を選んだのか俺には不思議でならない。
あれはきっと正義を謳ったのだろうと勝手に思う。生きても生きても他人を不幸にしてしまう悪を断罪した正義の物語。
まぁ、その解釈は俺個人の憶測でしかないのだが、恥の多い人生しか送れないから隔離されたなんてのは、あまりにも希望がないではないか。なら、そんな自分を厳しく律し、その果てに選ばれた断罪こそが隔離だったのだと思うほうがずっと良い。
それは絶望などではなく、自分の周りで生きるであろう誰かを想った正義と呼べるのだから。
そして、太宰治の自殺は諦めなどではなく、確かな信念に基づいた正義の執行なのだと言えるのだから。
「まぁ、確かにここは隔離施設みたいだよな」
部室を見回し何気なく放った一言。それは二人の嫌そうな視線を集めてしまった。
「確かにそうかもだけどさ、よくそんなモチベ下がること平気で言えるよね」
「安藤さん……確かには余計よ」
「あ、ごめん。つい……」
「ついって……」
ホントどうしようもないな。
「そ、そいえばさ、愛季内さんはどうして先輩が嘘をついてるってわかったの?」
分かりやすく話題を変える安藤。それに愛季内はしばらくジト目をしていたものの、諦めたのか息を吐いた。
「私もあの現場にいたのよ。それで……別の場所にいた新道先輩も見ていただけ」
「あー……そういうこと?」
嘘だった。愛季内が見たのは新道先輩じゃなく、俺だったのだから。
どうやら、愛季内は俺の正体を墓場まで持っていってくれるつもりらしい。
「あとさぁ……フカイ君って喧嘩強いんだね? まさかボクシング部の先輩に勝っちゃうなんて思わなかった」
そして、安藤の矛先が急に俺へと向いた。
その不自然さに思わず顔が引きつる。
……なんでコイツは今それを訊いてきたんだ?
「まぁ、運が良かったのかもな」
そのせいで、下手くそな言い訳をしてしまった。
「ふぅん?」
安藤はジッと俺を見ながら意味ありげに鼻を鳴らす。
「あと、俺はフカイじゃなく深井戸な……」
我ながら、話の逸らしかたまで下手くそだと思う。
「なんか深井戸って言いにくいんだよね。エイタって呼んでい?」
「え? あ、ああ」
「やった」
だから、動揺したまま下の名前で呼ぶことを承諾してしまった。なんでそっちは覚えてんだよ……。
そして、何故か愛季内までが俺のことをジッと見ていた。いや、なに!? 俺なんか悪いことした!?
「……とにかく入部届を出してね」
「もうそれ、決定なんすね」
生きるとは恐ろしいものだとつくづく思う。どれだけ大人しく身を潜めていても、息をしているだけで人は勝手に人と関わってしまうのだから。
そして、関わってしまった者たちを無視などできず、誰もが簡単に影響されてしまう。
そして、不意に呆気なく予想もしなかった顛末を急に迎えてしまうのかもしれない。
だからこそ、人と関わることに臆病になってしまうのだろう。
俺は、それが悪いことだとは思わなかった。
ただ、良いことだとも思ってはいないのだ。
なぜならば、ハッピーエンドとは独りで迎えられるものではなかったから。
それでも俺は、怖いと思ってしまうのだ。
俺たちがハッピーエンドを迎える方法 那やかん @nyk0
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