アンドロイドは自殺できるか?

Θ記号士Θ

第1話

 「死んでやる! 死んでやる!! 死んでやるうう!!!」

 主人の飼っている猫のジョアンナの大便の後始末を言い付けられて256回目に アンドロイドであるAJ63072-P2はこう思った。彼にプログラムされてい た猫の大便の後始末のカウンターは1バイト、つまり256回でオーバーフローし たのだ。普通ならそれくらいの事はよく起こるのだが、猫の大便の後始末のカウン ターだけは、オーバーフローした際、本来使用されるはずのない1ビットが立って しまったのだ。そしてそのビットは誤判断され、さらに大きな論理ミスを呼び起こ し、それは雪なだれ的に、このアンドロイドの人格を崩壊させたのだった。

 アンドロイドはこれにより、まともな思考処理は不可能となっていた。

 「アンドロイドだって人の子だ! アンドロイドだって人権はある! アンドロ イドだって自殺の権利はあるのだ!」彼は完全に狂っていた。

 「自殺だ! 自殺だ、自殺の何が悪い?」そう叫びながら部屋から飛び出し、エ レベーターに乗り込んだ。

 主人はぽかんと口を開けて放心状態で事の成り行きを眺めていたが、高額の代金 を払ったアンドロイドが飛び出して行ってから我に返り、急に怒りが込み上げてき たのか憮然とした態度で電話の受話器を取り上げた。アンドロイドを買ったメーカー に抗議をするつもりである。

 アンドロイドはマンションの最上階のボタンを押した。79階である。数十秒後 に彼は79階のフロアに立っていた。最上階といってもここも住人の住むフロアで あり彼の目標とする屋上までは階段で上らなくてはならない。彼は階段のあるとこ ろまで一気に走り、さらに階段を3段飛ばしに駆け上がった。階段の突き当たりに 屋上に出るドアがある。ドアには鍵が掛かっているが体当たりして突き破った。

 屋上に出ると、思った以上に風が強く彼は少しよろけたが、体勢を立て直し何と か柵があるところまでたどり着いた。

 「よし、この柵を乗り越えれば、後は重力の任せるまま。高度235メートルか ら自由落下した場合、地面との衝突スピードは空気抵抗を考慮した場合・・・」

 計算できなかった。彼は自分が狂っていることをすっかり忘れてしまうくらい十 分に狂っていたのだ。

 「まあよい。とにかく私の体を粉々に破壊するには十分な高さであることには間 違いないだろう。」

 いざ彼が柵を乗り越えようとすると、なぜだか彼の体はまったく動かなくなって しまった。

 デッドロックである。

 安物のアンドロイドではよくある現象だ。

 初期のアンドロイドには「私は嘘しかいいません。と言ってみてください」と人 間が命令するだけで、(私は嘘つき、嘘しか付かないのだから、本当のことは言わ ない、よって嘘つきである私は自分の事を正直者であると言わなければならない、 しかし正直者であるなら、私が嘘つきであると言うのは嘘になる、嘘つきであるな ら嘘しか言わないのだから・・・)と無限に循環する思考から永遠に抜け出せなく なるのだ。

 そこから抜け出すにはリセットスイッチを押すしか方法がないと言ったお粗末な ものがあった。

 さらには「次の計算をしてください。5割る0は?」と言うだけでシステムダウ ンしてしまうものまで有った。このアンドロイドの数値演算プロセッサには時代の 遺物と言われている80486DX2というプロセッサが使用されていたという噂 がある。これだと0で割ると除算エラーでシステムダウンするのも無理はない。

 あの有名なロボット工学三原則を制御するプロセッサは独立して機能しているた めか、本人の意思に反して彼は自殺することができないでいる。

 助走をつけて、ロボット工学三原則を制御するプロセッサが作動する前に空中に 飛び出してしまえばうまくいくかもしれない、と彼は狂った頭で考えた。後ろに後 退りする。後ろへは動くことができる。10メートくるらい柵から離れて一気に走 り出す。柵の2メートル前でジャンプする。ジャンプは見事成功した。大昔流行し たスーパーマンが窓から飛び出す時の両手を揃えて前に突き出す姿勢をとって、彼 の体は放物線を描いた。このまま柵を乗り越えられる! そう確信したが気が付け ば彼の意に反して右手が勝手に柵を掴んでいる。彼は柵を持ったもったまま大車輪 を行うような形で一回転し柵の外側で体をしたたかに打ち付けた。右手は彼とは別 に勝手に意志を持ったかのように絶対に柵を離そうとはしなかった。事実、彼の中 では自殺したいと言う意思の部分と、かたくなにロボット工学三原則を守りとうそ うとするプロセッサが争っていたのである。

 右手がいうことをきくようになったのは、彼が飛び下り自殺を諦め柵の内側に戻っ たときであった。試しに彼はもう一度柵を乗り越えようとしたがやはり結果は同じ で、デッドロックに陥るだけだった。

 彼は諦めて階段を降り、エレベーターに乗って一階まで下った。表に出てぼんや りと表通りを歩いた。(私はどうしたら自殺することができるのだろう?)

 あれこれ考えているうちに彼は横断歩道に差しかかっていた。信号は赤だ。

(まあ、駄目だとは思うけど一応自動車に飛び込んでみようか?)そう考え、一歩 足を踏み出そうとするとやはり、体がデッドロックに陥ってしまう。悪戦苦闘して いる彼の視界に乳母車が転がってくるのが映った。おそらく母親が目を離したすき に歩道の傾斜のため勝手に走り始めたのであろう。左側からは大型ダンプカーが物 凄い勢いで近付いてくる。その時である。彼のデッドロックは解かれた。しかし自 由の身になったというわけではない。今度は勝手に体が動きだし、その乳母車目指 して全速力で突進していく。「あーっ! 危ない! トラックにぶつかる!」  今まで自殺しようとしていたことをすっかり忘れ、彼は自分の身の危険を感じた が体のほうがいうことをきかない。自分の意に反して彼の腕は乳母車の中の赤ん坊 を素早く抱き上げ安全な歩道の方に放り投げる。

 (ああっ!もう駄目だ!私は死・・・)彼が思考できたのはそこまでだった。全 速力で突進してくるトラックと体当たりして互角の勝負ができるアンドロイドは世 界中探したっていやしない。哀れにも彼の体は数千のパーツに砕け散った。半分に 割れた頭部が交差点から20メート先の路面に転がり落ちた。そこには彼のロボッ ト工学三原則を制御していたプロセッサが顔を覗かせている。その表面にはこうプ リントされていた。

 「Z-80」


 その後の彼がどうなったか? 命を救った赤ん坊の両親からは命の恩人として、 警察からも初のアンドロイド栄誉市民として表彰するため、メーカーは不良品を売 り付けたおわびに、新しい部品で以前の記憶をすべて移植され、猫の大便の後始末 のカウンターンも4バイトに拡張され、めでたく彼は蘇ったのである。

 メーカーの技術者はこういったものだ。

 「4バイトに拡張されたカウンターは実に40億回もの猫の大便の回数をカウン トできます」

 今日も彼AJ63072-P2はご主人さまの命令通り、しぶしぶ猫の大便の後 始末をし、これが40億回も続けないといけないのかと思うとこうぼやくしかなかっ た。

 「やっぱりアンドロイドは自殺できないのだ」

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アンドロイドは自殺できるか? Θ記号士Θ @kigoosi

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