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Θ記号士Θ

第1話

 アレンゴ・モ・レザンディリト・ソムは決して大きいとは言えない自室に閉じこもり、壁に開けている小さな穴から空を眺めるのが好きだった。どれだけ眺めていても毎日、変化のあるはずのない空を眺める事など他の人に言わせれば、まったく馬鹿げた行為だということにしかならない。実にそのとおりなのだ。一様に黄褐色のガスに覆われた空など(注一)いくら眺めていても、わずかばかりの変化さえあるはすがない。

 しかしそれが馬鹿げた事と重々知りながらも、アレンゴは空を眺める習慣をやめる事ができなかった。たしかに彼が空を眺め続け、そこに変化を認める事ができたのは、あの出来事を除いてはただの一度もなかったのではあるが。


 第二期全身脱皮(注二)を終える前のまだ若かった彼は、その時も空を見るため傾斜を付けた自室(注三)の小さな穴から空を眺めていた。礼拝から戻り、少なくとも午前中はいつもこうして茫漠とした時間を過ごすのが彼の日課だった。それが起こったのは、どれくらい眺めつづけただろうか、すでにアレンゴが覚醒と睡眠の狭間をただよっているような状態にまどろんでいる時だった。彼方に何か小さいものが浮かんでいる様子が見えたのだ。

 最初は目の錯覚か、夢の続きかとも思ったが、確かに何かが浮かんでいた。それも一つではなくいくつかが集まり、同じ方向に向かっていた。その滑らかな動きは明らかに何か生き物だった。どう形容すればいいのか、それは小さな頭と長い首が細長い胴体にまっすぐつながっており、胴体の両側に大きな魚のひれのようなものが付いていた。その生き物は、そのひれのようなものを上下させ、あたかも大気の中を泳ぐようにして移動して行くのだった。

 アレンゴは自分の六つの眼(注四)を順番によくこすったが、それは幻ではなかった。たしかにそれは穴の右下の方から左上の方へ移動していった。アレンゴは、それが近づいて来ると穴の縁に額をこすりつけるようにして完全に見えなくなるまでその生き物を見続けた。


 その翌朝(注五)、アレンゴは礼拝に行くいつもの仲間にそのことを得意気に話した。だが、彼の言う事を信じる者は一人もいなかった。

「空に浮かぶ生き物だって、そんなものいるわけがないじゃないか」

「アリタ(注六)が見たのは、そりゃエグワノン(注七)じゃないのか。エグワノンに捕まって脳味噌を食われたにちがいないぞ」

「やーい。アリタは脳無し(注八)だ!」

「アリタは脳無しだぞ。みんな近づくな」

「脳無しが移るからアリタには近寄っちゃだめだぞ」

 そして何日かはこの話によって、アレンゴを脳無しと呼ぶ者もいたが、元々が全く信憑性に欠け、信じるに値しない内容であった事もあり、仲間はすぐにそのことを忘れ、アレンゴに対しては以前と同じような付き合いにもどった。アレンゴもその日以来この事は誰にも話さないようにしていたし、今後もし同じ様なものを見たとしても絶対に話さないようにしようと独り心に誓ったのである。

 しかしそうした事件の前から、彼ら仲間うちの間で、アレンゴは一風変わったやつだということで一目置かれていたようなところがあったし、アレンゴ自身もそれを感じてはいたのである。

 ある朝、礼拝の時に配られて回し飲みする聖水の持ち方がおかしいと牧師から注意を受けたことがあった。普通は前節でつかんで飲むのだが、彼の場合は第二節でつかんでいたのだ。牧師からの注意を受けたアレンゴは「前節よりも第二節の方が持ちやすいからです。ただそれだけです」と言うのだが、牧師は「しかし聖水は前節でつかむことが正しいとされています」と含めるような言い方でアレンゴの反論を突き返した。それはアレンゴなりに持ちやすい方法であると言う確証を持って言った事であったし、さらには前節でつかむ必然性の説明を牧師はしてくれなかった。ただそれが昔から伝わる方法であり、皆が行っているやりかたであると言い張るのみだったのだ。

 すべての事についてそうだった。なぜ、どうしてとアレンゴが問い正し始めて最後まで正確に答えられる人は一人もいなかった。結局彼らが最後に行き着く答えは「それでも皆はこうしている」「これが昔からのやり方なんだからこうするのがいいんだ」というようなものばかりだったのだ。

 アレンゴにしてみれば変わっているのは自分以外のまわりの人全員ということになるが、同時にそうした人から見れば自分が変わった人に見られているということもわかっていた。それで、彼は自ずと他人と一緒に行動する事は避けていたような所があった。


 そんなアレンゴが、エミュと初めて話をしたのは、この事件があってから数日後のことだった。エミュという、夢見心地な雰囲気を持った女性がいるというのは前から知ってはいたが、話をするのは初めてだった。

「みんなから聞いたわよ。空を泳ぐ生き物を見たんですってね」

 第二期全身脱皮を終えたところであるらしいそのやわらかく、艶やかで、若干色の薄い身体でエミュに近寄って来られたので、アレンゴは少し身を縮めた(注九)。

「私も空を見るのは大好きよ。最初は一面黄褐色でしかないけど、じっと見つめているといろんなものが見えてくるわ。みんなはおかしいって言うけどね。でも、私みたいな人が他にもいたっていうのは思ってもみなかった事だわね」

「違うんだ。僕が見たっていうのは、そんな幻なんかじゃなくって・・・なんていうか、本当に進んで行ったんだよ」

「アリタが見たっていうのはどんなものだったの?」

「うまく口では言えないんだけど、生き物みたいだったよ。まるで水中を泳ぐようにふわりふわりと進んで行くんだ。それが一匹でなくて何匹かが集団になって同じ方向に進んで行ったんだ」

「いいわ、いらっしゃい、いいもの見せたげるから」

 そしてアレンゴはエミュの住居(注十)まで連れられて行った。エミュの、第二期全身脱皮を終えた為一回り大きくなった尾肢をゆらゆらと左右に振りながら先を歩く姿を見つめながらアレンゴは後を追った。


「これを見て」そう言ってエミュは、小さな棚から何枚かの用紙を取り出して、アレンゴに見せた。何枚か用紙をめくって見ながら、アレンゴは驚き、息を呑んだ。そこには色とりどり様々な絵が描かれていた。中でもアレンゴが驚いたのは、空に何かが群れている絵であった。

「この絵は!」

 アレンゴは驚きの声を上げた。それは先日、アレンゴが見たのとほぼ同じ形をした動物が描かれていたのだった。

「やっぱり、君も見えていたんだね!」アレンゴはエミュに言った。

「小さい頃はね。でも第一期全身脱皮後はぜんぜん見なくなったわ。これはその時見えていたものを思い出しながら描いたものなのよ」

 アレンゴは他の絵も次々と眺めていった。そこには今まで見たことのないような異様な世界が描かれていた。小さな水がたまっている絵や、緑色をした短い草が一面絨毯のように生え茂っている様子や、周囲が赤く染まって明るく輝く円いものが地平線近くで強烈な光を放っている様子や、銀色に輝く四角くて細長い建物が雲まで届くかと思われるような高さでそびえ立っている様子や、その他にもどう喩えていいのか解らないような、それでも風景らしいということだけはわかる絵が何枚も描かれていたのだ。

 それらの絵はどれも色彩豊かで、そして変化に富んでいた。こういう風景を何と表現すればいいのだろうか。確かにこれらの絵は心理的な何物かをあらわしているということはわかる。その気持ちをアレンゴは口にすることができなかった。がしかし、そもそも口にできないものだからこそ絵に描かれたのだとアレンゴは納得した。

「小さい頃からね、こういう世界があるんじゃないかって、本当に信じていたのよ。でも、こんなのはみんな夢だったんだって、最近思うようになったわ」

「僕も解るんだよ。どこかにきっとこんな世界があるに違いないって、いつも思っているんだ。夢なんかじゃないよ、きっとこんな、その、何と言っていいのか、つまり、今よりもっといい世界があるはずなんだよ。これは自信があるんだ」

「わたし、もし本当にこんな世界に行けたららどんなに素晴らしいかとは思うわよ。でもいったいその世界はどこにあるの?」

 そこでアレンゴは黙り込み、考えにふけってしまった。そう、どこにこの世界があるのか? 我々が住んでいるこの世界のどこに・・・我々は乾いた砂とたった一つの生命の源、大湖(注十一)を囲ったわずかばかりの地域に細々と生活しているに過ぎない。この砂漠をどこまで進んで行っても、そこにあるのは赤い砂と黄褐色の空のみであり、他にはない。我々が前に見た空を進む生き物のように空を渡って行くことができれば、きっとそこには素晴らしい世界が待ち受けているに違いないだろう。

「空の上かな」

長い間考え込んだ後でアレンゴはポツリと言った。


 それ以降アレンゴの生活は今までとは少し変化を帯びた。つまり朝の礼拝の後、エミュの住居に遊びに行くというのが日課となったのだ。エミュと逢って話が出来るのは、エミュが工場(注十二)に出かけるまでのほんの短い時間でしかなかったが、アレンゴにとってその短い時間が一日で一番の楽しみとなっていた。

 何回かエミュの住居に通ったアレンゴは、その日も「特別なお願いがある」というエミュの言葉に連れられ彼女の住居にやってきた。

「さっきお願いがあるって言ってたね?」アレンゴは問った。

「ええ、実はね、見て欲しい物があって・・・ちょっと付いてきてちょうだい」

そういって、住居の狭い通路を通ってアレンゴを案内したのは、彼が今まで入った事のない部屋だった。

 その部屋に通されて最初にアレンゴの目に入ったのは実にもう一人のエミュだった。アレンゴはあわてて本物のエミュと偽者のエミュを見比べた。エミュは一人その様子を見て、おかしいのか少し触覚を震わせていた。アレンゴは勇気をふるってもう一人のエミュに近づき、そして安心したように言った。

「ああ、なんだ、抜け殻じゃないか」

それにしても、女性の抜け殻などを見るのは初めてで、アレンゴは恥ずかしくていたたまれない気持ちだった。

「まだ、この抜け殻流していなかったんだね(注十三)」アレンゴはなるべく普通を装って何気なくたずねた。

「ええ、そのうちにとは思っているんだけど、でも何となく自分ってこんな形してたんだなって眺めていると愛着が出ちゃってね。それでお願いなんだけど、誰にも見つからないようにこの抜け殻今日アリタが流してきてくれないかな?」

 どういうわけでエミュがそんな事を頼んだのかアレンゴにはわからなかったが、エミュが頼んでいるのだから、いやだとは言えなかった。アレンゴは帰りにその抜け殻を背中に背負わせてもらってエミュの住居を後にした。

「つくづく君って変わってるね」「あなたもね」それがその日最後に交わした会話だった。


「大湖の奥深くに住まわれる神の御心を知るもののみ、神の側近くに住まわされることが許されるのです。与えられし幸運を感謝するのです。私達の行く末も、全てチュロー神の御心に添ったものになるでしょう。今世よりよく生きようと思うなかれ。なぜなら我等は水より生まれ水にかえって行く存在。今世は来世への橋掛け、より良き世界への道すがらでしかないということを、よく心に留めておくことです。与えられることを考えてはいけません。今世何物も与えられない物こそ、来世全ての物が与えられるであろう。今世全てを与えられんと欲する物は来世何も与えられないであろう。それを心に留めて日々のつつましやかな生活に満足して暮らすのです。それは水の姿そのものなのです。そう、神聖なる受精の儀式をもって、我々男性は最期を遂げるのです。受精の儀式がなぜ必要か、それはあなたがたと同じく転生の階段を上ってゆく者を導かなくてはならないからです。それを我々は最大の誇りとしましょう。それではみなさん、祈りの言葉を唱えましょう。

 エテュブルロリタレ、リタレブロドゥルワ、イミウレタラプトゥア、トゥプラレナミクワ・・・」

 

 その後も朝の礼拝の後のエミュとアレンゴの密会は続いた。もともと同じような秘密を持っていた彼らが、互いに心を開き合うようになるまでにはそう時間を要さなかった。

 ふと思い付いたようにエミュは言った。

「アレンゴ、私ね、アレンゴの子供を産みたいと考えているのよ。どうかしら」

そうあかわさまに言われてアレンゴは少々狼狽した。第一普通は女性の方からそんな事をいうものではないのだ。

「まあ、アレンゴ驚いてるのね。無理もないわよね。私もこんなこと人に言うの始めてだもの。でも、どうして男性からしかそういう事が言えないのかって前から考えていたの。それで答えは見つからなかったわ。友達に聞くとみんなおかしいって言うんだけど何でおかしいのか誰も言ってくれないのよ。そんなのっておかしいじゃない。だから言ってみたの。自分の正直な気持ちを。勿論わかっているわよ。男の人は一度交わるとすぐに死んじゃうっていうことは。でもね、だからってそれを言えるのが男性からだけだっているのはどうも納得がいかないのよ」

「たしかに君の言う通りかもしれない。僕はいいよ。君に僕の子供を産んでもらう事は大賛成だ。けれど、僕はまだ第二期全身脱皮を終えていないし、女性と交わるのは禁止されているよ」

「あら、そんな事気にしているの? あなたはいいでしょ? こう言うと何だけど、すぐにあの世に行くんだから。私はいいのよ。その後第二期全身脱皮を終えていない男と交わった女と言う目でこれから見られることになるけど。それくらいで私みたいな変な女は丁度いいのよ」

「でも、第二期全身脱皮の前に本当に出来るのかな? つまり、あれが・・・」

「あら、いやだ、そんな事を気にしていたの。それなら大丈夫よ。いままでそういう話は聞いているわ」

 そこでアレンゴは決意した。ここでエミュを相手に命をなくすならそれでいいと。


 そして、事におよんだのはその次の日、エミュの住居に行った時だった。エミュはいつになくうきうきとした感じだった。勿論エミュも初めての体験だった。エミュが初めての体験であったということは、アレンゴにとっても光栄な事であったのには違いなかった。

 いくらかのいつもの世間話をした後、アレンゴはおもむろに自分の平らな頭を、脇からエミュの足の下に差し入れ、頭を持ち上げた。エミュはそれがくすぐったいのか「キキキ・・・」という含んだような小さな笑い声を上げていた。

 そのときアレンゴが必死になって思い出そうとしていたのは、彼が擦り切れるくらい何度も読み返したサドゥロの「流れゆく人」(注十四)の一シーンだった。これから一生一度の営みが行われようとしている場面で、主人公の男が言う言葉を思い出そうとしていたのが、その時に限ってそれがうまく思い出せないでいた。それは普通の状態であればすぐに思い出せた筈なのだが、初めての体験に緊張したアレンゴはそれを思い出せないでおり、その状況がさらにアレンゴを緊張へと導いた。それというのも、アレンゴもエミュに対して気の利いた言葉をかけようとしたのが、その言葉がまったく思い浮かばないからだった。

 今のアレンゴには何も口にする事ができなかった。興奮というよりもそれは緊張のあまりであり、アレンゴの触角は震えていた。「そんなに緊張しなくていいのよ」と言うエミュの言葉は、彼の緊張をいっそう高めたのだった。

 ゆっくりとエミュの体が持ち上がり、そしてそのまま向こう側に押し遣った。外骨格がきしむような小さな音を発ててエミュの体は裏返しになった。エミュの体の腹部が、何枚にも重なりあい、妖艶にも赤黒く輝いている腹板が、六十四本の足の付け根が、今アレンゴの前であらわにさらけ出されていた。アレンゴは初めて見る女性の腹部(注十五)に言葉がなかった。アレンゴは目を見張ったまま視線を腹端の方に流した。エミュの腹端の生殖口は開き切っており、そこからすでに性交に備えるための粘り気のある黄色い体液を流しはじめていた。

「恥ずかしいわ。そんなに見ないで」日頃とらない姿勢の為、少々圧迫された声でエミュは呟くように言った。アレンゴはエミュの顔を見ようとしたが、ここからではその表情を窺うことはできなかった。

 そのエミュの腹の上にアレンゴはゆっくりと這い上がっていった。沢山のアレンゴの足とエミュの足が重なり合い、どちらのものか区別がつかなくなる。それらの足は大湖に漂う水草のようにあてどもなくゆらゆらと揺れていた。

「いいの?」エミュが聞いた。

「私はいいのよ、アレンゴの子供を欲しいと思っているわ。でもアレンゴはもうこれで最後。二度と女性と交わる事はできないのよ」エミュは腹部を上向けたまま、アレンゴの体の重みのため少々苦しそうにそう言った。

「もちろん、わかっているよ」近づいた頭と頭でアレンゴはエミュの触覚に自分の触覚を絡めていった(注十六)。

 しかしアレンゴには最期の一線を越えることができなかった。腹の後端から本来出るはずの生殖器が出て来ないのだ。アレンゴは焦った。しかたなくアレンゴは、行為をする時の動作だけは真似して行った。腹部を上下に揺らせばいいのだ。エミュの方はというとすっかりその気になって、触角をひくひくさせ始めていた。こうなっては余計に何も言えなくなってしまう。アレンゴは生殖器の出てくることを祈りつつ腹部の上下運動を繰り返した。

 だめだった。事が進展すればするほどアレンゴは焦り、どうしようもなくなってしまう。アレンゴはとうとう正直に事の次第を説明した。説明を終えるとエミュは涙を流していた。アレンゴは何も言えず、その後まったく会話のないまま彼はエミュの住居を去った。


 エミュとの行為をなし終えずに帰ったアレンゴは、自分の住処に帰った。アレンゴはひどく傷ついていた。どうして自分だけがこうもうまく物事が運べないのか、彼が部屋の中で独り、じっとこういった出口のない思案にくれている時、ふとエミュの抜け殻のことを思い出した。抜け殻を流すつもりで担いで行ったのはいいが、その後、エミュの腹部の感触が抜け殻と言えど、たまらなく刺激的で、とうとうそれをアレンゴは流せずに持ち帰り、奥の部屋にしまいこんだのだった。

 あれは奥の部屋に入り、それ以来礼拝堂の御本尊のように、眺めはすれど決して触ろうとはしなかったエミュの抜け殻にアレンゴは近付いて行った。それは、現在の彼にとって、最も純粋な罪悪感の具象として捕らえられていた。アレンゴはその抜け殻の背中の割れ目から頭を突っ込んだ。その中には紛れもなくエミュの甘い体臭が漂っていた。アレンゴは我慢しきれず、抜け殻の中に残ったエミュの体液を、首を突っ込んで片っ端から舐め尽くしていった。さらに奥の方へ頭を伸ばそうと、前に進んで行ったアレンゴは、その不安定な足場を滑らせ、ずるずると体の半分ばかりがエミュの抜け殻の中に入ってしまった。

 そこまで来てついに居たたまれなくなったアレンゴが考え付いたのは、その抜け殻の中から這い出すことよりもむしろ、その抜け殻の中に入りエミュと一体になることだった。一度脱ぎ捨てられた、それも異性の抜け殻の中に入るなど、まったく正気の沙汰ではなかった。それに、これは実際問題並大抵の努力ではなし得ない。しかしアレンゴにとってはこの努力がなぜだかエミュに対しての報いであるようにも思われたのだった。彼は抜け殻を壊さないよう慎重に少しずつ体を前に進めて行った。

 なんとか胴体が収まったのだが、面倒だったのは六十四本の足だった。体の自由が利かないので感覚で一本一本入れて行くしかないのだ。時には場所を誤ってベリベリとあらぬ所を突き破ってしまうこともあったし、あまり動かすものだから抜け殻の足が何本か千切れ落ちてしまったりもした。


 永遠とも思える永い時間を費やして、どうにかそれをなし得たとき、あちこちぼろぼろにはなっていながらも一応エミュの抜け殻と一体になる事ができたという実感がアレンゴの心をよぎった。そこはアレンゴにとっては安住の地であった。アレンゴはむしろ長い間自分が求めていたのはこの感覚ではなかったのだろうかという気がした。エミュの抜け殻の中はそういったとてつもない安らぎが存在していた。

 少し動こうとすると抜け殻が破れるのではないかとも思われたが、ゆっくりと注意しながらアレンゴは空の見える部屋まで這って行った。そしてどうした事か、本物のエミュとはうまくいかなかった物が、今になって、アレンゴの生殖器が反応し始めたのである。そしてそれは、エミュの抜け殻の腹端の生殖口に刺激され、アレンゴは初めての性的な興奮をおぼえた。アレンゴの理性は、そして本能は、これではいけない、本当の女性に対してでなければとアレンゴに訴えつづけた。

 自分の子孫を残さねばと。

 しかし別のアレンゴはこれでもいいような気もしていたのだった。どの男も自分の子を見ることなく結ばれた直後に死んでいくのだ。どうせ死ぬのであれば子供を女に産ませるか産ませないかは男の問題ではない。そうして、アレンゴはエミュの抜け殻の内壁で自分の生殖器が擦れるのをそのままにしておいた。それは今まで感じた事のない快感を伴っていた。そしてその快感に酔いしれたアレンゴは、そればかりか腹を上下左右にゆすって自ら快感を得ようとしていた。なに、最後まで行かなければどうという事はないと楽観していた。そしてこの新たな感覚の発見にアレンゴは有頂天になっていたのであった。

 その時である、窓からの景色が変化しはじめたのをアレンゴは見た。最初は生れて初めての生殖の感覚による錯覚ではないかと疑っては見たが、それは確かに見えていた。空のあちこちがぴかぴかと四色(注十七)の光で輝き始めたのである。

 リュカウン(注十八)だった。間違いなくリュカウンだった。アレンゴは、性的な快感ともあいまってその様子に狂喜した。そして何かに憑かれたように、エミュの抜け殻の中での激しい前後運動を止めることができなくなっていた。彼はこの世の物とは思えない空の輝きと、この世の物とは思えない快感に夢中になり、すでに自分の意志では中断できないほど、その快感は高まってきていた。


 快感が絶頂に達した時、アレンゴはついにそのぶくぶくした腹の中に生まれてからずっと貯えていたとごり、その青黒く粘った液体を何回かの痙攣にも似た神経の高ぶりとともに射出してしまった。アレンゴは男が一生に一度のみ感じることができる快感に酔い知れた。世の中に、そして自分の人生にこれほどまでの快い快感が隠されていたとは夢にも思っていなかったのだった。

 しかしそれを感じたもの、ほんの束の間。その後、エミュの抜け殻の中に射出された精液がベトリと張り付き、それが流れ出して来ているのを認識したアレンゴを襲ったものは、腹の中に石を詰め込まれたような激しい後悔の思いだった。先ず最初によぎった思いは女性の抜け殻の中にくるまるという、この上もない惨めな格好のまま死を迎えねばならなくなったという羞恥心、そしてこんな惨めな死に方をせねばならなくなった自分の人生とはいったいいかなるものであったのかという疑問だった。それは、事実胸部がきりきりと締め付けられる実際の痛みをも伴っているほど激しいものであったが、それは射精し、死を迎えようとしている為の誰にでも訪れる変化であるのか、それとも本当に現在の後悔の念があまりにも大きすぎるせいであるのかはアレンゴには判断できなかった。

 それが生まれて最初で最後の生殖の感覚だったのだし、それは今となってはどうしようも取り返しの付かなくなった出来事であることも事実だった。その興奮の冷めと同時に空に見えていたリュカウンも嘘のように静まってゆき、ついには元の単なる黄褐色の空にもどってしまった。

 そこまで来てしまうとアレンゴは心の中の全く違った領域で一種の安堵感さえ感じていた。何となく自分の人生はこういった、とてもみっともないものであろうということは、意識のどこかで最初から認識していたのかもしれなかった。そして、これは決められた通りの出来事が起こっただけではないのかというなかば開き直った冷静さが生まれた。

 これでおしまいだ。僕の人世はこれで終りなんだ。何等報われることのなかった人世が。

 アレンゴはそういった一種の虚脱状態の中で今までいやというほど眺め続けてきた空を眺めた。あとどれくらいの命なのだろうか。生まれてから貯えつづけて来た精液を吐き出してしまって、何やらぽっかりと腹の中に空間が生じたような、空腹感にも似た爽快さが生じはじめたとき、頭の中でアレンゴは残りわずかな時間を、何を考えることに費やそうかと考えた。

 特に大したことではない。残りのわずかな時間に何が出来るというわけでもなく、何を考えたところで特にそれが何かに影響するというものでもないのだ。色々な想い出の中でアレンゴは、エミュに見せてもらった絵を思い出すことにした。何度も見せてもらったのでその一枚一枚は全て思い出すことができた。想像の中でその一枚一枚をめくりながらその絵が訴えている、手に取るような心象を思い返していった。そしていくらかの静かな時間が経過して行った。

 そろそろ、終わりの時が近づいたようだった。薄れゆく意識の中で、改めていったい自分の人生とは何だったのだろうかと問い直してみた。まっとうに女性に産卵させることもできずこんな抜け殻に射精してしまって、そして命を失って行くこの人世とは。幸福だったのか不幸だったのかそれさえ今の彼は判断できないでいた。

 それは、我々の生命を司ると言われているチュロー神にしか解らないことなのだろうか。そう、間もなく自分はきっとチュロー神のもとに旅立つのだ。アレンゴはそう自分を勇気付けた。そしてその想像は単なる想像ではなく、最期を意識したアレンゴには明らかな確証となっていた。なんら根拠はないのだが、理由があるわけではなく、た・だ・そ・れ・が・解・る・の・だ・っ・た。

 チュロー神は・・・エミュの・・・母は子供で・・に連れられ・・・


 気付くとアレンゴは今までとはうって変わった世界にいることに気付いた。

 一面黄褐色だったはずの空が、いつの間にか吸い込まれるような青色に変わっているのだ。青い空の所々には何と言うのか、白い綿のような物がポカリと浮かんでいるのを見た。そしていつか見た空に浮かぶ動物が群れをなして優雅に進んで行くのも見えた。辺りはやわらかく、暖かい光に満ち、ポカポカとしていた。


 アレンゴは、長い間住み続けた肉体の殻と、その上を被ったエミュの抜け殻を同時に破って抜け出し、本当にその青い空に吸い込まれて行った。




訳者注釈

 注一 一様に黄褐色のガスに覆われた空:ラグンドラ星の大気は恒常的に安定した濃厚なメタンを主成分とするガスに覆われており、その状態は一年を通して殆ど変化はみられない。


 注二 第二期全身脱皮:ラグンドラ人は地球上の昆虫などに見られる不完全変態で二度の脱皮を終え成人する。


 注三 傾斜を付けた自室:ラグンドラ人の頭部上面には胸部から迫り出した大きな胸板が覆い被さっており、その体の構造上、上を見ることができない。これは空中を飛行する天敵が存在しなかったためであると言われている。ラグンドラ人が空を見るためには体ごと上を向ける必要がある。


 注四 六つの眼:ラグンドラ人の目は頭部前面、頭部側面、胸部側面にそれぞれ一対有しており、それは地球上の昆虫の複眼に近い構造をしている。この六つの目で水平面に対してほぼ全周の視界を有するが、実用的に物を認識できる目は前の一対のみであると言われている。


 注五 翌朝:ラグンドラ星は、地球の月のように絶えず同じ面を恒星であるγ-27に向けて公転しているため、地球のように自転による一日の区別はない。一般にこの地方の住人は一定時間に行われる礼拝によって一日の区別を行う。また、礼拝は一日一回の唯一の食事の時でもあリ、ここで町工場(注十二参照)で合成された彼らの主食である「ナマ」が配られる。


 注六:アリタ アレンゴの愛称


 注七:エグワノン この地方に伝わる伝説に出てくる空を飛ぶといわれる生き物。特に若虫のラグンドラ人を捕まえ、脳味噌を食うといわれている。


 注八 脳無し:生まれたラグンドラ人のうち、約三十パーセントは脳、及び神経細胞が未発達で、まともな生活をおくれないため、幼少期に死亡する。症状が重い場合は外見上頭部が陥没している場合もあり、その為この症状を持って生まれた者を「脳無し」と呼んでいる。


 注九 身を縮めた:恐れたり、驚いたり、恥ずかしがったりした時、身体に表れる特徴


 注十 住居:ラグンドラ人は、第一期全身脱皮を終えると母の元を去り、独り立ちする。この時に自分の住居を自分で作るのが一般的であるが、中には死んだ前の住人の住居をそのまま、あるいは少し改造して使用する事もある。住居は地中に穴を掘り、入り口に体から分泌される特殊な体液を固めた円い蓋が付けられる。穴の中には寝室や居間、物置などいくつかの部屋に分けられる。


 注十一 大湖:ラグンドラ人が分布していた地域は殆どこの「大湖」と呼ばれる大きな湖の周辺部のみに限られていた。母星の重力の影響でできたこの星唯一の湖であり生命の源であった。


 注十二 工場:資源に恵まれず、厳しい環境下にあるこの星では、自然の収穫から食べ物をまかなうことはほとんど不可能であった。工場と呼ばれているものは、エギデキン人による植民地時代に設置され、当時まだ動き続けていた食料供給装置の事を指す。この装置のおかげで、わずかながらのラグンドラ人が細々と生き延びることができた。


 注十三 この抜け殻流していなかったんだね:常脱皮後の抜け殻は、すぐに大湖(注十一参照)に流すのが習わしになっている。当時は一般に抜け殻をいつまでも残しておくと、よからぬ魂が宿ると言う迷信が残っていた。


 注十四 サドゥロの「流れゆく人」:アルトロバル・サドゥロは植民地時代中期浪漫派の作家。エピブッシブ・ノドンと並んで今までタブーとされていた男女の交わりを当時としては衝撃的に描き、話題となった。


 注十五 初めて見る女性の腹部:ラグンドラ人はその体の形状から腹部を見せる事はほとんどなく、男性と女性では大きく形状も異なっている。


 注十六 触覚を絡めていった:恋人同士で行われる親愛の情を示す行い。


 注十七 四色:ラグンドラ星人の目が捕らえる事のできる可視光線の範囲は、地球人に比べて狭い。


 注十八 リュカウン:ラグンドラ星でごくまれに発生する自然現象。大気中の分離したイオン成分が、空中で合成する事によって、四色に発色するものとされている。地球旧歴2018年と推定されているラグンドラ星人の絶滅期までの間に残された数少ない文献にも実際の観測例がほんの三、四件程度と、非常に頻度の低い現象である為、現在も科学的根拠は詳しく解明されていない。敢えて地球上の自然現象に喩えると、虹やオーロラ等に相当するが、発生頻度の低さはこれの比ではない。

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