6
時は流れ――晩冬を迎えた領都に、雪の季節が訪れる。昨日までの降雪で白に没した領主館の景色は、暗い曇天も相まって、薄ぼんやりと淀んでいた。
(親父が死んだ日も、こんな日だったな)
自室の窓から外を眺め、ふ、と短い息を吐くと、白い靄が風に攫われる。窓を閉め、上着を羽織る。腰に佩いた剣に触れ、その存在を確かめてから、マルセルは部屋を後にした。
会わねばならぬ人がいる。昨日でも、明日でもない。父が死んだあの日のような、淀みが漂う今日にこそ、相対せなばならぬ人が。
降り積もった雪に足跡を刻みながら、足早に歩みを進める。ずっと待ち望んでいた日であった。けれども不思議と、逸る気持ちも不安もなく、あらゆる雑念は冷たい空気に溶けて消え、ただ研ぎ澄まされた青い情念だけが、しんと胸裡に宿っていた。
冬枯れの薬草園の最奥、葉を散らした菩提樹の前に、その人はいた。弟の散歩に付き合っているのだろう。小さな手を引きながら、雪化粧をした菩提樹のきらめきを、ふたりで静かに見上げていた。
「ジスラン」
その名を呼べば、驚いた顔が振り返る。ファイナの病が快癒して以降、言葉を交わす機会はあまりなかった。親族以外に呼び捨てにされることも、一度たりとてなかっただろう。
声をかけたのがマルセルだとわかると、ジスランの頬は自然と緩む。笑みを返し、からりとした声で、マルセルはこう言った。
「いまから、俺と手合わせしようぜ」
ジスランと剣を交えていると、この鍛錬場で負かされた時のことを思い出す。
(あのときは、俺が剣を絡め落とされたんだっけ)
成長の過渡期にある今、体格でも腕力でも、二歳差の利は確実に己にあった。なのに敗北を喫するとは、随分と鍛錬を怠けたものだ――そう考えられるくらいには、マルセルには余裕があった。ジスランの剣は、鋭く、早い。その扱いは巧みであるが、鍛錬をともにした兄や姉に比べれば劣るうえ、剣撃の重さも年相応のものでしかない。
振り下ろされた剣を受け、しゃらりと剣の腹を滑らせていなす。そうして開いたジスランの横っ腹に、思い切り蹴りをいれてやった。
「――っ」
衝撃と痛みに呼吸を潰され、雪でぬかるんだ地面に倒れるが、すぐさま手をついて体勢を立て直す。泥に塗れながら反撃を仕掛けてくるものの、太刀筋は読みやすく、彼の実直さをそのまま映したようであった。
(せっかく手に泥がついてんだ、立ち上がる時に目つぶしを狙えばいいものを。いたって純粋な剣術のみ……体術も挑発も使わねぇ、お上品な剣だ)
鋭い切り上げを躱しながら、マルセルは胸裡で苦笑する。
俺なら、もっとずるくやる。相手の嫌なところを突き、汚い手段を使ってでも、目的を達することを厭わない。
(まあでも、こいつにそれは似合わないか)
ならば、その領分を担うのは、――俺であればいい。
終いだとはかりに、マルセルは腕に力を込め、ジスランの剣を打ち据える。受けきれずに弾き飛ばされた剣が、硬い残響とともに地に転がった。
「……悔しいな」
衝撃に痺れた手をさすりながら、ジスランが眉を顰めた。
「以前は俺が勝ったのに、もう追い抜かれてしまった」
「負けっぱなしは性に合わないんでな。鍛錬、結構がんばったんだぜ? ――
「……主だと?」
戸惑うジスランににやりとして見せ、マルセルは己の剣を地面に突き立てると、柄頭に両手を乗せた。
「春に反故にしちまった誓約の儀――略式も略式だが、やり直そうぜ。いま、ここで」
柄頭に乗せた従者の手に主君が手を重ね、誓約の言葉を交わすことで、主従の契りは果たされる。しかし本来、従者となる者は立ったままではなく、両膝をついて服従と忠誠を示すのだが、マルセルはそうしなかった。頬をぴしゃりと打つ冷たい風にも顔を背けず、背筋を伸ばしてジスランの応えを待つ。
「……なぜ、いまさら。あんなに誓約を嫌がっていたじゃないか」
「そんな時期もあったっけなぁ」
「俺はいやだ。誓約をすれば、ガルディアは命を賭してグラースを守ってしまう。おまえを、アルバンのようには――」
「ならない。俺は、親父みたいにはならねぇよ。だって、――俺の命は、俺のものだから」
ようやく定めた己の道を、自らの意志で歩いていく。胸裡に据えたこの決意が、同じ傷を抱えていたジスランの憂いをも、断ち切ることができたなら。
「おまえだってそうだ。領主様みたいにはならない。
「それは、そうだが……」
「じゃあいいじゃねえか。もっと気楽に考えようぜ。それにおまえ、粛清官になることが決まったって聞いたぞ」
「……ああ。父上が、そうしろと」
「なら、異教徒、異民族と戦うことは避けられない。その戦いの中――自分の背を預けられる友がいるのは、悪くないと思わないか?」
予想だにしなかった言葉に、ジスランがきょとんと目を丸くする。その年相応の少年らしい表情に、マルセルはふっと吹き出した。
「不敬だったか?」
「いや……いいや。そんなことはない。むしろ、おまえの言葉を借りれば、そう――」
輝きを増していく群青の
「悪くない」
凍てつく風を溶かすようなその目元は、ぱち、と火花が散るようだった。言葉にならぬなにかが通じたような手触りに、ほんの少し、胸が躍る。
「よし、じゃあ決まりだな。さ、俺の両手にあなたの手を添えてください、ご主人サマ?」
「……いま友だと言ったばかりなのに。早速ふざけてるだろう」
「おまえはちょっとばかし真面目すぎるから、これくらい適当で丁度いいんだよ」
にやりとしてそう言えば、ジスランは怒るでもなく、笑いながら「そうかもな」と返してくれる。そうしてマルセルの手に自身の手を重ねようとして――なぜだか不意に、引っ込めてしまった。
「どうした?」
「いや、手が……さっきの戦いで、泥だらけで」
「気にすんなって。俺の手だって汗まみれだ」
肩を竦めてそう言えば、ジスランは促されるまま、汚れた手を重ねてくれる。まだ自分より一回り小さな主の手は、雪混じりの冷たい泥に塗れていた。
領主の血統たるグラースは、民を導く清廉な光であるべきなのだ。だから――
「今日この時より、おまえは一切後ろ暗い事で手を汚すな。それは俺が引き受ける」
己が主の影となり、あらゆる穢れを払いのける。代々引き継がれてきたガルディアの誇りは、その忠誠にこそ宿るのだろう。父が、命を賭してまっとうしたように。
「――我、マルセル・ガルディアは、汝を我が正当なる主と認め、祖の盟に倣い、誇りをもって仕える。汝の命に背かず、汝のために剣を振るおう」
主と同じ高さで眸を交わし、誓約の言葉を厳かに唱える。ジスランの手に付いた雪混じりの泥が、指の間を伝い落ち、重なり合ったマルセルの手を汚した。
「我、ジスラン・グラースは、汝を我が忠実なる従者と認め、祖の盟に倣い、敬意をもって迎える。我が責と名をもって汝を導き、汝の誇りを守り抜こう」
ジスランの声は気高く、明瞭に響き、凛然とした佇まいは大人びている。領主一族に相応しい風格をまとっているが、しかし別の側面から見てみれば、彼も弟の子守に苦戦し、我を通すために思わぬ無茶をしでかすという、不器用ながらも人間味のある少年だった。
「この剣に誓う」
身分も違う。性格も違う。けれども魂のとある一部分には、きっと同じ炎を宿している。
「我らは主従であり」
「我らは盟友である」
そんな思いを抱かせてくれる誓約の交唱が、なにやら不思議と、心地良い。
「ともにこの地を守り、ともに歩む者なり――」
みな仕事で出払っている〈犬〉の鍛錬場に、見届け人は誰もいない。どこからか舞い落ちてきたひとひらの雪片が、ふたりの手に落ち、形を崩して消えていった。
*
(あのあと結局、正式な誓約の儀をやらされたんだよなあ)
少年たちが勝手に略式で済ませた誓約は、大人たちには認められず、後日改めて正式に執り行われることになった。二度繰り返すことになった誓約がなにやらおかしくて、儀式の最中は笑い出すのを必死に堪えていた。儀式が終わるや否や、廊下でふたり揃って吹き出したのは、今ではいい思い出である。
「マル兄とジスラン様の主従関係ってさ、ちょっと独特よね」
マルセルからラベンダーを受け取ったファイナが、乾いた花穂を崩さぬよう丁寧に
「呼び捨てだし、敬語も使わないし」
「不敬ったらないよ、まったく」
呆れたような溜息を吐くのは、椅子に腰かけた母である。
「リュシアンやソレアたちを見習いなさい。あんたは主を敬う心が昔っからないんだから」
「いいんだよ、俺たちはこれで」
「いいことマルセル、ジスラン様の婚礼の場ではちゃんとするんだよ? 主に恥をかかせたら承知しないからね」
「あのなあ、さすがに公の場ではわきまえるっての!」
四十を迎えても母に小言をくらう兄に、ファイナがくすりと笑みを零す。「でもさ、お母さん」と、ラベンダーの収められた木箱を頬に寄せて続けたファイナの言葉に、母ははたりと小言を止めた。
「私はふたりの関係が、ちょっといいなって思うのよ。主従なのに対等だなんて、ともに領地を守ると盟約を交わした、ご先祖様たちみたいじゃない」
(……ご先祖様ねえ)
――我らは主従であり、
――我らは盟友である。
(まだケツの青いガキ同士の、慣例を無視した誓約だったが)
テーブルに置いてあった葡萄酒の
あれから、何年が経ったのか。
ジスランを取り巻く状況は、この数年で目まぐるしく変化した。マルセルの父が犠牲になったような兄弟間の継承争いを決して起こさぬよう、ジスランは早期から継承の意思がないことを長兄レオナールに明言し、いかなる派閥にも担がれぬようにと、自身の子を成すことも避けていた。努めて領主の地位から遠い位置に立っていたにもかかわらず、レオナールとその子息らは
双方にとって、不幸な出来事であると思う。こんな状況は、ジスランは露ほども望んでいなかった。けれども、それこそ母の言う通り、不敬極まりないのであるが――マルセルの胸裡には、わずかな高揚感が生まれていた。
(あいつが、領主になるとはね)
長兄の補佐ではなく、ジスラン自身が領地を治める。主の影である己も、その一端を担うのだ。
――ともにこの地を守り、ともに歩む者なり。
かつて
(それもまあ、悪くない)
風が走り、木立の梢をさわりと揺らす。
鍛錬場へと並んで歩いて行くふたりの少年の姿を、蒼い影の中に見たような気がした。
ブレビエガレの行進 瀬生杏 @NITAY_ANN
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