17.以心伝心パニック〜心が読めるとは言ってない〜

 あの買い出しデート(ではない)から、数日が過ぎた。

 俺と柚月の関係は明らかに、しかし周囲には分かりにくい、絶妙な変化を遂げていた。


「潤くん、補充用のコーヒー豆、切れます」


「了解。柚月さん、そっちのグラス5個お願い」


「言われなくてもやっています。それより、あなたのその寝癖、どうにかなりませんか」


「うっせ! これはオシャレパーマだ!」


「そうですか。爆発しているようにしか見えませんが」


「……」


 会話のテンポは、明らかに良くなった。遠慮がなくなり、軽口を叩き合えるようになった。

 それは、確実に良い変化のはずだった。

 ただ一つ、大きな問題が生まれたことを除いては。


「おーい、潤、柚月ちゃん!」


 店の奥のテーブルから、権田さんの野太い声が飛んでくる。


「お前ら、例のデートはどうだったんだよ!? 手くらい、繋いだのか!?」


「あらあら、柚月さんも隅に置けませんわね。わたくしたちの知らないところで、こっそりと愛を育んでいたなんて」


 冴子さんの、ニヤニヤが止まらない声が続く。

 そう。あの日、店の前で鉢合わせた瞬間から、俺たちは常連たちの最高に面白いオモチャになってしまったのだ。


「「違いますっ!!」」


 俺と柚月の完璧にシンクロした否定の叫びが、店内に響き渡る。

 もはやこのやり取りは、この店の日常風景の一部と化していた。

 だが、その日だけは様子が違った。

 いつもなら、その光景をニコニコと眺めているはずの店長・神楽坂さんが、その日はカウンターの奥で、一切の笑みを浮かべずに、じっと俺たちを見ていたのだ。

 その顔は真剣で、どこか厳しく、少しだけ「怖い」。

 俺と柚月が、常連たちのからかいを必死に捌いていると、店長が、すっと俺たちの前にやってきた。

 そして、一つの小さな箱を静かにテーブルの上に置いた。


「潤くん、柚月」


 店長の声は、いつもの飄々としたものではなく、低く、そして重かった。


「君たちぃ、だいぶ仲良くなったみたいだね……」


 彼は、俺と柚月の顔を、順番に射抜くような目で見つめる。


「この私にも、見せてもらいましょうか。君たちの関係値を」


 それは、ただのゲームの提案ではなかった。

 父として、そしてこの店の主として、俺たちの関係性を見極めようとする、静かな「審判」のゴングだった。

 その異様な雰囲気を、常連たちも敏感に察知していた。


「おいおい、なんだか面白くなってきたぜ」


「店長が本気だ…」


 彼らは、ニヤニヤとした野次馬の顔で、俺たちが座るテーブルの周りに椅子を引きずって集まってくる。

 逃げ場はない。

 俺は、隣に座る柚月と顔を見合わせた。

 彼女の顔には「なぜ、こんなことに」という絶望と、「ですが、やるしかありませんね」という、妙な覚悟が浮かんでいた。

 地獄のスタッフ研修が、今、強制的に始まろうとしていた。


 店長は、審判のように俺と柚月の向かいの席に座った。

 そして、その手で『ザ・マインド』のカードを、静かにシャッフルし始める。


「ルールは、極めてシンプルです」


 店長の声が、静まり返った店内に響く。周りを囲む常連たちもゴクリと喉を鳴らし、その説明に聞き入っていた。


「レベル1なら1枚ずつ、レベル2なら2枚ずつ配られる、1から100までの数字が書かれたカード。それを二人が協力して、小さい順に全て場に出す。ただ、それだけです」


 簡単じゃないか、と俺は思った。

 だが、柚月は怪訝な顔で首を傾げている。


「……店長。それだけではゲームとして成立しません。当然、何か制約があるはずです」


「その通り」


 店長は、ニヤリと笑った。その笑みは、これから俺たちを地獄に突き落とす悪魔の笑みだった。


「このゲームにおける、唯一にして絶対のルール。それは――一切のコミュニケーションを禁ず。言葉、視線、ジェスチャー、その他自分の手札の情報を相手に伝える、いかなる手段も禁じられています」


「「…………は?」」


 俺と柚月の声が、綺麗にハモった。

 相談なしで、カードを小さい順に出せ?

 そんなのエスパーでもなければ不可能だろ!


「お二人の『絆』だけが頼り、というわけですね」


 店長は楽しそうに言うと、レベル1の試練として、俺と柚月にカードを1枚ずつ配った。

 俺のカードは『72』。柚月のカードは、分からない。

 高いのか? 低いのか?

 俺はポーカーフェイスを貫く柚月の顔を、必死に読み取ろうとする。

 心臓が、バクバクと音を立てる。

 静寂。永遠とも思える時間が流れる。

 やがて柚月が、すっとカードを場に出した。


『18』。


 低い!

 俺は安堵のため息をつきながら、自分の『72』をその隣に置いた。


「……クリアです」


 店長が静かに告げた。

 続くレベル2。今度は2枚ずつ。

 俺の手札は『35』と『91』。

 柚月の手札は、分からない。

 また、静寂が訪れる。

 俺は、心の中で必死に秒数を数えていた。

 1秒、2秒、3秒……。

 まだ、出さない。ということは、お互いそこまで低いカードは持っていないはずだ。

 15秒が過ぎた頃。

 俺は、意を決して『35』を場に出した。

 すると、ほぼ同時に柚月が『40』を出す。

 セーフだ!

 そして長い沈黙の後、柚月が『88』を出し、最後に俺が『91』を出した。


「……レベル2、クリア。素晴らしいですね」


 店長が、少しだけ感心したように呟いた。

 周りの常連たちからも「おいおい、マジかよ」「できてますわね…」と、驚きの声が漏れる。おい待て、誰だ、デキてるって言った奴。

 ともあれ、いける。

 俺たち、いけるんじゃないか?

 先日のデート(ではない)での、あの奇妙な一体感。それが、今ここで発揮されている。

 俺と柚月は顔を見合わせ、小さく、しかし確かに、頷き合った。

 だが、そんな俺たちの自信を、目の前の悪魔が見逃すはずがなかった。


「素晴らしいシンクロ率です。では、ここからが本番です」


 店長はそう言うと、俺たちではなく、周りを囲む野次馬たちに向かって宣告した。


「これより皆さんによる、全力での妨害(ヤジ)を、許可します」


「「はああああ!?」」


 俺たちの悲鳴と同時に、それまで静かだった常連たちが、待ってましたとばかりに一斉に牙を剥いた!


「いけ! 潤! 気合だ、気合で彼女の心を読め!」


 権田さんの、全く役に立たない脳筋エールが飛ぶ!


「あらあら柚月さん、目が泳いでますわよ。自信がないのかしら? それとも、潤くんをまだ信頼できていない、とか?」


 冴子さんの、的確に柚月の心を抉ってくる心理攻撃!


「現時点での山札の期待値と君たちの経過時間を考慮すると次のカードが出るまでの許容ラグは3.4秒! それを超えると失敗確率は68%に跳ね上がるぞ!」


 影山さんの、全くありがたくないデータによるプレッシャー!

 静寂は完全に破壊された。

 俺たちの周りには、もはや騒音と、悪意と、プレッシャーの嵐しか存在しない。

 そしてその嵐の中、俺たちの連携はあっけなく崩壊した。


(え、ええと、俺のカードは45……! 冴子さんの言う通りだ、柚月さんのこと、信じきれてないのか、俺は!? いやでも、権田さんの言う通り気合か!? いや、影山さんの言う3.4秒が……!)


 パニックになった俺は、思わず手の中の『45』を場に出してしまった。

 その瞬間、柚月が「あっ」という顔で、自分のカードをテーブルに叩きつけた。

 そこに書かれていた数字は――『21』。


「……失敗です。ライフを一つ、失います」


 店長の、無慈悲な声が響き渡った。

 常連たちの、爆笑。

 俺と柚月は、その騒音の嵐の中で、ただただ絶望的に顔を見合わせるだけだった。


「ライフは、残り一つです」


 店長の非情な宣告が、俺たちの心をさらに追い詰める。

 レベルはまだ中盤だというのに、俺たちの連携は、常連たちの全力の妨害によって完全に崩壊していた。


「おい潤! 男なら度胸だ! とりあえず出してみろ!」


「あらあら柚月さん、顔がこわばってますわよ。そんなんじゃ、潤くんの心も読めませんわ」


「統計的にここでの君たちの成功確率は12.8%! 絶望的だな!」


 うるさい! うるさい! うるさい!

 もはや俺の頭の中は、彼らの声と焦りとプレッシャーでぐちゃぐちゃだった。

 俺は手の中のカードを、ただただ握りしめる。数字が、頭に入ってこない。

 もうダメだ。無理だ、こんなの。

 俺が諦めかけて全てを投げ出そうとした、その時だった。

 隣に座る柚月が、ふっと息を吐くのが聞こえた。

 そして彼女は、ゆっくりとその目を閉じたのだ。


「え……?」


 驚く俺をよそに、柚月は全ての騒音をシャットアウトするかのように、ただ静かにそこに座っていた。

 その表情は穏やかで、集中していて、まるで周りの狂騒など、最初から存在しないかのようだった。

 彼女は、周りの声を聞くのをやめたのだ。

 権田さんの脳筋エールも、冴子さんの心理攻撃も、影山さんのデータも、全て切り捨てた。

 そして、ただ俺と二人だけでゲームをした、あの最初の静かな「間」と「テンポ」だけを、心の中で必死に再生させていた。

 その姿に俺は、ハッと雷に打たれたように、我に返った。

 そうだ。

 大事なのは、周りの声じゃない。

 目の前にいる、彼女との呼吸だけだ。

 俺たちが二人で積み上げられた、あの不器用でぎこちなくて、でも確かに存在したあのリズムだけを、信じればいいんだ。

 俺も柚月にならって、ゆっくりと目を閉じた。

 うるさかった常連たちの声が、すーっと遠くなっていく。

 そして、俺は心の中で、一つのリズムを刻み始めた。


 トン……トン……トン……。


 それは、俺と彼女の、二人だけの心臓の音。

 騒音の嵐の中、俺たちの周りだけ、まるで異空間のような不思議な静寂が生まれた。

 誰も何も言わない。

 だが、俺には分かった。


(……今だ)


 俺は目を閉じたまま、そっと手の中の一枚を、場に出した。

『32』。

 すると、まるで俺の動きを待っていたかのように、柚月が、すっと彼女のカードを重ねる。

『35』。


「おお……」


 常連たちの、驚きの声が聞こえる。

 俺たちは、もう迷わない。


 トン……トン……トン……。


 リズムは加速していく。

 俺が『61』を出す。

 柚月が『64』を出す。

 柚月が『78』を出す。

 俺が『80』を出す。

 それは、もはやゲームではなかった。

 会話のない、二人だけの静かなダンス。

 互いの心を、互いの信頼を、ただ盤上に置いていくだけの神聖な儀式。

 俺と柚月は、まるで一つの生き物のように、次々と完璧なタイミングでカードを場に出していく。

 そして、ついに最後のレベル。

 配られた全ての手札を、俺たちは目を閉じたまま、出し切った。

 場には、見事に昇順に並んだ数字の列。

 残機は、一つも減っていない。

 奇跡の、完全クリアだった。


 静寂。

 あれだけ騒がしかった常連たちが、誰一人言葉を発しない。

 ただ、目の前で起きた奇跡を、呆然と見つめているだけだった。

 俺と柚月は肩で息をしながら、顔を見合わせた。

 疲れ果てていた。だがそれ以上に、とてつもない達成感が、俺たちの胸を満たしていた。


「……やった、な」


「……ええ。やりました、ね」


 どちらからともなく、ふっと笑みがこぼれる。

 それは腹を抱えて笑うような、いつもの笑いとは違った。

 ただ二人だけにしか分からない、困難を乗り越えた戦友のような、静かで温かい笑いだった。

 その時だった。

 俺たちの向かいに座っていた店長が、すっと立ち上がった。

 それまで浮かべていた、真剣でどこか厳しかった「怖い顔」が、ふっと父親の優しい笑顔に戻っていた。

 彼は俺の肩を、ぽんと軽く叩いた。


「……合格です」


 そして静かに、しかしはっきりと告げた。

 その声は、店長としてではなく、一人の父親としての温かさに満ちていた。


「潤くん。これからも娘のことを、よろしく頼みます」


「え、ちょ、お父さ…」


 その言葉は、俺の心にじんわりと、深く染み渡った。

 父から娘への、そして俺への、最大限の信頼と感謝の言葉。

 店内に、これ以上ないほど温かい空気が流れる。

 ……そう、流れるはずだった。

 この俺、相田潤というノンデリカシーの塊が、その場の空気を、一言で粉々に破壊するまでは。

 最高の気分だった俺は少し照れながら、人生で一番カッコつけた(と本人は思っている)顔で、柚月に向き直った。


「というわけだ。柚月さん」


「……はぇ?何です?」


 不思議そうな顔をする彼女に俺は、とどめの一言を放ってしまう。


「いやぁ、お義父さんから、こうして正式に許可もいただけたわけだし……。まずは、お互いの両親への挨拶の日程を決めるところから、かな?」


「…………へ?」


 柚月の時が、止まる。


「お、お義父さん……?」


 彼女の顔が、まずリンゴのように赤くなった。

 そして次の瞬間には、沸騰したヤカンのように、シューッと音を立てて、真っ赤に染め上がっていく。

 許容範囲を遥かに超えた羞恥心は、純度100%の「殺意」へと、見事に昇華された。


「誰がっ、お義父さんですかーーーーーっ!!!」


 ゴッ!!!


 鈍い音。

 俺の視界の左半分が、一瞬でブラックアウトした。

 柚月の完璧なフォームで繰り出された右ストレートが、俺の頬に吸い込まれるようにクリーンヒットしたのだ。


「ぐふっ!?」


 俺は、綺麗な放物線を描いて床に倒れ込んだ。

 そして、鬼の形相で見下ろしてくる柚月に、涙目で抗議する。


「な、殴らなくても!」「うるさい!」「ご、ごめん、冗談のつもりで!」「冗談が最低最悪です!」「ぎゃああ!」


 温かい空気は跡形もなく消え去った。

 店内には、俺の情けない悲鳴と、柚月の冷たい罵声だけが響き渡る。

 その惨状を、店長と常連たちは、ただただポカンと見つめていた。

 権田さんが、ぽつりと呟く。


「……おい。あいつら、本当に仲良いのか…?」


 冴子さんが、扇子で顔を隠しながら、ため息をついた。


「さっきまでの以心伝心は、幻でしたの…?」


 そして店長が、遠い目をしながら、静かに言った。


「……やはり、気のせいだったようですね……」


 俺の悲鳴をBGMに、全員がほんの少しだけ縮まったはずの二人の距離が物理的に、そしてある意味精神的にも大きく離れてしまった(ように見える)夜を、静かに受け入れるのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

次の更新予定

毎日 12:00 予定は変更される可能性があります

チェックメイトへようこそ! 下朴公脩(げぼくきみはる) @hamuharu1202

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ