16.盤上の二人、盤外のデート?
平日の大学のキャンパス。
秋晴れの空の下、俺、相田潤は死んだ魚のような目をして、友人の田中、鈴木と共に芝生に寝転がっていた。
「あー……終わった……。3限の経済学、教授の声が完璧な催眠音声だった……」
「俺なんかノートの8割が意味不明なミミズだぜ」
「ああ、彼女欲しい……。てか、金欲しい……」
「お前、それしか言わねえな…」
ごく普通の何の生産性もない、しかし最高に平和な大学生の日常。
『チェックメイト』の狂騒が、まるで異世界の出来事のように感じられる、穏やかな時間だった。
その時だった。
少し離れたカフェテラスで、友人たちと談笑している女子学生のグループが、ふと俺の視界に入った。
その中の一人に、俺は見覚えがあった。いや、見覚えがありすぎた。
「え……」
白いブラウスに流行りのロングスカート。いつもはきつく結ばれている髪も、今日は緩やかに下ろされていて、風にやわらかく揺れている。
友人たちと話すその横顔は、俺の知っている氷のような表情ではなく、年相応の屈託のない笑顔だった。
神楽坂柚月。
それは俺の戦友の、俺が初めて見る「普通の女の子」の姿だった。
思わずその姿に見入ってしまっていたのだろう。
不意に、彼女がこちらを向いた。そして、俺の視線に気づき、ピタリと動きを止める。
その瞳が、驚きに見開かれる。
そして、俺たちはほぼ同時に無意識にお互いを、いつもの戦場(バイト先)での呼び方で呼んでしまった。
「あ、柚月さん!」
「え、潤くん……!?」
次の瞬間、世界は爆発した。
いや、爆発したのは、俺たちの周りにいた友人たちの好奇心だった。
「おい潤ッ! 誰だあの超絶美少女は!」
「てか今『柚月さん』って言った!? 下の名前呼び!?」
「お前、いつの間にあんな可愛い子と知り合ったんだよ! 吐け! 全部吐けコラ!てか死ね!」
田中と鈴木が、鬼の形相で俺の両肩を掴んで揺さぶってくる。その目には、嫉妬と羨望と、あと殺意がこもっていた。
「ち、ちげえよ! バイト先の同僚で……!」
「同僚を下の名前で呼ぶか普通!? どんなバイトだよそこ!」
まずい、言い訳が思いつかない!
俺が必死に脳を回転させている間、柚月の方も、地獄の尋問を受けていた。
「え、今の誰? 柚月!」
「なんか、雰囲気カッコいい人じゃん!」
「てか柚月、『潤くん』って呼んでなかった!? え、もしかして、噂の彼氏って、あの人!? 聞いてないんだけどー!」
友人たちにキラキラした目で問い詰められ、柚月のクールな仮面は、粉々に砕け散っていた。
彼女の顔は、みるみるうちに真っ赤に染まっていく。
「ち、ち、違いますっ! ただのバイト先の同僚で、その、年上だから『くん』付けなだけで!」
その狼狽ぶりは、もはや俺がいつも店で見せているパニック状態と、何ら変わりがなかった。
俺たちは、それぞれの友人たちによる尋問の嵐の中で、もう一度だけ視線を交わした。
その目は、明らかに「助けてくれ」と訴えていた。
俺は、小さく「また後で」と口を動かす。柚月は、こくり、とほとんど見えないくらい小さく頷いた。
◇
その夜。
俺が大学の課題と格闘していると、スマホのメッセージアプリが、ぽこん、と鳴った。知らないアカウントからだった。
『神楽坂柚月です。業務連絡です。先日も話しましたが、店のUNOが限界を迎えていて、早急に新品を補充する必要があります』
堅苦しい文章。だが、俺が驚いたのはそこではなかった。
『柚月さん!? てかなんで俺のアカウント知ってんの!?』
すぐに既読がつく。
『お父さ…店長に聞きました』
『いやプライバシー…』
『業務上、必要な連絡先の交換です。プライバシーの侵害にはあたりません』
『どの口が! まあいいや、それで買い出しだろ?』
『はい。つきましては、今度の週末に買いに行ってきますので……』
『OK、じゃあ土曜の昼過ぎで。駅前のホビーショップな』
『……了解しました』
最後の返信が、ほんの少しだけ、間が空いたように見えたのは、きっと気のせいだろう。
◇
メッセージのやり取りが、終わった。
私は、スマホの画面が暗くなるのを見届けると、そのままベッドに、ばふっと倒れ込んだ。
「…………」
シーンと静まり返った部屋で、自分の心臓の音だけが、やけに大きく聞こえる。
大丈夫。大丈夫だ、神楽坂柚月。
冷静になりなさい。
これは業務連絡。そして、週末の予定はただの買い出し。
父の…店長の代理として、スタッフとして、当然の責務を果たすだけ。
そう、それだけなんだ。
……それだけ、なはずなのに。
『よっすー。明日の件、13時に駅前の時計の下でOK?』
潤くんの、あのやけに軽いメッセージが、頭の中で何度も再生される。
なぜだろう。業務連絡のメッセージのはずなのに、その一文だけが、キラキラと輝いて見えるのは。
(OK?じゃない……! 何がOKなんだ……!)
思い出して、また一人で顔が熱くなる。
(というか、なぜ、二人で行くのが、あんなに当たり前みたいな流れに……!)
ぐるぐる、ぐるぐる、思考が回る。
大学での、友人たちのキラキラした目。
「彼氏!?」「聞いてないんだけどー!」
あの言葉が、頭の中でエコーする。
「ち、違う! 断じて違う! あれは、友人たちの勘違いで、私と潤くんは、ただのバイト仲間で、今回はたまたま、業務の一環として、二人で行動するだけであって……!」
そこまで一気に言って、はたと気づく。
私、なんで、声に出してまで必死に言い訳してるんだ?
気づけば、私はクローゼットの前に立っていた。
そして、そこから、地獄のファッションショーが始まったのだ。
「これは……ちょっと、ラフすぎるか」
いつものジーンズとパーカーを手に取り、首を振る。
「じゃあ、こっちのワンピースは……いやいやいや! 気合入れすぎ! 買い出しだって言ってるでしょ!」
一人で鏡の前で服を合わせ、そして一人でツッコミを入れる。
「あくまで仕事! 動きやすさ重視! ……でも、大学の時みたいに、変に思われるのは……」
結局、クローゼットの中身を半分くらい引っ張り出した末、先日買ったばかりの、少しだけオシャレなブラウスとスカートの組み合わせに落ち着いた。
よし、と頷き、次に洗面台の前に立つ。
「メイク……どうしよう」
いつもは、ほとんどしない。でも大学の時、友人たちが「デートならちゃんとしないと!」と言っていたのを、思い出してしまった。
「だから、デートじゃないって言ってるでしょ!」
自分にツッコミを入れながらも、私の手は、慣れない手つきで、ファンデーションやリップを手に取っていた。
薄すぎず、濃すぎず。
頑張ってるように見えず、でも、手抜きだとも思われないように。
それは、どんなボードゲームの戦略よりも、難しくて複雑で、そしてなんだか少しだけ、楽しい作業だった。
◇
そして、待ち合わせ当日。
時計が13時を指す、少しだけ前。
駅前の時計の下で、私は、落ち着かない気持ちでスマホをいじっていた。
「遅いな……」
いや、まだ時間前だ。でも、そわそわしてしまう。
服装、変じゃないだろうか。メイク、濃すぎなかっただろうか。
そんなことを考えていると、不意に、頭の上から声が降ってきた。
「よっすー、柚月さん。お待たせ」
顔を上げると、そこにいたのは、いつものバイト先の制服でも、大学の時のラフな格好でもない、少しだけオシャレをした潤くんだった。
「……別に、待ってません」
思わず、そんな素っ気ない言葉が出てしまった。
ああ、違うのに。本当は、ちょっとだけドキドキしてたのに。
私の、不器用で、面倒くさくて、そしてちょっぴり騒がしい休日が、こうして始まってしまったのだった。
◇
駅前の大型ホビーショップは、休日の熱気に満ちていた。
俺たちは、目的の『UNO』やトランプ、スコアシートなどを、テキパキと買い物カゴに入れていく。
「これで、リストの半分は終わりましたね」
「ああ。意外と、スムーズだな」
「当然です。業務ですから、最短ルートで最大効率を出すのは当たり前です」
柚月は、そう言って、ツンと澄ましている。
その姿は、いつもの『チェックメイト』の風紀担当そのものだ。だが、俺はもう知っている。大学で友人たちにからかわれ、真っ赤になっていた彼女の姿を。今朝、この日のために、めちゃくちゃオシャレをしてきた彼女のことを。
そう思うと、彼女のその澄まし顔が、なんだか無性に、可愛く見えてしまった。
そんなことを考えていると、店の奥の一角が、やけに賑わっているのが見えた。
そこは、最新のボードゲームの試遊台コーナーだった。
「お客様! こちら、デンマークで大人気の新感覚アクションゲーム『クラスク』です! やってみませんか?」
キラキラした笑顔の店員さんが、俺たちに声をかけてくる。
テーブルには、エアホッケーを小さくしたような、木製のボードが置かれていた。
「いえ、私たちは仕事中なので」
柚月が、クールに断ろうとする。
だが、店員さんは食い下がった。
「でも、カフェのスタッフさんなら、お客様にオススメするためにも、一度体験しておくべきですよ! ね?」
その完璧なセールストークに、柚月が「うっ…」と、言葉に詰まる。
俺は、そんな彼女の様子が面白くて、つい悪ノリしてしまった。
「そうだな、柚月さん。店の参考になるかもしれないし、一回やってみるか」
「……潤くんがそう言うなら、仕方ありませんね。あくまで、市場調査の一環ですから」
こうして俺たちは、小さな競技場のようなゲームの前に座った。
最初は、確かに市場調査のつもりだったのだ。
「ボードの下の磁石で、自分のコマを操作して、相手のゴールにボールを入れたら勝ちです! 簡単ですよ!」
店員さんの合図で、ゲームが始まる。
俺は、小手調べとばかりに、ボードの下で操作棒を動かし、自分のコマで黄色いボールを弾いた。ボールは、壁に反射して、惜しくも相手のゴールを外れる。
「お、なかなか」
「……まぐれです」
柚月が、静かに対抗心を燃やすのが分かった。
次の彼女の番。
彼女は、数秒だけ、じっと盤面を見つめると、初心者のそれとは思えない、的確な操作でボールを弾き返してきた。そのボールは、俺の守りが手薄な隅を突き、見事にゴールに吸い込まれた。
「なっ……!」
「……これが実力というものです」
柚月の口元に、初めて勝利の笑みが浮かんだ。
その瞬間だった。
俺と彼女の中で、何かが、カチリと音を立てて切り替わったのは。
「……面白い」
「……やってやろうじゃないの」
そこに、もうぎこちない大学生の男女はいなかった。
盤上の覇権を賭けて戦う、二人の『チェックメイト』の狂戦士が、降臨していた。
「甘いですね、潤くん! その単調な攻め、完全に読んでいました!」
「そっちこそ、柚月さん! 守りばかりじゃ、俺の猛攻は止められないぜ!」
俺たちの手は、ボードの下で見えない火花を散らしながら、猛烈なスピードで操作棒を動かし合う。
カツン! カツン! と、ボールとコマが激しくぶつかる音が、店内に響き渡る。
「くっ……! 磁石(ビスク)がくっついた!」
「ふふ、それも戦略のうちですよ! あなたの操作が雑だからです!」
いつの間にか俺たちの口調も、完全に『チェックメイト』モードになっていた。
周りの客たちが、「え、なにあの二人…」「めっちゃガチじゃん…」「こわ…」と、ドン引きしている視線に、俺たちは全く気づいていなかった。
ゲームは、最終局面。互いのポイントは、同点。
次の1点で、全てが決まる。
静寂。
俺と柚月は、同時に、ボードの下で操作棒を握りしめた。
そして――
「「うおおおおおっ!!」」
二人のコマが、中央で激しく激突した!
その瞬間、俺たちが力を入れすぎたせいで、テーブルの上の『クラスク』のボード全体が、ガタン!と大きく傾いた!
ボードから弾け飛んだ黄色いボールは、綺麗な放物線を描き、あらぬ方向へと飛んでいく。
その先には――ちょうど、試飲のジュースを運んでいた、店員さんが。
「「あ」」
ガッシャーン!という盛大な音と共に、ジュースのカップが宙を舞った。
店員さんのエプロンは、オレンジ色に美しく染め上がった。
俺と柚月は、ハッと我に返った。
そして、自分たちの周りを、大勢の客と呆然と立ち尽くす店員さんが遠巻きに囲んでいることに、ようやく気づいた。
次の瞬間。
俺と柚月は、顔を今世紀最大かってくらい、真っ赤に染め上げた。
俺たちは、店員さんに「も、申し訳ありませんでした!」と、光の速さで謝罪すると、買い物カゴを掴んで、その場から全速力で逃げ出したのだった。
◇
大型量販店の、プラモデルコーナーの影。
俺と柚月は壁に背を預け、ぜえぜえと肩で息をしていた。まるで、何者かから逃げてきたかのように。いや事実、俺たちは自分たちが作り出した気まずい空気から、逃げてきたのだ。
「「……はあ」」
同時に、深いため息が漏れる。
そして、どちらからともなく、噴き出した。
「……ふっ」
「……くくっ」
最初は、こらえるような小さな笑いだった。
だが、一度火がつけば、もう止められない。
さっきまでの狂乱と、その後の気まずさ、そして、全力で逃げてきた今の状況。その全てが、急におかしくなってしまったのだ。
「あはははは! なんだよ、さっきの俺たち!」
「ふふっ……潤くんこそ! まるで権田さんみたいな雄叫び、上げてましたよ!」
「柚月さんだって! 目が、目がマジだったぜ!」
「あなたこそ!」
腹を抱えて笑い合う。
俺は、初めて見た。柚月が、こんな風に心の底から笑うのを。
いつもは、ツンと澄ましているか、呆れているか、怒っているか。そんな表情しか知らなかったから。
友人たちといる時の笑顔とも違う、何かを分かち合った共犯者のような、特別な笑顔。
その顔を見て、俺は、また心臓が、ドキリ、と音を立てたのを感じた。
◇
その後、俺たちはどこか吹っ切れたように、和やかな雰囲気で残りの買い物を済ませた。
時刻は、もう夕暮れ時。オレンジ色の光が、街を染めている。
店の近くの公園のベンチで、俺たちは、たくさんの買い物袋を足元に置いて、少しだけ休憩していた。
「……本当に、心臓に悪いです」
柚月が、夕焼けを眺めながらぽつりと呟いた。
「どの口が言うか。一番エキサイトしてたの、柚月さんだったぜ」
俺がからかうと、彼女は、少しだけムッとした顔でこちらを向いた。
「潤くんこそ! あなたのせいで、ペースを乱されたんですから!」
そんな軽口を叩き合った後、少しだけ、沈黙が流れる。
やがて、柚月が、静かに尋ねてきた。
「……潤くんは、どうしてあのお店で働いているんですか? もっと静かで、普通のバイトだって、たくさんあるでしょうに」
真剣な問いだった。
俺は、足元の、店のロゴが入った買い物袋を見つめる。
「まあ、普通じゃないよな。最初は、給料に惹かれて始めたんだよ。でもうるさいし、備品は壊されるし、時給良くないとやってらんないし……」
そこまで言って、俺は笑った。
「でも……なんか、面白いんだよな。あの人たち、めちゃくちゃだけど、ゲームしてる時は、本気で楽しそうだから。見てて、飽きないっていうか」
「……そう、ですか」
柚月は、そう呟くと、ふっと優しい顔で微笑んだ。
◇
そして、店の前に着いた、その時だった。
俺たちが「ただいまー」と、店のドアを開けようとした瞬間、中から、ちょうど権田さんと冴子さんが出てきた。
日曜の夕暮れ。
私服姿の、男女。
二人の手には、たくさんの買い物袋。
その顔は、どこか楽しそうで、少しだけ照れくさそうで。
権田さんと冴子さんは、その完璧なシチュエーションを、一瞬だけポカンと見ていた。
そして、次の瞬間。
二人の顔に、全てを理解した、ニヤアという悪魔のような笑みが浮かんだ。
「あらあら、まあまあ……」
冴子さんが、扇子で口元を隠しながら、意味深な視線を送ってくる。
「お、お前ら! その格好で、その買い物袋は……!」
権田さんが、俺たちを交互に指差して叫んだ。
「デートか! デートだったのか!?」
その言葉に、俺と柚月は、顔を、沸騰したヤカンのように真っ赤に染め上げた。
そして、完璧なタイミングで、寸分の狂いもなく、同時に叫んだ。
「「違いますっ!!」」
俺たちの全力の否定の叫びが、夕暮れの商店街に、高らかに響き渡った。
こうして、新たなる、そして、最高に面倒くさい火種(かんちがい)が、『チェックメイト』に持ち込まれたのだった。
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