名前を呼ばれなかった日
はな
名前を呼ばれなかった日
「勇斗、行くよ。」
そう言って母は出て行った。
両親が離婚したのは、小学2年生の冬。
出張が多い父と専業主婦だった母の関係が冷え切っていることは、子供ながらに気づいていた。
父が長めの出張に出た日の夕方、母は自分用のキャリーケースと小さなボストンバッグを持ち、弟の名前を呼んだ。
「ほら、千紗も早くして。」
と続くと思っていた。
でも、私の名前は呼ばれることはなく、扉が閉まった。
弟の手を引く母の後ろ姿は、今でも目に焼き付いている。
振り返ることなく去っていく姿。
私は選ばれなかったのだ。
ここまでの話を聞くと、大体の人は
「可哀想に……。」
というけれど、母がいなくなってからの私の人生はちっとも可哀想ではなかった。
父は会社を経営していて留守がちではあったものの、経済的にかなり恵まれていたと思う。
映画やドラマの世界なら、
父の会社が倒産して……、
的な流れが描かれるのかもしれないけれど、父の堅実な経営手腕のおかげで不況にも負けず会社は順調だった。
あの日出て行った母はそのまま他の男と暮らし始めたらしい。
あちらはあちらで上手くやっていると聞いている。
母からの連絡で駆けつけた祖母(父の母)は何も言わず、何も聞かず、いつもの笑顔で私に接してきた。
そのまま冷蔵庫の食材で手際よく夕食を作り、父が帰るまでの1週間を私とともに過ごして帰っていった。
祖母が帰ると、まるではじめからそうだったかのように父と二人の生活が始まり、
私の面倒を見てくれる佐伯さんと掃除や料理、家事全般を担当する杉山さん、40代の女性二人が母の代わりとして雇われた。
二人ともとても優しく、今では杉山さんの料理が私にとっての“母の味”だと思っている。
名前を呼ばれなかった日、確かに私は傷ついた。
けれど、一人っ子だった母の実家は、“跡取りとして勇斗を選んだ”それだけのことだった。
私たちは双子で、勇斗は男で私は女、それだけが母が私を選ばなかった理由。
他人は私たちの家庭状況に複雑な意味を持たせようとするけれど、実際はとてもシンプルで平凡だ。
母と私は今でもたまに食事をするし、勇斗と私は頻繁に連絡を取り合っている。
私の立場を聞いて、私以上に悲しみを表現する友人がいる。
それが私には理解出来ない。
悲しんだところで私は男にはなれないし、跡取りが必要な母の実家の事情も変わらない。
嘆き悲しむことで何かが変わる訳ではないのに。
これを伝えると、勇斗は悲しい顔をする。
双子なのに私たちは似ていない。
「千紗は母さんに似てるよ。」
実家の事情と父の出した条件(一人一人養育していく)を受け入れ、事務的に行動した母と、
自分たちが置かれた状況を冷静に受け止める私が似ている、というのだ。
そうかも知れない、と私は思う。
あの日、私は一瞬の痛みの後、淡々と状況を受け入れた。
母を恨むでもなく、勇斗を羨むでもなく。
「俺は落ち込んだよ。
父さんは俺を選ばなかったんだって。」
「今でも考えるよ。
母さんと父さんが一緒にいる選択は出来なかったのか?って。」
選ばれたはずの勇斗は、その繊細さから未だに癒えない傷を背負っているように見えた。
私たち家族が一緒にいられた未来なんてあるわけないのに。
母には好きな相手が出来た、だから別れたのだから。
やっぱり私は母に似ている。
タラレバや一時の感傷に心を揺らすことが無い。
父は幼いながらに淡々と状況を受け止め、適応していく私を悲しげに見つめることがあった。
勇斗と父は似ているのだ。
父は、私の冷静さが心配だ、というけれど、
私は父や勇斗がその繊細さで世の中を生きていることの方が心配になる。
私と母は、感受性を胎内に忘れて出てきたのだと思う。
それは、少しだけ悲しい気がするけれど、世界を生きていくには丁度良いとも感じる。
私が“置いて行かれた過去”を嘆き悲しみだしたら、父は、勇斗は安心するのだろうか。
考え始めて、我に帰る。
そんなことはありえないからだ。
やっぱり、私の名前を呼ばなかった母と、私は似ている。
名前を呼ばれなかった日 はな @hana0703_hachimitsu
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