境の結び目 ― 蛇は薬、山は返す

@MahoutsukaiSairyu

鳥居の向こうで、痛みは甘く名を変える。

山の稜線が、沈む陽をひと飲みにした。

メーター横の時計の針は六時を少し過ぎ、峠道は早くも夜の形になっていく。金曜日の帰路。分校で数学の採点を済ませてから出たのが失敗だった。冷えた空気が窓の外から糸のように車内へ入り、膝の裏を撫でる。胸の下あたりに残っていたわずかな違和感は、やがて切迫した焦燥に形を変えた。ここから先、道の駅もコンビニもない。耐え切る自信はない。


赤い鳥居が、闇の斜面に切り貼りしたように突然あらわれた。

路肩に車を寄せ、エンジンを落とす。音が消えると、虫の擦過と自分の鼓動だけが残る。鳥居の奥には小さな社。石段は短く、掃き清められている。誰もいない。

「失礼します」

口の中で小さく言い訳のように呟き、鳥居をくぐる。落ち葉の匂い。吐く息が白む。焦りに押され、注意書きの板に目がいくより先に、俺は用を済ませてしまった。安堵がじわりと広がり、視界の端に文字が遅れて刺さる――「立小便、固く禁ず」。背筋のどこか細い神経が、冷たい爪で弾かれたみたいに震えた。しまった、と思うより先に、かすかな鈴の音が背後で鳴った。


振り向く。

白い小袖、朱の袴。灯りのないはずの境内で、彼女だけが淡い光を帯びて見える。俺と同じくらいの年齢だろうか。まとめた黒髪が、うなじから肩へ滑り落ちている。近づいた瞬間、ふいに呼気が変わった。冷たいのに、甘い。

「禁を破られましたね」

声は静かで、叱責というより確認。俺は反射で頭を下げる。

「申し訳ありません。看板に気づかず……」

言いながら、彼女の装束の“白”が、思いのほか薄いことに気づく。小袖の布目は繊細で、灯りの角度によっては、内側の朱の布の縁取りがほのかに透ける。朱は濃く、どこか艶がある。視線をあわてて逸らすと、彼女は短く息を吸い、社のほうへ手のひらを返した。

「中で、お話を。冷えますから」


畳六枚の拝殿は驚くほど清潔で、藺草の匂いが新しかった。座に促されると、彼女は土間の奥から湯気の立つ湯呑を二つ運んできた。器の縁に触れる指が白く、爪の先にかすかな艶が宿っている。

「見えなかったのでしょう」

「え?」

「この山は、ときどき境が薄くなります。急いでいる人からは、必要なものほど遠ざかって見える」

口に含んだお茶は、香ばしさの奥に仄かな苦みと甘さが共存していて、喉の奥をやさしく撫でた。体の内側からじわりと温度が上がる。

「ここには古い約束が残っていて、“流さない”のがきまりなんです。水も、言葉も。だから、こぼれたぶんは、結んでお返しします」


彼女が取り出したのは、山葡萄の蔓を撚った細い紐だった。

「左手を」

言われるまま手首を差し出す。指先が脈に沿って触れる。紐が二度、三度と巻かれ、締められるたびに、皮膚の下で何かが“寄る”のがわかる。結び目が固まる瞬間、彼女の息が手首に触れ、鳥肌が波のように走った。

「痛みませんか」

「いえ」

痛みはない。だが、結び目から全身へ小さな脈が散っていく。耳の奥で、聞いたことのない律動が増える。

そのときだった。畳の目の隙間、柱の影、板戸の溝――暗がりのあらゆる線から、細い影が現れては消え、消えては現れた。乾いた紙が擦れ合うような連続音。心臓がひと拍、跳ねる。遅れて認識が追いついた。蛇だ。


恐怖は遅れて全身を駆け上がる。椀を取り落とす音が異様に大きく響き、喉が詰まる。立ち上がろうとして、膝が笑う。

「怖がらなくて大丈夫」

彼女は穏やかに言う。

「子たちは締め付けに来たのではありません。ほどきに来たのです」

そう言って、俺の肩に軽く手を置いた。指先が鎖骨の上を通り、喉仏を避け、胸骨の窪みに留まる。触れられた場所が、局所的に明るくなった。

「ただ――祓いには、古い“薬”を使います」

薬、という言葉に、胸の深いところがざわつく。

「噛まれます。浅く、何度か。死ぬ毒ではありません。感覚を呼び起こすための、少量の“揺らし”です。続けるかどうか、あなたが決めてください」

彼女の瞳が真っ直ぐこちらを見る。暗がりでも、視線だけはまっすぐに届く。

「……やります」

自分の声が他人のものみたいに聞こえたが、迷いはなかった。躊躇が恐怖を増幅させるのだと、直感が告げた。


「では、深く呼吸を。吐く息は長く、吸う息は短く」

彼女が囁くたび、蛇の気配が近づく。最初の一噛みは、足首の内側だった。針で刺されたような痛みが一瞬、そのあとすぐに温かさが広がる。二噛み目はふくらはぎの外側、三噛み目は手首の結び目に近いところ。噛まれるたびに、痛みが遅れて甘さに反転し、皮膚の地図が塗り替えられていく。

「数えましょう。いち、に、さん」

彼女の声に合わせて、蛇の動きがリズムを得る。四、五、六――細い歯が触れるたび、筋肉の深部が目覚める。痛みと快さが交互に波打ち、境界が曖昧になる。腕の産毛一本一本が独立して呼吸するみたいに、空気の流れを拾い始めた。

耳の奥で別の音が生まれる。さざ波のような、数列のような――「1、1、2、3、5、8」。蛇の擦過が数を歌っているのか、俺の脳が無意識に数理を当てはめているのか、判然としない。だが、その一致は恐怖をわずかに後退させ、代わりに奇妙な高揚を育てる。痛みが甘さに変わる、その“変換の瞬間”を待つ自分に気づき、背筋が凍り、同時に温かくなる。


「うなじにひとつ」

彼女の声が耳朶に触れる距離に来る。髪が触れ、静電気の微粒子が皮膚に散る。

次の噛みつきは首筋。鋭い痛みが、今度は長く残った。呼吸が詰まり、視界に火花のような白が散る。耐えようと歯を食いしばると、彼女の手がそっと頬に触れた。

「吐いて」

吐く。腹の奥から長く、長く。痛みの輪郭が和らぎ、そこに温度が滲む。熱は喉から胸へ、胸から腹へ、腹から指先へと移動し、全身が“別の皮膚”で覆われていく。

噛まれるたび、体が軽くなる。軽いのに、地面の重さは前よりはっきり感じる。畳の一本一本の草の存在が、足裏の地図に記入される。恐怖は消えない。消えないが、恐怖の形が変わる。刃物のような鋭さから、布に包まれた鈍さへ。鈍さは持続し、持続がやがて安心に似たものへと変換される。

「よくできています」

彼女の囁きが、耳の奥の弦をそっと弾いた。

その瞬間、小袖の白が肩口でわずかにずれ、内に隠れていた朱のレースの縁取りが、一瞬だけ月の気配を拾って浮かんだ。意匠の細かい刺繍が、光と影のわずかな差で立体になる。“人の生”を否応なく思い出す。目を逸らす。逸らすと、なおさら瞼の裏に定着する。喉が乾く。


噛傷は増える。二十、三十。数えるのをやめたあたりから、別の感覚が立ち上がった。身体の輪郭がぼやけ、どこまでが自分でどこからが空気なのか、境目がほどける。恐怖心が戻ってきて、脈が早くなる。

「境はほどけても、あなたはほどけません」

彼女の言葉は、落ち着いた重さで胸に置かれた。

「だから、もうひとつ。守りの噛みつき。結び目のうえに」

俺の左手首――さきほど結び直した結び目――に、ひと噛み。瞬間、白い閃光が走り、次いで深く黒い波が全身を満たす。痛みと快の差が消え、ただ“強い感じ”だけが残る。涙が出る。泣く理由はない。出てきたものが頬を伝い、顎に到達するまでの距離がやけに長い。

蛇たちは、いつの間にか俺の周りを輪のように囲んでいた。離れているのに、触れられている気がする。気がするのに、確かめる気力がない。恐怖と安心が同時に最大値になって、同じ高さのところで釣り合っている。彼女の掌が、胸の真ん中に軽く置かれた。


どれほど時間が経ったか、わからない。

畳の一枚が音もなく持ち上げられ、暗がりの向こうに湿り気を帯びた空洞があらわれた。板が幾重にも重なり、その向こうで細い影が行き来する。

「ここは継ぎ目。雨の日は、さらに深くなる」

彼女は畳を戻す。重いはずなのに、紙のように軽い。

「今夜はここで眠ってください。鍵はかけません。怖ければ、出て行けます。――怖いままでも、眠れます」


布団は軽く、肌に沿って落ち着く。蛇の気配は遠のいたが、耳はいつもよりよく聞こえる。遠くの沢の音。木々が伸びる微かな軋み。自分の心臓の音が、外の音と重なる。

半ば眠りに落ちる直前、彼女の声が落ちてきた。

「山は取って、山は返します。あなたがこぼしたものは、あなたに戻り、あなたが持て余したものは、こちらで預かる。それだけのことです」


目が覚めると、鳥の声。板戸の向こうは薄水色で、空気に冷たい角がある。手首の結び目はまだ温かい。

社を出ると、鳥居の朱が湿って濃かった。振り返ると、拝殿の影から彼女があらわれる。昨夜よりも人間らしい表情――といっても、どんな表情が“人間らしい”のか、うまく言葉にできない。

「ありがとうございました」

深く頭を下げる。

「こちらこそ。――戻ってくる道は、もう覚えましたね」

「ええ。もし、また……」

「金曜の夜は境が薄い。あなたの週の端っこは、そこにあります」


その週、小さな偶然がいくつも続いた。

失くしたと思っていた鍵が見つかり、採点のミスを生徒に指摘される前に気づき、古い友人から仕事の話が舞い込んだ。説明のつかない“流れ”が、少しだけこちらに傾いた気がした。

金曜の夕方、俺は迷いなくハンドルを山へ切る。


二度目の夜は霧が濃かった。

社に入ると、彼女はすぐそばにいた。

「戻ってこられた」

一言が、胸骨の裏に灯りを点す。

「今日は、音を聞きましょう」

座に着くと、蛇たちは姿を見せず、かわりに木々の内部の音が大きくなった。根が土を押し広げ、苔が湿り、石が呼吸する。耳の奥の数列は、今度は別の配列を歌う。二、三、五、七、十一――素数。

「街は人の心臓で守られている、と前に言いましたね」

「ええ」

「山は、数で守られています。均しではなく、偏りで」

彼女の指が結び目を軽く弾く。皮膚の下で、別の脈が一瞬だけ生まれる。


三度目、四度目――通ううちに、蛇の噛みつきは儀礼になった。浅く、数を刻むように。痛みは相変わらず痛みだが、反転の速度を体が覚え始める。噛みつきの前に“来る”ことがわかる夜もあった。空気の密度が少し変わり、畳の草一本一本が立ち上がる気配。恐怖は消えない。消えないが、正面から迎えに行けるようになってきた。

彼女の装束はいつもと変わらない白と朱だが、ふいの所作で、薄い布越しに内側の朱の縁が見えることがある。灯りがないのに、見える。見えるたび、視線を逸らす。逸らすたび、呼吸が浅くなる。自分の体が自分だけのものではなく、山の呼吸の一部でできていることを、いやでも思い出す。


ある雨の金曜、彼女は小さな木箱を持ってきた。

「最後に、これは“知恵の祓い”」

蓋をあけると、三本の紐が編み込まれている。どこも結び目が見当たらないのに、輪になっている。

「ほどけそうで、ほどけない。結び直さなくても、形が変わる。あなたの“数”の仕事に、近いでしょう?」

触れると、紐はひどく柔らかいのに、形は頑固だった。ほどくには、引くのではなく、回す。回すには、押すのではなく、傾ける。何度か試すうち、ある角度で急に視界が“合う”瞬間が来た。

「あ」

口から声が漏れた。

三つ編みは、ひとつの輪でありながら、どこからでも“最初”になれる。順序の専制が解け、境が移動する。目の前で、数式の行列と相似の影が重なる。授業でいつもうまく伝えられなかった“手触り”が、手の中に出現する。

彼女が微笑む。

「それが“ここ”の最後の謎。恐怖をほどくのは、必ずしも勇気だけではありません。たいていは、理解が半分ほどやってくれる」

胸の奥で、長い時間止まっていた歯車が、ひとこき動いた。

歓びは静かだった。跳ね上がる種類ではなく、深い井戸に水が満ちる種類の歓び。俺の仕事――数の世界を人に手渡す行為――が、いきなり鮮やかさを取り戻す。授業の板書が新しい順序で浮かぶ。どこで躓く生徒にどの角度から示せば良いか、筋道が立つ。

「ありがとう……ございます」

気づけば頭が下がっていた。


「もう少しだけ、祓いを」

彼女は言い、結び目に触れた。蛇の気配が近づく。

浅い噛みつきが三つ、四つ。痛みが甘さに反転する速度は、前より速い。だが今回は、ひとつだけ深い噛みつきが来た。左の手首、結び目の少し上。

電流のような痛み。目が暗くなり、耳鳴りが一瞬だけ世界を覆う。唇が乾き、舌が重い。

「吐いて。数える」

彼女の声が遠くで近い。

「一、二、三」

吐く。腹の底から。

「四、五、六」

痛みの輪郭が馴染んでいく。

「七、八、九」

甘さが乗る。

「十」

暗闇の底から浮かび上がると同時に、身体の外形が戻る。戻るのに、境は以前より柔らかい。布団の肌触り、畳の草、彼女の吐息、蛇の湿った皮膚。すべてが個別に、同時に、そこにある。恐怖はある。あるが、それを見ている場所が、少し遠い。

「よくできました」

彼女は手を離し、襟元を整えた。小袖の白が指で撫でられると、薄布の向こうで朱のレースが、わずかに浮き、沈んだ。生々しいのに、露骨ではない。視線を外し、呼吸を整える。生の気配は、恐怖と同じくらい古い。


「日曜の午後まで、ここで眠っていきましょう」

彼女はそう言い、布団を直す。

眠る前に、俺はたずねた。

「あなたは、いつからここに」

「ずっと。境が薄い夜にだけ、形を持ちます」

「蛇は」

「象です。欲と知恵と薬の――人が昔から、自分の中でうまく言葉にできなかったものの姿」

「あなたは」

「同じく。あなたが見る形に、私はなる」

その言葉は、恐ろしくもあり、救いでもあった。俺が見ている“形”は、俺のものでもあるのだ。


日曜の午後、目を覚ます。

粥の塩がちょうどよく、喉がやっと自分のものになる。

帰り支度をしていると、彼女が言った。

「次に戻るときは、街ではない水をひと瓶。できれば湧き水を。こぼさないように」

「探してみます」

「ええ。――先生」

呼ばれて振り向く。

「あなたは教える人。恐怖も、知恵も、ほどけ方も、誰かに手渡すことができる。境は、守るためだけにあるのではなく、渡るためにもあるから」


車に乗る。バックミラーに自分の顔。どこか見慣れない。結び目がハンドルに触れ、かすかに軋んだ。

山を下りるにつれ、蛇の噛み跡の疼きが遠のく。代わりに、板書の構成が鮮やかに立ち上がる。三つ編みの輪の謎が、数列の導入にぴたりとはまる。恐怖で磨かれた感覚は、日常に戻ってもすぐには鈍らない。生徒の「わからない」の音色の違いが、以前よりよく聞こえる。

歓びは続く。派手ではないが、底光りする種類の喜び。俺本人の、誰にも代わってもらえない種類のもの。

次の金曜、俺はまたハンドルを山へ切る。鳥居は、見える直前まで姿を見せないだろう。いい。境は、渡る直前まで見えないほうが、美しい。

怖さは消えない。けれど、その怖さの上に、数と理解と祓いの順序が一枚、また一枚と重なって、足場になる。

そして俺は知っている。噛みつきは“薬”で、薬は“象”で、象は“知恵”の形だ。

山は取って、山は返す。

結び目は、ほどけるたびに、結び直される。ほどけること自体が、守られているというしるしなのだと。

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