後編

 私が娘を最後に見たのは川沿いのバス停の前だった。娘は中年の男性と一緒にバス停のベンチに座っていた。男が見せる本物の紙らしきものを食い入るように見つめながら、熱心に話し込んでいた。


 通りの逆側から娘を呼ぶと、こちらに気づいて気まずそうに手を小さく振った。それで私には分かった。娘は私の元を去ろうとしているのだと。


「もう中産階級はいないの。滅びてしまったの」私は大声叫んだけれど、娘はゆっくりと首を横に振るだけだった。

 娘が中産階級を理想化する気持ちは痛いほどわかった。なにしろ、私自身も中産階級に魅せられている。今この瞬間も。

 生きた本物の中産階級がまだ存在することを知れば、誰だって自分も中産階級になれたらと思う。


 手元のAIはそんな私を冷静にたしなめる。

「ローン、保険、教育費、税金、かつて中産階級の「安定」のために積み重ねた制度が逆回転をはじめ、それら制度群が中産階級から次々と資源を吸い上げていくようになったとき、それは誰かの悪意によるものではありません。

 社会の成熟化とテクノロジーの進歩により、安全と信じられた職場は流動化し、所有の象徴であった住宅は負債の重荷となり、未来を保証する教育もまた、平等の象徴から競争の象徴へ、そして格差を固定化する装置へと変化します。

 中産階級を支えた象徴が形骸化し、ただの重荷となった時、中産階級という生き物はその輪郭を保てなくなり絶滅したのです」


 左の方から1台の灰色のバスが来ていた。行き先が表示されるべき場所には何も表示されていない。私はとっさに「待ちなさい」と叫んだ。娘は小さく私に手を振った。

 滑り込むようにバスが停まる。娘と中産階級の男がバス乗り込む。一番後ろの席に娘と男が座るのが見えた。

 娘が窓を開けて私の方に白い何かを投げた。たぶん紙。ヒラヒラと道路を舞いながら私の足元に落ちた。拾い上げてみると生命保険証書と書いてあった。


 生命保険証書から目を上げると音もなくバスが走り去るところだった。私はただ呆然と走り去るバスを見ていた。不思議と悲しくはなかった。中産階級の未来は私の娘に引き継がれた、そんな気がしたから。


END

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もうすぐ絶滅するという中産階級の人々について スドウ ナア @sudonah

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