もうすぐ絶滅するという中産階級の人々について
スドウ ナア
前編
学校から帰った娘が息をきらせながら大声で言った。
「駅前で中産階級の人を見た」と。
中産階級、久しく耳にしていなかった響きだった。21世紀の初めには街路樹のように自然にそこにあったらしい。だが、私が子供のころにはすでに、その姿を見ることは無かった。
「本当に中産階級だったの?」と聞くと、「間違いないよ。中産階級の身なりをしていたもの」という返事が返ってきた。
娘の言う「中産階級の身なり」という言葉に、私は少し引っかかった。
「それは、どういう格好だったの?」とたずねる。
娘は指を折って数えながら答えた。
「古いけど手入れされた革靴、アイロンの線がきちんと残ったシャツ、分厚くないけど艶のある腕時計。服は新しくないけど、全部きれいに揃っていたわ」
私は黙って頷いた。記憶の奥底から学校で習った中産階級の独特の生態をすくいあげる。
朝早く電車に乗り、夜遅く帰宅する。休日には家電量販店やショッピングモールを徘徊し、時に旅行や外食でささやかな贅沢を楽しむ。職場のリズムに生活を合わせ、収入と支出のあいだに人生を漂わせる。今の時代では、ほとんど博物館に収蔵されるべき生活様式。
「その人、何してた?」
「紙にペンで字を書いていたの。電子じゃないよ。本物の紙とペン」
「何を書いてたの?」
「数字」
「数字?」
「一枚もらったの」と言って娘は小さな紙片を私に見せた。
紙の中央に丁寧な文字で「14」と書いてあった。
☆彡
翌週の日曜、娘は珍しく早起きして出かけた。
「また駅前に行くの?」と私が聞くと、娘は首を振った。
「今日は川沿い。中産階級の人が、あっちに行くのを見た気がするんだ」
「どこで見たの?」と聞くと、「夢の中」というこたえが返ってきた。
時々変なことを言う子だったけれど、どうも最近は様子がおかしいところがある。あの中産階級の人を見たと言った日から。
娘が向かった川沿いの道は労働エリアと富裕エリアの境界になっていて片側2車線の広い道路が走っている。
道路横の歩道は綺麗に整備されて木製のベンチが等間隔で並ぶ。労働側も富裕側も同じベンチが置かれているのが珍しいと言えば珍しい。富裕区域の人がベンチに座っているのを見たことはない。
昼過ぎ、娘が戻ってきて「見たんだよ。2度目」と言った。
娘が語ったのは、川沿いでの出来事だった。
「あの人が川沿いのベンチに座っていたの。私に気づいて微笑んだんだ。この間、数字をくれてありがとうってお礼を言ったの。そしたら、鞄から茶色の大きな紙の入れ物をだしたの。フウトウって言うらしいよ」
「封筒っ、それはずいぶん懐かしいわね」私も実物を見たことはなかった。
「それで、中産階級の人が封筒の中からジュウタクローンっていうのを取り出して見せてくれたの。ジュウタクローンって何か知ってる? 未成年向けのAIだと答えてくれなくて」
「ジュウタクローンは分からないな。調べてみるね」
手元のAIに問い合わせると少し間があってから回答が返ってきた。
【住宅ローン(ジュウタクローン)】:中産階級の所有の意識の象徴
ー所有の意識の象徴ーよく分からなかった。おそらく中産階級に独特の概念なんだと思う。
「調べたけど、よく分からない。たぶん中産階級の人にしか分からない感覚かな。中産階級の人は教えてくれなかったの?」
「支払いがまだ14年残っているけれど賃貸より正しい選択なんだって言ってたけど、意味はよくわからなかった。でもすごく綺麗だったよジュウタクローン。しっかりした紙に複雑な格子柄とか数字とか文字とか、パッと見て価値があるのが分かったもの。あれはきっとすごいものだと思う」
娘があまりにも目を輝かせて言うので少し不安になって、思わず言葉が出てしまう。「いい?私たちは中産階級じゃないのよ。もう中産階級の人はいないの」
言葉が出たあとで、余計なことを言ったなと思う。そんなことは娘だって分かっていることなのに。
「分かってるわよ。でも、あの人は中産階級だったよ。だから、居ないわけじゃないんだよ。少しだけど、多分まだ少しは生きてるんだよ」娘は不機嫌そうに言う。
「そうかもしれないわね。でもね、その人は特別なの。普通はね中産階級はもうとっくにいないのよ」と言って、また余計なことを言ってしまったと思った。
「来週また来たら、次はセイメイホケンを見せてくれるって」娘は期待を抑えきれないという調子で言う。
「来週もいくの?」
「もちろん行くよ。知りたいもの、中産階級のこと」
できれば、もう娘には中産階級の人には会って欲しくなかった。あの時、その気持ちを素直に娘に言うべきだったのかもしれない。
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