第39話 受け継がれる理念
王都の街を柔らかく照らす午後の光の中、アンジェラは自身のデスクに積まれた新聞の山を片づけていた。
ふと、1面に目を止める。
《エリオット殿下、アデリーナ・ハリフォート公爵令嬢と婚約》
その文字を見た瞬間、息が止まった。
白いドレスをまとった令嬢の写真。その隣に立つ青年。
どこまでも穏やかで、慈しむような微笑み。
──エリオット。
指先が震えた。紙が小さく音を立てて折れ曲がる。
目を閉じれば、交わされたであろう光景がありありと浮かんでしまう。
アデリーナに向けた優しい眼差し。
そっと彼女の髪を撫で、額に口づけし、肩を抱き寄せ、その唇が触れる──
「いやーっ!!!」
アンジェラは叫び声を上げてベッドから飛び起きた。
息が荒い。頬が熱い。
カーテンの隙間から差し込む朝の光が、現実へと引き戻す。
「……夢……か」
胸に手を当てる。心臓はまだ暴れている。
夢の中の光景は、あまりに鮮やかで。
こんな夢を見た原因は分かっている。
昨日『エリオット殿下のお妃候補』と題したゴシップ雑誌が駅前の売店で売っているのが目に入ったからだ。
会わないでいればきっと忘れられると思っていた。
エリオットは『大事な友達』として記憶の箱の中に入れられると。
しかしこの10年で思いは大きくなるばかりで、他の誰かに恋することも出来ずにいた。
(私のことを好きだと言ってくれた時の、あの甘い熱のこもった瞳を他の誰かに向けないで……!)
そう思うのと同時に、誰かと一緒になって幸せになって欲しいと思う自分もいた。
エリオットは王太子の弟で王位継承順位は3位。
現国王の直系に孫は彼ら2人だけだから、彼もまた然るべき人と結婚し、子を儲けることを期待されている。
しかし28になる今になってもまだ正式な婚約者もいなかった。
まだ自分を想い続けてくれているなら嬉しい。でも申し訳ない。
深く息を吐き、身支度を始めた。
グレーのスカートに揃いのジャケット。それと白いブラウス。
ルーシーがアンジェラのために作ってくれた動きやすく、それでいて品位を損なわないスーツだ。
学生時代はベリーショートだった髪は卒業後は伸ばし続け、今では肩下くらいにまでなっていた。
それをハーフアップに簡単にまとめる。
鏡の前で姿勢を正し、微かに笑みを作ってみる。
(今日も愛する我が校へ……!)
「……よし」
気合を入れてかた階下へ降りると、香ばしいパンの香りが迎えてくれた。
「おはよう、アンジェラ」
「おはようございます、お母様」
ダイニングではすでに父と兄が食卓についていた。
彼らは今でも家業である商会を切り盛りしている。
「おはよう」
兄がティーポットを傾け、カップに紅茶を注いでくれる。
「バゲットはこのくらいでいいか?」
父が笑いながらパンを切り分ける。その上にたっぷりとバターを塗り、かぶりついた。
母が焼きたてのスクランブルエッグとベーコン、焼きトマトを添えた皿を置いてくれる。
バービカン王国の平民の伝統的な朝食だ。
アンジェラは手早くそれを口に運び、紅茶を流し込む。
「行ってまいります」
「気をつけてね」
家を出ると、通りには朝の霧が薄く漂っていた。
馬車とオムニバスが並行して走り、新聞を抱えた紳士や通勤する婦人たちが忙しなく行き交う。
アンジェラは定期券を差し出し、バスに乗り込んだ。
車窓の外では煉瓦造りの建物の列が過ぎていく。
彼女が窓に映る自分の顔を見つめたとき、そこには、かつて“男子”としてエイルズベリーに通っていた少女の面影はもうなかった。
やがて郊外に差しかかる。
芝生の広い敷地と白い校舎が見えてきた。門柱には金文字でこう刻まれている。
『アランデール女子学院』
アンジェラがエイルズベリーで得た知識と人脈、そして理念のすべてを注いで設立した学校だ。
校名はかつてのアランドル伯爵家の領地があった地方の名をつけた。
『身分を問わず、すべての女子に学問を』
その理念のもと、教師陣の多くはエイルズベリーの卒業生で構成されている。
創立からわずか3年で、国内でも有数の教育水準を誇る学院へと成長していた。
そして今日は特別な日。
マンチェス公爵夫人が学院を視察に訪れる予定である。それは今春ハドソン公爵家の次女──王女殿下がご入学されたからだ。
午前1限目の途中で到着されるとの知らせを受け、アンジェラは校長室で簡単な書類を片付けると、上着の裾を整えて校門へ向かった。
春風がスカートを揺らし、遠くから馬車の車輪の音が近づいてくる。
やがて3台の黒塗りの馬車が校門の前で止まった。
(……3台? そんなに多くの護衛をお連れになるなんて)
訝しむ間もなく、護衛たちが整列して車の扉を開けた。
2台目の後部座席のドアがゆっくりと開く。
まず、黒の革靴が地面を踏みしめ、そして陽光を受けて輝く金髪の青年が姿を現した。
背筋の通った長身、何年会っていなかろうと見間違えるはずもない。
「エリオット……殿下……」
アンジェラの声が震えた。
目が合った瞬間、時が止まったかのように周囲の音が遠のいた。
エリオットがゆっくりと歩み寄ってくる。
彼以外、何も見えなかった。
「アンジェラ……久しぶりだね」
「どうして殿下が……?」
今日訪問される予定だったのは、マンチェス公爵夫人のはずだ。
だが、目の前の彼は、10年前よりもずっと逞しく、そして頼もしく見えた。
「そんな他人行儀な呼び方はやめてよ。昔みたいに“エリオット”と呼んで?」
「いいえ。そんな、恐れ多いことです」
アンジェラは女子教育への功績を認められ、昨年、女男爵に叙されている。
しかし、男爵位など王族の前ではあってないようなもの。貴族の端くれだったアンジェラはよく知っていた。
「私は君に会いたくて、マンチェス夫人からこの公務を奪い取ったんだ」
「奪い取った……?」
物騒な響きに思わず聞き返すと、エリオットはくすっと笑い、車へと戻った。
そして1本の赤い薔薇を手に、彼女の前へ戻ってくる。
「受け取って」
差し出された薔薇を戸惑いながら受け取ると、彼は再び車へ戻り、今度は3本の花束を持ってきた。
「……また?」
「受け取って」
言われるまま受け取ると、さらに次は4本。
「ちょっ、ちょっと待って。これは一体?」
次々に増える薔薇の意味を考えながら、アンジェラはふと、昔エイルズベリー校の図書室で読んだ本を思い出した。
──薔薇の本数には意味がある。
1輪は『あなたしかいない』、3輪は『愛している』、4輪は『死ぬまで気持ちは変わらない』
はっとして顔を上げると、エリオットが優しく笑っていた。
「気づいた? はい、これが5本」
手渡された花束の意味は『出会えてよかった』
アンジェラの頬が赤く染まる。
「え、えっと……これは学校に飾る用、でしょうか?」
「そうしてもいいけど、何本かは家に持って帰って。……それで、私を思い出して?」
言いながら今度は6本の花束。
『お互いに愛し合いたい』
「待って、待って! どうしてこんなに薔薇を?」
「もう言葉では言い尽くせないから、かな」
と言いつつも、エリオットも会えない間に少々“拗らせた”ように思えた。
彼は次に9本の花束を差し出した。
『いつまでも一緒に』
「どうして私が花言葉を知ってるって思ったの?」
「君が図書館で借りた本、たいてい私も後から借りてたんだ」
くすっと笑いながら10本の花束を渡してくる。
『あなたは完璧な人』
アンジェラの腕の中は薔薇でいっぱいになった。
「つかぬことを伺いますが、あとどれほど……?」
「この車に積めるだけ。さすがに何台も連ねるのは難しかったからね」
そう言って渡されたのは12本の花束──ダーズンローズ。
1本1本に意味が込められている。『感謝』『誠実』『幸福』『信頼』『希望』『愛情』『情熱』『真実』『尊敬』『栄光』『努力』『永遠』
それはまるで、エイルズベリーで過ごした12年と2人の心を映すようだった。
エリオットは祈るような眼差しでアンジェラを見つめていた。
ダーズンローズには返答の作法がある。
アンジェラは花束から1本を抜き取り、エリオットの胸ポケットに差し込んだ。
『受け入れます』
「本当に……?」
エリオットの瞳が驚きから喜びへと変わっていく。
「うん。私もね、夢に見るくらいにはあなたのことが好きみたい」
その瞬間、アンジェラは花束ごと彼の胸に抱きしめられた。
薔薇の芳香と、懐かしい陽だまりのようなエリオットの匂い。
校舎の窓という窓から、キャー!と歓声が響いた。
生徒たちが身を乗り出してこちらを窺っていたのだ。
「エリオット! やるじゃなーい!!」
ルーシーの声が飛ぶ。彼女は今、アパレルブランドのデザイナーとして活躍しながら、この学校で美術と服飾を教えている。
「本当は、卒業式の日にもう一度ちゃんと告白したかったんだ。でも、君の周りにはいつも人がいて」
「……あの日は、私が主役だったね」
「夜のパーティで伝えようと思ったら、君は来なかった」
「あの当時は新しいドレスを作るお金がなかったんだよ」
それに半分不正入学でもあったから、厚かましくパーティにまでは顔を出せなかった。
「卒業後は大学と公務で忙しくて、会いに行く時間も取れなかった。それに身分の違いから『会おう』って誘っても断られる気がして」
エリオットは苦笑しながら、少しだけ視線を落とす。
「うん。そう言っただろうね」
「でももう違う。アンジェラは自分の力で爵位を得て、国中から尊敬を集めている。ずっと思ってたんだ──君が大きな功績をあげた時、もし誰とも結ばれていなかったら迎えに行こうって」
「そんな……いつになるかも分からないのに、待つつもりだったの?」
「もちろん。君しか考えられなかったから」
彼の瞳に浮かぶ真剣な光が、アンジェラの胸を震わせた。
「私も、あなたじゃなきゃダメみたい」
微笑みながら、彼の顔を両手で包み込み、ふわりと唇を重ねた。
「私、欲しいものは全部手に入れてきたんだから。あなたも、ね」
窓の外から再び悲鳴混じりの歓声が上がる。
アンジェラはそれを無視して、もう一度エリオットと口づけた。
──その日、アランドル女子学院の校門前で交わされたキスは伝説となり、後年『学院の前でキスを交わしたカップルは末長く幸せに結ばれる』と言い伝えられることになる。
アンジェラ・カストルム公爵夫人。
『人生をより良く生きるために学ぶことは大切』との理念を貫き、彼女はエリオット王子と結婚後も校長として教壇に立ち、バービカン王国に女子教育という新しい時代を拓いた。
−完−
身代わり伯爵令嬢はパブリック・スクールで奮闘する キシバマユ @kishibamayu
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