エピローグ

17

 病院のベッドの上から動くことが出来ないという状況は、想像をしていたよりもずっと不便で退屈なものだと、白い天井を見ながら思う。思う通りに身体を動かすことが出来ないことや、無機質な病院食はともかく、何よりも精神的に負荷があったのは風景が何も変わらないことだった。小説を読んで退屈を紛らわすことは出来たとしても、やはり人は風景を求める。虚構としての物語だけでは足りずに、現実としての経験を求めるのだ。

 芥生さんに手を離され、落下した先で、僕は死ななかった。あの高さから地面に叩きつけられていれば間違いなく死んでいただろうけれど、途中身体が木に引っかかったお陰で死ぬことはなかった。偶然なのか、芥生さんがそう落ちるように突き飛ばしてくれたのか。事実は分からないけれど、どう考えたとしても誰に害があるわけでもない。芥生さんのお陰なのだろうと解釈をすることにしよう。

 木に引っかかることが出来たとしても、全く怪我をしなかったというわけではない。足と腕は片方ずつ折れていて、それ以外も打撲による傷が全身に何か所もある。元通りの生活をつつがなく送ることは難しいとの判断で、入院をすることになった。夏休みだし丁度良いだろうということもあったのだろう。骨折は大体、一カ月で治るとのことらしい。つまり夏休みを丸々消費すれば、丁度学校が始まるタイミングで退院を出来るということだ。夏休みがずっとベッドの上なんて大変ね、と看護師が笑った。大変なことだ、全く。

 あの夜、落下した後で僕はなんとか身体を引き摺るようにして下山し、自宅から救急車を呼んだ。よくもあの痛みの中で歩くことが出来たと自分でも驚くけれど、興奮によって脳がいかれていたのだろう。人間の身体はかくもよく出来ているものだと感心をしたものだ。

 どうしてこんな傷を負ったのかと医者には何度も問い質された。僕は、暗いせいで山道にある階段を踏み外したのだと言った。勿論、傷痕は階段を転げ落ちたようなものではない。高所から落下した末のものだ。医者は胡乱な目をしていたけれど、事件性はなさそうだと判断をしたのかそれ以上言及することはなかった。

 怪我をし、入院するということで父には連絡をしたが、そこで交わされたやり取りは実際的なものだけだった。妙な怪我をしたことを叱られるわけでもなく、心配をされるわけでもない。幾つかの事務的な手続きについてと、いつも通り自分はそちらに顔を出すことは出来ないという連絡。それだけだ。

 父もまた、僕がそうだったように喪失の晦冥の中を彷徨い続けているのだろうか。それとも、ここではないどこかで生きるためのよすがを見つけることが出来ているのだろうか。そうであればいいと思う。僕とあの人の人生はある地点を境に断絶されてしまっていて、その空白を埋めることは出来ない。無理に繋がろうとすれば、きっとそれは破綻をしてしまうだけだ。僕のためにも父のためにも、このままの関係がいいのだろう。

 だから僕は、父親に対するの親愛ではなく、同じ境遇に居た人間の同情として願う。嵐のような苦悩の中から抜け出すことが出来ていればいいと。

 入院をしている部屋は当然個室ということもなく、二人の老人と一人の中年の男性と一緒だった。特別親しく話をするということはないけれど、簡単な世間話程度はする。誰だって、動けずにベッドの上に居続けるということは退屈なのだ。そして退屈をしている人間の多くは刺激か、他人を求めている。

 そんな中で、奇妙なことに僕には一人の見舞い客が周期的に訪れ続けた。水代紗季。最後まで芥生さんのことを憂いていた、唯一のクラスメイト。誰かが訪ねて来るなんていうことはあまりにも想定から外れていたことで、彼女の姿が病室を訪れた時は驚いて暫く何も言えずに彼女の顔を見入ってしまった。

「や。身体大丈夫?」

 僕と彼女は未だ殆ど話をしたことがない。話をしたとしても、芥生さんのことだけで個人的な会話は一度もなかった。けれど、まるでいつも教室で同じように話しているとでもいう風な態度で彼女は挨拶をする。

「まあ、大丈夫だとは思うよ。こんな体たらくだけど」

 死にはしていないし、幸いなことに後遺症の類も残らないとのことだった。一時的に病院に入っているだけで、夏が終わる頃には何もかもが元に戻る。

 そう、元に戻るのだ。状況だけを切り取れば、一カ月前と何も変わらない。僕には話すことが出来るようなクラスメイトも居らず、ただ静かに学校をやり過ごすだけの日々へと戻っていく。芥生結の失踪は話題には上がるだろうけれど、そうして出来たクラスの波紋は僕へと影響を及ぼすことはないだろうし、その波紋も今年のうちには消えていくだろう。日常は一人の死程度であれば時間の中に簡単に隠してしまう。それは嘆くべき欠陥ではなくて、生活の破綻に対する一種の防衛機構なのかもしれないけれど。

 あらゆる物事は日常の中へと還る。その中でも、僕は確かな喪失を抱え続ける。

 水代さんは夏休みの宿題や幾つかの事務的な連絡が書かれたプリントを僕に渡した後で他愛のない話をする。今年の夏は昨年よりも暑くなるらしいとか、毎年そんなようなニュースをやっているせいで本当に暑くなっているのかが分からないとか、先生たちはもう受験に備えろと言い始めていて嫌になるとか、勉強はせめて後に回してもそろそろ進路については考えないといけないとか。そんなような益体のない会話を紡いでいく。

 暫く話をした後で、水代さんは何も言わずにじっと僕の方を見た。同室の患者は何も音を立てず、静寂だけが部屋の中に反響する。開け放たれた窓から夏風が入り、白いカーテンを揺らした。天使が着ている衣服のように、目が明くような白をしているのだと、ようやく気が付く。涼し気な風が肌を撫でる。夏の匂いが部屋の中まで運ばれてくる。

「結がさ、夏休み前の何日か前から学校に来てないんだ」

 彼女は懺悔室で罪を告白するような慎重さで、声を潜めながら言う。この病室に居る人間に聞かれたからといってどうにかなるとは思えなかったけれど、そういう実際的な問題としてではなく、大きな声で話すべきではない話題だと思ったのだろう。

「芥生さんが? 珍しいね。質の悪い夏風邪とかかな」

「無断欠席なんだって。それで――」

 水代さんは一度息を飲みこむ。それは躊躇いというよりは、口にするための助走のようなものだった。事実を言うことは時として非常に難しい。事実は揺るぎないとしても、言葉にしてしまえばあくまでも不確定であった事象がその人の中で確定してしまうのだから。それでも水代さんは息を吐いて、僕の方を見る。

「家にも帰ってないらしいんだ。だから今、警察が捜索を始めてる」

「失踪事件か。今のところ、手がかりみたいなものは見つかってないのか」

 我ながら白々しい反応だった。僕は知っているのだから。そのような捜索に意味はなく見つかるはずがないということを。芥生結は月世界へと旅立ち、最早この世界に居ないことを。

「今のところは、何も」

「そうか。見つかるといいな」

「うん」

 会話はそこで打ち止められてもいいはずなのに、水代さんはまだ話は終わっていないというように僕から目を逸らさずに居る。仄かな居心地の悪さを感じた。しかし、今目を逸らしてはいけないような気がして、僕は水代さんの目を見つめ返す。彼女はラムネ瓶に入ったビー玉のような、澄んだ目をしていた。

「白野君、結がどこに行ったのか知らない?」

 どうして彼女の疑念が僕の方に向けられたのかは分からない。ただ、彼女の声には何気ない問いかけのような楽観は含まれておらず、むしろ確信めいた色を孕んでいた。

 水代さんは分かっているのだ。芥生結の失踪に僕が関与していることを、論理的な推理か、あるいは直感のようなものによって確信しているのだ。

 彼女が行った先を、僕は知っている。そして、彼女が二度と戻って来ることがないということを。誠実に、真実を答えるならば伝えるべきだ。それがいかに空想的な戯言に限りなく近いことだったとしても、時間をかけて、最初から順序立てて。

 きっと、人間が月へと誘われるなんていう馬鹿げたことを聞いても水代さんは否定をせずに話に耳を傾けてくれるだろう。そして、彼女は信じてくれる。芥生結が月へと行ったことを。もう二度と戻って来ることが叶わないことを。この少女にはそれだけの柔軟さがあるし、何より不思議なことに僕を信頼していた。芥生さんの末路について話すとすれば、彼女以上の適任者が現れることは有り得ない。

 しかし、僕の答えは変わらなかった。

「残念だけど、知らないよ」

 僕の答えを、沈黙を、水代さんは何も言わずに受け取った。抗議をするような様子もなく、けれどそれ以上の言葉を待つように。

 答えを翻すつもりはないし、答えに繋がるような何かを提示するつもりもない。芥生さんが守りたかった幻想を僕は守る。それは責務というほど大層なものではなかったけれど、僕が彼女のためにしたい、個人的な願望だった。

「ただ」と僕は口を開く。それが嘘だとは知りながらも、何故だか本当にそうなるかもしれないとも本気で考えながら。

「きっと、何食わぬ顔で戻って来るさ。芥生さんはそういう人だろ」

 ある日、時間的空白なんてまるでなかったような顔をして芥生さんが顔を見せる光景を想像する。有り得ないことのはずなのに、それはいやに鮮明に僕の脳裏を過った。ともすれば、本当に彼女が帰って来ることもあるのかもしれない。月行病は、今の人類には全く未知の作用を持つ現象なのだから。

 芥生さんが月へと行ったということは、僕の中の新たな世界に対する秘密になった。僕はこのまま、この秘密を抱えて生きていく。時に苦しみながら、時に救われながら、それでも生きていかなければならない。それが彼女との約束であり、かけられた呪いなのだから。

 水代さんは僕の希望的な韜晦に「そうだね」と頷いた。それ以上何かを尋ねるようなことはなく視線を僕から窓外へと移し、彼女もまた芥生さんが帰って来ることを希望しているという風に空を見つめる。倣うようにして外を見ると、そこには雲一つない青空が広がっていた。

「じゃあ、そろそろ行くね」と言って水代さんは立ち上がる。「ああ、来てくれてありがとう」と僕は月並みな礼を告げる。

「今度来る時、何か持ってきて欲しいものある?」

「また来るつもりなのか?」

 水代さんは芥生さんについて僕に尋ねたいことがあるからこそ来たのだと思っていたのだ。もう一度来るとは想定をしておらず、間の抜けたような声で聞き返してしまう。

「迷惑?」

「まさか。ここは本当に退屈なんだ、来てくれると助かる」

 そう言うと水代さんは「オッケ」と言ってはにかむ。僕は数冊の適当な本を頼み、彼女は帰っていった。以前までの自分であれば、拒絶をすることはなくとも頼むような言い方をすることはなかったはずだ。これもひとつの成長なのだろうか。少なくとも、芥生さんとの出会いを通して変質した部分であることは確かなことだった。

 夜になると、明かりが全て消える。部屋の中は勿論、廊下までも。事務室なんかは点いているんだろうけれど、言うまでもなくその灯りはこの病室まで届かない。

 いつの間にか夜が、暗闇が、僕の中で恐ろしいものではなくなっていることに気が付いた。夜闇は、世界は、ただそこに在り続けるだけだ。捻じくれた視界を持ってそこに怪物を生み出してはならない。そこに、怪物は居ない。

 ゆえに上手く眠ることが出来なかったのは、夜への恐れではなく、ここ数年僕の身体に染み込んだ狂った生活のリズムのせいだった。それを簡単に矯正することは叶わず、僕は消灯時間が過ぎても眠ることなく、ベッドの上で身体を起こし空を眺める。夜空に浮かぶ、月を見つめる。

 どれほど手を伸ばしても決して掴むことが出来ない輝きは、毎夜僕たちを照らしている。その衛星に最早神秘はない。アポロ十一号が着地し、ニール・アームストロングが歩行し、何台もの月面探査機が分析をしたその場所には僕たちが希望するようなものは既に存在しない。

 それでも僕たちは月に祈る。幻想を。あるいは希望を。そうして祈る先にあるのは、今窓から見えるあの月であってあの月ではないのだろう。物質として宇宙に存在する月ではなく、イデアとして意識の中に存在する輝きに、僕たちは祈るのだ。

 芥生さんは。鏡花は。あるいは母もまた。月へと到達出来たのだと思う。アポロ十一号が着陸した月ではない、理想としての月世界に着地したのだと、信じている。

 夜空に浮かぶ月は、世界に取り付けられた窓のようだった。白い光は夜の空気に染められて淡い青色をして見える。何の変哲もない街並みは、しかし月光に照らされて完成された絵画のような美しさをしていた。

 月が綺麗だと思った。月に対するあらゆる感情や過去を打ち捨てて、ただ純粋に、そう思えたのだ。

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七月十九日より しがない @Johnsmithee

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