或る少女の祈り

 

 今日が月へと誘われる日だということを、私は直感していた。だからこそ、四季君には何も告げずに、いつもとは違う場所で、私はその時を待っている。空に浮かぶそれは世界に空いた天窓のように丸く、夜を切り取っている。綺麗だと思った。それが例え、今から私を殺すことになるのだとしても。

 明日になれば、彼は私が月へと行ってしまったことに気が付くだろう。あるいは今も、焦燥の中で私を探しているかもしれない。

 私のこの選択は、残酷なのだろうと思う。彼はきっと、私のことを恨む。例えその頃にはもう私が生きていなかったとしても、彼に恨まれることを考えると、辛かった。好きな人に恨まれるということはきっと、絶望という言葉に最も近い。

 けれど、そうなって欲しいからこそ、私は今独りで死を待っている。月へと誘われることを待っている。

 私は居なくなってしまう人だから。どうしたって、戻ることの出来ない人だから。彼には私のことを恨んで欲しかった。温もりを以て懐古する記憶ではなく、例え忘れることが出来なかったとしても過ぎ去ってしまってよかったと思えるような過去でありたかった。

 私はこれから死ぬけれど、彼はこれからも生き続ける。醜い本心を言うなら、いつまでも忘れられたくなかった。実在する私ではなくても、記憶の中に居る私に縋り続けて欲しかった。

 けれど、私は彼のことが好きで、彼に幸せになって欲しいのだ。だから、私は私が恨まれることを選ぶ。彼の生が、少しでも楽になることを、願う。

 身体の芯にあるものが静かに抜き取られたような感触がした。体重が失われたことが、分かる。ゆっくりと飛翔が始まり、私は月へと向かって行く。

 恐怖が精神を巣食う。慣れたつもりでいても、これが最期なのだと思うと、叫び出したくなる。発狂しそうになる。

 私はこれから死ぬのだ。もう、あの場所に戻ることは出来ないのだ。彼に会うことも、話すことも出来ないのだ。覚悟をしていたはずなのに、それらの事実は鋭い痛みとして心を突き刺す。

 あるいは、私が恐れているのは死じゃなくて、その結果としてある彼との別離なのかもしれない。死は、確かに怖い。けれど、経験していないことに対する恐れは茫洋としていて、彼との別離の方がよほど実際的な感触を以て私の精神を蝕んでいるように思えた。

 私は、彼のことが好きだったんです。居なくなることが分かっているから言えなかったけれど、本当に好きだったんです。

 いっそのこと、言ってしまえば良かったのかもしれないと思う。今日だって彼のことを呼んで、いつまでも私の姿を忘れないままで居てくれれば良かった。私が死んでも、彼の中で私が生き続けるのは、それ以上ない終わり方に思えるから。

 けれど、やはりそうした結末を選ぼうとは思えなかった。私は私が欠陥に溢れた人間であるということを理解していて、それでも矜持くらいはある。

 私の人生には、何もなかった。ただその中で、大切にしたいと思えるものと出会えた。希望というには、彼は薄暗いけれど、でも私は紛れもなくその薄明に救われたのだ。夜の闇に、昼の光はあまりにも眩しすぎるから。それくらいが私には丁度良かった、なんて言ったら彼は呆れるだろうか。

 空が、近付いている。見上げた月には、手が届きそうだった。私は間もなく死んでいくのだろう。出来れば、痛くない死に方だといいな、と思う。それとも、眠るように死にたいなんて願いは、私には贅沢過ぎるかな。

 見下げた地表は黒々としていて、微かな街灯だけが点在している。彼も、この中のどこかに居るのだろう。そう思うと、あれほど厭うていた世界を、少しだけ愛おしく思うことが出来た。これから、この世界から消えていくというのに。

 月へ行って、長い時間が経って。いつか彼と会うことが出来たら、なんて考える。例えば、いつか彼が幸福な人生の果てに死んだ時。月に来てくれたならば。

 こんな淡い希望くらいならば、持って行っても構わないだろう。私の意志に関わらず、無理やり連れて行かれるのだ。これくらいは許して貰わなければ困る。

 全く思うままにいかない世界だけれども、祈ることだけは誰にも、何にも止めることは出来ない人間の最も自由な行為なのだから。

 さようなら、四季君。あなたがいつか見上げる月が、いつも綺麗であることを祈っています。

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