第6話 山の怪異(1)
寺は、土淵村と鵜住居村の境界にある山の中にあるらしい。
農夫に教えられた通り進んでいくと、道は徐々に傾きを増し、やがてはっきりとした山道になった。
こうなってくるともう長袖のままでいることは不可能だ。私は観念して袖口をまくり上げた。それでも、得られる涼は気休め程度で、額からは汗が次々と湧き出してくる。
私以外に道を歩く者はない。しかし人の往来自体は普段からあるようで、その証拠によく整備されていた。荷車同士がすれ違える程度の道幅があり、草も生えていない。
喉の渇きを感じ始めたころ、ようやく山寺が見えた。農夫は山寺と表現したが、堂といった方が適切であるように私には思えた。
「ごめんください」
あけ放たれた扉から、奥に向かって声をかける。私の声が堂の空気へと吸い込まれていく。
……数秒待ったが返事はない。
「ごめんください」
今度は少し声を張って呼びかける。再び待ったが、やはり返事はない。留守だろうか。
汗みずくになってきたのにとんだ無駄足だった。そう思って立ち去ろうとした時だった。堂の奥からかすかに声が聞こえた。そしてこちらに近づいてくる足音も。
入口の方に向き直って待っていると、やがて一人の坊主が現れた。
「突然申し訳ない。ご住職はいらっしゃいますか」
尋ねると、坊主は少し考えるそぶりを見せた。
「私ごときが住職を名乗ってよいかはわかりませんが、こちらに常在していますのは私一人です」
私は少々驚いた。堂かと思うような小さな寺とはいえ、住職を任されるにはずいぶんと若く見えたからだ。多く見積もっても、私と三歳と離れていないだろう。
「失礼しました。私は鵜住居村から来ました仁科と申します」
非礼を詫びて名乗り訪問の意図を伝えると、住職は快く私を寺に上げてくれた。
「茶も置いてありませんので、粗末ですがこちらでご容赦ください」
差し出された湯飲みに入った液体には、確かに色がついていない。聞けば湯冷ましの水だという。 粗末などとんでもない。暑気当たりになりかけた身には、これ以上ないごちそうに思えた。一気に飲み干す。
「もう一杯いかがですか」
笑みながら言われて我に返った。喉が渇いていたとはいえ、勢いよく飲み過ぎたようだ。住職のご厚意を謹んで辞退しようとしたが、遠慮なさらずと新しい水を出されてしまった。いよいよ気恥ずかしい。
「その、先ほど申し上げたとおり、この村の言い伝えや習慣、不可思議な話を聞いて回っています。住職は何かご存じありませんか」
恥ずかしさを散らそうと、少々強引に話を変える。住職は気を悪くするでもなく答える。
「時折山から声が聞こえることはあります。はじめは猟師かと思いましたが、夜中にも聞こえたのでおそらく違うだろうと。山神か山男か天狗かはわかりませんが」
「姿を見たことは?」
「ありませんね。私自身はあまり山に入りませんので。ああでも、この子なら知っているかもしれません」
住職は開け放たれた雨戸の向こうに視線を向けた。私もつられて首を回す。
寺の、さほど広くない境内に子供が一人立っていた。女の子だ。年のころは十歳くらいに見える。両手を握りしめ、こわばった表情でこちらをじっと見据えている。寝ぐせだろうか、後頭部の髪が大きく外にはねていた。
「
「え」
「冗談です」
住職があまりにさらりと、水を勧めるのと同じ調子で言うので、私の口からは何の意味もない母音がこぼれた。言われたことを理解する間もなく、流れるように冗談だと言われ、そこでやっと困惑の感情がわいてくる。
山童とは、山に住む子供の姿をした妖怪の名だ。地域によっては河童が陸に上がったものとも言われる。遠野物語に記述はないが、取材にあたりいくつか読んだ地域伝承の本に載っていた記憶があった。
「村の子です。耳が聞こえないのか、しゃべれないようで。よく一人でここに遊びに来ます」
川縁で出会った子供達の、賑やかな様子を思い出す。しゃべれない子が、彼らになじむのは難しいだろう。
薄氷を歩くような 秋村涼 @kyokuya11
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