おまけ 幸せそうなあなた

 職員室の灯りがまだついている。

 しおりは鞄を肩にかけたまま、扉の前で足を止めた。

 今日は遅くまで生物室で作業をしてしまった。もうみんな帰ったと思っていたけれど、どうやらまだ誰か残っているらしい。

 扉に手をかけて少しだけ開けると、見えたのは美穂と陽菜乃が話している様子だった。

 机の上に置かれた紙袋と小さな箱。そして美穂の鞄に結ばれたスカーフ。

「すごく似合います!」

 スカーフを結んだ鞄を嬉しそうに見せる美穂と、陽菜乃の明るい笑顔。2人のやりとりは、職員室の蛍光灯に照らされてキラキラと輝いていた。

「こうして鞄につけていれば、いつでも久慈先生の優しい気持ちを感じられるから」

 スカーフを指先でなぞる美穂の顔は穏やかで楽しそうだった。


—そっか、今日は美穂の誕生日だったか。


 しおりの胸に遠い記憶がよみがえる。

 高校生の頃、初めて美穂の誕生日を一緒に過ごした日。なんでもないお揃いのキーホルダーをプレゼントしたら笑ってくれて。大学時代、下手くそな手作りケーキを美味しいと言って食べてくれて。

 あの頃は美穂の隣には自分がいた。

 今も、ほんの少しだけ隣にいたい自分がいる。

 でも、今その場所に立っているのは久慈陽菜乃。

—もう、あの頃に戻ることはない。

 そう頭では分かっているのに、美穂の笑顔を見ると、心の奥にちくりとした感情が芽を出す。

 悔しさでも、後悔でもなく、ただ少しの寂しさ。


 それでも、どこかで安心している自分もいた。

 今の美穂は幸せそうだ。

 ただの同僚、先輩後輩。美穂はそういった人物と、深い関係を持つことはあまりなかった。

 けれど、今の美穂の表情は、もっと深いところから生まれているように見える。

 陽菜乃の視線もまた真剣で、優しかった。大切な人に喜んでもらいたい、そんな気持ちが隠しきれずにあふれている。

 もしかしたら、美穂にとって久慈先生は特別な存在なのかもしれない。

 思わずそう考えて、しおりは口元に柔らかな笑みを浮かべた。

 そう思った瞬間、ほんの少しだけ声をかけたくなる。けれど、扉の取っ手を握る手に力は入らなかった。


 音を立てないようにそっと扉を閉じる。中に踏み込むのは野暮だ。

 暗くて静かな廊下を歩きながら、しおりはふっと笑った。

「さ、帰って晩御飯の支度でもするかな」

 小さく呟くと、不思議としおりも前に進まなくてはいけない気がした。

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付き合いたいけど、まだ言えない! 吉奈ちさき @447chisaki

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