第一章 完璧な私と、完璧じゃない世界

 月曜日の朝。

 目覚ましの電子音が鳴るよりも一瞬早く、澪は手を伸ばしてスイッチを押した。

 秒単位で管理された一日のスタート。その手際の良さに、本人すらも何も思わない。ただ「そうあるべき」動作が、自動的に繰り返されているだけ。

 ベッドカバーを丁寧に剥ぎ取り、掛け布団を二つ折りにし、ベランダの物干しに吊るす。冬の冷気が残る空気が、まだ乾ききっていない布団にわずかな湿気を残すが、澪は気に留めなかった。

 パジャマもすぐさまハンガーにかけ、スチームで軽く整える。寝癖ひとつない黒髪をブラシで丁寧に撫で、整髪スプレーを軽く吹きかける。

 キッチンから、ポットの湯が沸いた音がした。パンをトースターに入れ、短く焼き、スープとヨーグルトと一緒に静かに並べる。

 一口ごとに噛む回数を数えるように朝食を終え、食器を水洗いし、歯を磨く。動作のすべてが、規則と呼べるほどの精度で連なっている。

 そして――鏡の前に立つ。

 洗面台の上に、真っ直ぐな背筋で映る自分。無表情。目の下にクマはなく、肌は整い、唇にはうっすらと色が宿っている。

「……笑って」

 声にならない声で口を動かし、澪は口角を上げる。

 頬の筋肉だけが動く、感情を伴わない笑顔。けれどそれでいい。これが“ちゃんとした顔”。誰にも気づかれなくても、誰にも褒められなくても――。

「私は、ちゃんとしてなきゃいけない」

 洗面台の横に置かれたスマホに手を伸ばす。

 通知は、ゼロ。

 無音の画面を見て、何かを感じる前に画面を伏せた。感情の芽は、潰す。未然に。今日の完璧のために――。

 ベージュのパンツスーツに袖を通し、タートルのニットで首元をやさしく覆う。髪はゆるく一つにまとめ、シルバーの小さなピアスをつける。まるで均整のとれたテンプレートのような装い。

 玄関でストールを巻きながら、澪は一度だけ深呼吸をした。

「よし」と小さく呟いて、ドアを開ける。

 朝の通勤路、タクシーがマンションの前で待っている。

 フロントに一礼して乗り込むと、運転手が何も言わず出発した。こうして無言でいられる関係は、むしろ心地いい。

 十分後。アーバン・スカイタワーの前にタクシーが止まる。

 地上三十九階建て、東京の中心を象徴するようなガラス張りの巨大ビル。その三十二階に、澪が所属する「凛嶺りんれい法律事務所」がある。

 自動ドアをくぐると、光沢のある床と天井の照明が澪の影を吸い取るように広がった。

 セキュリティゲートを抜け、エレベーターのボタンを押す。三十四秒後、重々しく扉が開く。

 ひとつ深呼吸して、澪は足を踏み入れる。

 自分を乗せた箱がゆっくりと上昇するにつれ、都市のざわめきは遠ざかり、心臓の音が妙に大きくなる。

(深川 澪。三十九歳。独身。職業、契約パラリーガル)

 エレベーターのガラス越しに映る自分に、心の中で名乗る。

 今日も、完璧に仕事をこなす予定。

 ――だって今日は、鷲尾先生に会える日だから。と期待に胸を膨らませる。

 エレベーターの扉が開くと、そこにはまるで“都市”の音を拒絶するような静寂が広がっている。

 澪が毎日立つ場所――凛嶺法律事務所・三十二階。

 選ばれた者だけが足を踏み入れる、まるで空中に浮かぶ静謐な箱庭。

 足音が吸い込まれる厚手のグレーのカーペット。窓際には遮光ガラスが連なり、はるか下には都市の喧騒がミニチュアのように広がっている。

 ここでは、笑い声も雑談も、少なくとも“朝”には似合わない。

 澪はスーツの袖を軽く整えてから、フロアに一礼するように歩を進めた。

 誰にも見られていないはずなのに、背筋をまっすぐに保つことをやめられないのは、もう癖――というより、生存戦略に近かった。

 廊下を抜けると、左手に執務室のガラス張りのドアが見える。

 自動ドアが静かに開くと、そこにはまだ数名の職員しかいない。始業二十分前。

 澪はいつも、この時間に出社する。

「おはようございます」

 軽く会釈しながら入室すると、奥の自席――窓際に近いL字のデスクにバッグを置き、ノートパソコンを開いた。

 書類の確認、当日のスケジュール整理、ファイリング、フロア共有予定の掲示チェック。ルーティン作業が始まる。

 ふと、背後からヒールの音が近づいてくる。

 振り返ると、御門詩織みかど・しおり弁護士の姿。四十代半ば、ダークネイビーのスーツにボルドーの口紅。威圧感と気品が同居する、社内でも一目置かれる存在だ。“女帝”の異名を取るベテラン女性弁護士。冷静沈着で無慈悲な口調。だが実は猫を溺愛している。

「澪さん」

「はい、おはようございます」

「……今日の鷲尾先生との顔合わせ、中止になったわよ」

 その言葉は、あまりにあっさりと、コーヒーの温度を確認するような口調で告げられた。

「……そう、なんですか」

 澪は一拍置いて、笑顔を作った。

 まぶたの奥が、少しだけ熱を持った気がした。

「振替はまだ決まってないみたい。業務で連絡あると思うわ。忙しいんでしょうね」

 御門はそれだけ言って、すぐに自席へ戻っていった。

 あまりに淡々とした物言いだった。けれど、その無関心こそが、“本当の距離”を示していた。

 澪は、机の端に置いた小さな卓上鏡をちらりと見た。

 ――完璧な自分が、ちゃんと映っていた。

 目は笑っていない。でも、口角はちゃんと上がっている。

 それでいい。

 それでしか、やっていけない。

 やがて出勤ラッシュがはじまり、フロアがざわつき始めた。

 背広の擦れる音、パンプスの足音、シュレッダーの低音。

 朝会の時間が近づくにつれ、各部署のリーダーが会議室へ移動していく。

 澪も立ち上がり、手帳とタブレットを抱えて、ガラス張りの会議室へ。

 今日もまた、“正しい自分”を演じる舞台が始まるのだった――。


 朝会が終わり、職員たちが一斉に解散する。

 誰もが次のタスクに向かうように、軽く会釈して席を離れていく。

 澪は会議室のドアを押し開けながら、一瞬立ち止まった。

 ――そういえば、あの人の声、一度も聞いたことがない。

 鷲尾先生。

 まだ一度も、まともに話したことがないのに。

 今日こそ、挨拶ができると思っていたのに――。

 そんな考えが、頭に浮かんだ瞬間に、新人の宇都宮紗希うつのみや・さきが近づいてきた。二十二歳の新卒。セミロングで前髪あり、メイクは薄め。制服の着こなしがどこか幼い。

「澪さん……今日って、あの先生お休みなんですか?」

 小声で、けれど好奇心の混じった目つきで訊いてくる。

「いえ、キャンセルになっただけみたいですよ。お忙しいんでしょうね」

 澪は、まったく表情を変えずに答えた。

 内心の空虚さを、声の温度で埋めることはできない。ただ、それでも“完璧に返す”のが澪の仕事だった。


 午前十時、フロアが一気に慌ただしさを帯びていた。

 電話が鳴る。三本同時に。

 コピー機が唸り、プリンタがうなり、打鍵音が重なる。

 数十名のスタッフの動線が、無言のうちに交錯していく――それが凛嶺法律事務所の日常だ。

 澪はその中心で、静かに書類を確認していた。

 今日も“整っている”。ネイルも、髪も、言葉も。でもその“整えられた感”が逆に、この混沌の中では際立つ。

 そこへ――。

「せ、せんぱーい……!」

 走ってきたのは宇都宮 紗希、入社半年の新人パラリーガル。手に持ったスケジュール表がぶるぶる震えている。

「会議室、かぶっちゃってました……十時に、二組……同じ部屋に……っ」

「……っ、どこのの会議室?」

「第三会議室です……!」

 澪の目がすっと細くなる。

 第三会議室――すでに十時予約が入っていたはず。しかも今は全会議室使用中。社内会議も、クライアント面談も、ぎっしり詰まっていた。

 澪は一度だけ深く息を吸い、顔をあげた。

「わかりました。私が動きます」

 そう言うと、すでに足は動いていた。


 フロアの端にある社内会議中の第八会議室に走り込み、扉をノック。

「失礼します。――今、会議中申し訳ありません。緊急対応で、部屋を一時お譲りいただけないでしょうか」

 数名の社員が振り返る。会議の主導者である庶務リーダーの奥原が頷いた。

「外部のクライアント? だったら、うちが移るよ」

「ありがとうございます。社内会議は、執務室内のAスペースに一時移動していただければ……」

「了解。すぐに片付ける」

 そのやり取りを交わして、澪はすぐに第八会議室の中を素早く整える。椅子の配置、資料の並び、卓上メモ、ウォーターサーバーの紙コップ補充――全部、三分で済ませる。

 その間に、二組のクライアントが別々のエレベーターで同時到着。

 ――そのままでは、同じ部屋に案内されてしまう――。

 澪はスッと二人の職員の間に入った。

 片方の案内係に耳打ちする。

「こちらは第八会議室へお願いします。急遽変更です」

 驚いたような顔をしながらも、職員は頷いて進路を変えた。

 事故、回避。

 混乱なし。クライアントの表情も、曇らない。


 すべてを終えたあと、澪は息ひとつ乱すことなく、受付の前で控えていた紗希に視線を向けた。

 紗希の目には、すでに涙がにじんでいた。

「ご、ごめんなさい……わたし……やっぱり向いてないかも……!」

 小さな声でしゃくりあげながら、今にも崩れそうな表情。

 澪は、笑った。

 “完璧な澪”として、完璧に笑った。

「大丈夫よ。誰でも最初はあるわ。次、同じことが起きたら、もうきっと防げるもの」

 その言葉が、澪自身にも言い聞かせるように聞こえてくる。

 紗希は、何か言おうとして、でも言葉が出てこなくて、ただ何度も頭を下げた。

 澪は「水、飲んで落ち着いてね」とだけ言って、背を向けた。

 ――心の中では、誰かに命令されたいのに。

 ――本当は、指示される側にいたいのに。

 それでも現実では、澪が“命令する側”に立たされている。その事実が、皮膚の内側を少しずつ軋ませていく。


 時計は昼の十二時を少し回ったところだった。

 午前中のバタバタが嘘のように、フロアが一瞬だけ静けさを取り戻す。

 電話のコールも止まり、キーボードの音だけが、わずかに残響する。

 澪は、そっと椅子を引いて立ち上がった。

 二十階の健康志向のカフェ。温室カフェ 〈Green Soi〉で軽く昼食を食べた後、“いつもの時間”だった。

 執務エリアの奥にある小さなコーヒールーム。

 白い壁と簡素なテーブル。コーヒーマシンの蒸気音が、控えめに響く。

 その奥の棚の前で、白いエプロン姿の女性が立っていた。

 年齢は澪よりも少し上、笑顔にいつも余裕のある人。

 佐久間芙美子さくま ふみこ四十代後半。この事務所に来て十一年目の雑務・清掃・総務対応の外部スタッフのリーダーだが、まるで昔からの“職場のお母さん”のように誰からも愛されている。

「来たわね、澪さん」

「……ばれました?」

 佐久間は、くすっと笑って澪に紙ナプキンに包まれた何かを差し出す。

「新作。アールグレイのフィナンシェ。昨日の夜、また焼いちゃったのよ。食べすぎ注意よ?」

「佐久間さんの焼き菓子に“注意”って言われても、もう遅いです……絶対食べます」

 澪はそう言って一口かじる。ふわりと広がる紅茶の香り。優しい甘さが舌に残る。

「どう? 口に合う?」

「合いすぎて怖いです……」

「ふふ。でしょ?」

 二人だけの穏やかな空気が、そこに流れていた。

「……でも、澪さん。疲れてるでしょ?」

 佐久間の声が、少しだけトーンを落とす。

「え?」

「顔には出てないけど……“隙”がない人って、逆に疲れてる証拠だから」

 澪は笑って答える。少し、冗談っぽく。

「隙があったら、誰にも見られなくなりますから」

「――冗談のように聞こえるけど、あんた、それが本音でしょ?」

 言葉が、スッと胸に刺さる。冗談に包んだ本音。本音に見せた冗談。その境目がもう自分でも分からない。

 スマホがポケットで震えた。

 そっと画面を見れば、そこにはただ――

〉差出人:鷲尾 悠太(WASHIO Yuuta)

〉件名:至急

 文字だけの通知が表示されていた。

 心臓が、一瞬だけ跳ねる。

「すみません、佐久間さん。戻ります」

「はいはい。……澪さん、ちゃんと“味わって”生きなさいよ。食べるのも、仕事も、人間関係も」

「はい。努力します」

 フィナンシェの包み紙を胸元に軽く抱え、澪はコーヒールームを出た。

 ドアが閉まり、また淡々としたオフィスの音が戻ってくる。

 けれど、彼女の足取りは、どこか少しだけ軽かった。


          *


 昼休憩が終わる十数分前。

 佐久間からもらったフィナンシェを食べ終え、澪は自席でスマホを確認した。

 1件のメール通知が表示されていた。

〉差出人:鷲尾 悠太(WASHIO Yuuta)

〉件名:至急

 ――心臓が、わずかに跳ねた。

 すぐに画面をタップ。本文は、こうだ。

〈契約書3件、13時までに確認して〉

 たった、それだけ。

 敬語も、挨拶も、文末の丁寧なクッションもない。

 ただ、命令。

「……っ」

 声には出さずに、喉奥でだけ吐息をこぼす。

 ――何、この感じ。

 心の奥の、どこかやわらかい場所が疼いた。


 時刻は十二時四〇分。

 残り二十分しかない。

 この量を見て、二十分でやれと言ってるの? それとも、確認だけでいいって意味?

 ――いや、違う。

 “やれ”って言ってる。

 その無言の圧を、澪は読み取った。迷わず席に深く座り直す。

 鞄から静かに三冊の契約書ファイルを取り出し、目を通しながら、内容を要点化して別紙に記入。

 確認事項、進捗の懸念、クライアントの過去の反応履歴。

 そして、自分が感じた“提案ポイント”を、簡潔に三行ずつでまとめる。

 言葉を削りながら、相手の知的な癖を想像して。

 “余計なことは書かない。でも、見落としてほしくない情報だけは忍ばせる。”

 澪にとって、これは自己表現ではない。

 適切な服従の技術だった。


 十二時五八分。

 ファイルは完成し、澪はPDFとして添付。

 件名は「契約書三件 要点まとめ」とし、簡潔な本文と共に送信。

〉ご指示いただいた三件、要点を添付しております。

〉ご確認のほどよろしくお願いいたします。

〉深川 澪

 指先が、ほんの少し震えていた。

 ……あのメールは、単なる仕事の指示。わかってる。わかってるのに。“命令される”という行為が、あんなにも端的であるという事実。

 あの簡潔すぎる言葉が、どうしようもなく心に残る。


 十三時。

 業務再開のチャイムが鳴る。

 周囲が席に戻り、電話が再び鳴りはじめた。

 澪はちらりとメールを再確認した。

 ――返信は、ない。

 鷲尾からは何の反応もないまま、ただ時間だけが進んでいく。

 だけど、不思議と。

 その“無視された感じ”にすら、胸のどこかが熱を持っているのだった。

 たった一行。

 あの無感情な命令文が、どうしてこんなにも、刺さるのだろう。


 午後の業務が再開して間もなく、社内にバシッという乾いた音が響いた。

 コピー機のエラー音。紙詰まり。

 ――また、だ。

 澪が顔を上げると、宇都宮 紗希の背中が小さく震えていた。

 コピー室の中で、彼女は何度も用紙トレイを出し入れしながら、明らかに焦っていた。

「うそ……また……なんで……っ」

 ほとんど聞き取れないほどの声で、紗希は一人焦っていた。

 澪は立ち上がり、何も言わずにコピー室へ向かう。

「トレイ三ですね」と言いながら、澪は慣れた手つきでカバーを開き、ローラーに挟まった紙を一枚ずつ丁寧に引き抜いた。静かに、正確に――慣れている動作。

「……すみませんっ、本当に……」

 涙ぐんだ声で紗希が言う。

「慌てると、余計うまくいかなくなるんですよね……それ、わかってるのに……」

「うん、わかる。誰でもそう。だから、慌てたときほど深呼吸」

 澪は柔らかく笑った。“澪スマイル”と呼ばれる、絶妙に相手の緊張をほぐす表情。

「澪さんって、なんでそんなに落ち着いていられるんですか……?」

 澪は少しだけ目を伏せて、ローラーに指を添えながら言った。

「慣れてるから、かも。そういうの全部、私も最初はやってたし」

 嘘ではない。でも、本当でもない。

 澪が「最初に失敗してた頃」なんて、もう思い出せないくらいに昔だった。

「私……澪さんみたいになりたいです」

 拭っても拭っても止まらない涙を必死で押さえようとしながら、紗希がそう呟いた。

「いつもちゃんとしてて、誰に対しても優しくて、頼りになって……私、ほんとに、憧れてます」

「ありがとう」

 澪はまた笑った。

 誰かに尊敬されることは、悪いことじゃない。

 でも、心の奥にむず痒さが残った。

 ――憧れられるって、重たい。

 完璧な“外側”を、誰かが理想としてくれるたびに、その理想を壊しちゃいけないっていうプレッシャーが積もっていく。“ちゃんとしてる私”を演じることに、もう何年も慣れすぎてしまった。

 執務室に戻ると、また電話の音が鳴り響いていた。短く鋭いベルの連なり。誰かが取って、謝って、情報を繋いで、また切る。無数のやりとりが、パズルのように次々と処理されていく。

 澪も、席に戻ると自然と電話を手に取った。口調は丁寧、語尾ははっきり、抑揚は穏やか――完全に“会社用の声”。脳は、自動操縦。

 だけど――

 さっきのたった一行のメールが、まだ頭から離れなかった。


          *


 その夜、澪はソファの上に座っていた。

 スーツを脱いで、部屋着に着替え、髪を緩くまとめ、湯を沸かす。

 今日は一日中ハイテンションな事務所だった。

 新人のトラブル、会議室のバッティング、コピー機、午後の電話ラッシュ。

 休憩もまともに取れず、ようやく家で一息ついたというのに――

 スマホが、小さく震えた。

 西園 遼――通知の名前を見ただけで、息が詰まる。

 LINEには、こう書いてあった。

〈今日もお疲れさま(笑顔)ちゃんとごはん食べた?無理しちゃだめだよ〉

 澪は、思わずため息を吐いた。

 画面の絵文字が、目に優しすぎてまぶしい。

 西園遼さいぞの りょう、三十九歳。

 大学時代からの長いつきあいで、付き合ったことは一度もないけれど、「もう家族みたいなもんだよね」と、互いに冗談めかして言い合えるような関係だった。

 ――でも、最近は少し違う。彼氏ぶられるのが、正直、しんどい。

 ため息ひとつ。画面を開いて、返信を打つ。

〈ありがとう、遼くんもね。ちゃんと休んでね(笑顔)〉

 送ってすぐにスマホを伏せた。

 “定型文”。

 優しさを受け取ったフリをして、なかったことにする手口。

 彼が悪いわけじゃない。

 本当に優しい人だ。誠実で、思いやりもある。

 でも――

「なんでこんなに、しんどいんだろうね……」

 澪は独り言のように呟いた。

 湯が沸いた音がして、ポットがカチッと音を立てた。

 “優しさ”が、澪の身体には合わない。

 ぬるま湯のように、心を包んでくるその言葉たちが、むしろ澪には「無視されている」ように感じられた。

 もっと命令してほしい。

 もっと理不尽で、冷たくて、容赦のない言葉で揺さぶってほしい。――鷲尾先生の、あのメールみたいに。

 西園遼は、きっと澪を心配している。

 でも、それは“観察”による心配じゃない。彼の中の“澪像”が疲れているだろうと、予測しているだけ。

 そこに、澪本人はいない。

 だから、優しい言葉が届かない。

 心が、拒んでしまう。

 紅茶にハチミツを少しだけ落とし、マグカップを抱えてソファに戻る。

 TVをつける。ニュース。芸能。トレンド。

 どれも、音として流れているだけ。

 画面の中に、自分を必要としてくれる人はいない。

 スマホがまた震える。

 西園遼(未読二)

 ――もう、開かない。

 無視することへの罪悪感と、

 開いて返すことへのしんどさが、澪の中でせめぎ合っている。

「……私、ほんとに、誰かに愛されたいんだっけ?」

 そんな疑問が、ふと浮かぶ。

 でも、それは少し違う。「愛されたい」より「従いたい」

 自分を見て、指示して、命令してくれる誰かが欲しいだけ。

 テレビの音が、ぼんやりと耳を通り過ぎる。

 マグカップの底に、まだ少しだけ残った紅茶。もう一口飲むか、それともこのまま捨てるか。その判断すら、澪にはどうでもよかった。

 ――心が空っぽだった。

 何かで満たされたいのに、満たされない。

 やさしさじゃ、埋まらない。


 夜の二十二時すぎ。

 澪は洗面台の前で、ゆっくりと化粧水を手に取り、丁寧に肌にのばしていた。

 保湿クリーム、目元美容液、ヘアオイル――すべてルーティン。

 誰にも見せる予定のない夜でも、完璧であることは義務のようにこびりついていた。

 化粧水の最後のパッティングが終わったタイミングで、スマホが鳴った。

 ――友香(ビデオ通話)

「……ん、出るか」

 軽くため息を吐いてから、澪はカメラをオンにして応答した。

 画面には、パジャマ姿でソファに寝転がっている佐野 友香(さの・ゆか)高校時代からの親友が現れた。

 すっぴんで髪もくしゃっと乱れている。

 手にはポテトチップスの袋、隣では彼氏らしき男の声がゲーム実況をしていた。

「おー、澪〜! 生きてた?」

「なんとか。そっちは?」

「ぼちぼち。てか、顔つきキリッとしすぎじゃない? 仕事終わってんのに」

「……クセなんだよね、もう。整えてないと、落ち着かなくて」

 澪は肩をすくめた。

 ほんのわずかに笑顔を浮かべながら。

「ねえ、澪ってさ……」

 ポテトを口に運びながら、友香がぽつりと言った。

「頑張りすぎじゃん?」

「……頑張らないと、居場所なくなるから」

 その言葉は、少しの間を置いて落ちた。

 画面の中の友香が一瞬だけ黙った。

「そっか。でもさ、誰もそんなに澪に“居場所ないよ”って言ってないと思うんだけどなあ」

「言われないからこそ、怖いのよ」

 沈黙。

 ソファの向こうで、友香の彼氏がゲームに勝ったらしく「っしゃあ!」と叫んだ。

 その声が、あまりに無防備で、生活感に満ちていて――澪の部屋とは真逆だった。

「ねえ友香、彼氏ってどう?」

「え、唐突(笑) なに、恋バナ?」

「いや、なんていうか……友香も“命令されたい”タイプだと思ってたから」

「はぁ!? それどんな偏見(笑)」

「だって、昔そういうこと言ってたじゃん。『甘やかされるより、ちょっと命令されたい』って」

 友香はしばらく考えてから、眉を寄せて言った。

「……ああ、あったかも。でもさ、いまの彼ってゆるいじゃん? 全然命令してこないし」

「うん。なのに、なんで一緒にいられるの?」

 その問いに、友香はちょっとだけ真顔になった。

「んー……多分ね。命令されたいんじゃなくて、“見ててほしい”んだと思う。私がダメでも、アホでも、そこにいることをちゃんと見ててくれる人がいいの」

「……」

「澪ってさ、“ちゃんとしなきゃ見てもらえない”って思ってるっぽいけど、私からすれば、澪ってだけで十分なのよ」

 胸の奥が、じんわりとあたたかくなったような、でもそれが痛みにも似ていた。

 ――「澪ってだけで十分」

 たぶん、そんな風に言ってくれるのは、この世で友香だけだった。

 澪は一瞬だけ、画面の向こうの友香に何かを伝えかけた。

 でも、口を開く前に――

 スマホに新着メール通知が表示された。

〉差出人:鷲尾 悠太(WASHIO Yuuta)

〉件名:【至急】今夜中に確認して(契約関連)

 澪は一瞬で表情を変えた。

「……ごめん、友香。メール来ちゃった、鷲尾先生から」

「うわ、夜なのに!? ブラックすぎん?(笑)」

「ううん、大丈夫。……ごめんね、また後でかけるね」

「うん、頑張りすぎんなよー。ポテチ送ろか?」

「いらない(笑) おやすみ」

 通話を切ったあと、澪は一度大きく息を吐いた。

 親友と話して、少しだけ仮面が取れたはずだった。

 だけど、“至急”という命令に、身体の奥がまたザワつく。

 メールを開く指先が、少し震えていた。


          *


 二十二時三〇分

 メールを確認してみる。

〉差出人:鷲尾 悠太(WASHIO Yuuta)

〉件名:【至急】今夜中に確認して(契約関連)

〉本文:報告、要点だけでいいです。

 乱暴ではない。けれど、丁寧でもない。

 事務的で、直線的で、まるで“思考”の断片をそのまま叩きつけたような文体。

 それが、この人らしい――

 そう思いながら、澪はデスク横のノートをパラリとめくり、必要な数値や概要のメモを確認する。手早く内容を要約し、ほんの数行に収めて返信した。

〉明日十三時の面談内容(要点三点)

〉クライアント側の希望整理済み/次回までに法的論点を三案用意予定

〉詳細は別紙添付(PDF)

〉――深川 澪

 “至急”という圧に抗わず、必要以上の丁寧語も使わず、最小限の敬意を織り交ぜる――それが澪なりの“対・鷲尾悠太”用ビジネス文章の書き方だった。

 返信を送信してから、ふと、心が引っかかった。

(……このメール、あの人はどんな顔で読んでるんだろう)

 眉間にしわ寄せてる? それとも無表情のまま画面だけ見てる?

 もしかして、思ったよりちゃんと読んでくれてる……?

 いや、それは考えすぎ。

 あの人は、必要な情報だけを受け取れればそれでいいはず。

(でも――“わからない”って、こんなにも気になるんだ)

 プライベートはおろか、会ったことのない鷲尾。

 彼は職場にすら来ずメールのみで指示をしてる。

 澪は仕事は正確に。笑顔はほどほどに。ミスはゼロで、私情もゼロ。

 この職場では、自分の感情も、弱さも、すべてを後ろに引っ込めて働いてきた。

 ――けれど、それでも。「ここしか、居場所がない」と思ってしまっている自分がいる。

 職場で素を見せられない。

 だけど、その“仮面”のまましか、生きていけない。

 ふと、モニターに映る自分の顔が、ほんの一瞬だけ、空っぽに見えた。

 そしてスマホを手に取る。

 画面には、いくつかの通知が浮かんでいたが、無言で消していく。

 SNSアプリを開く。

 澪は、投稿ボタンを一度タップして、すぐにやめた。「今夜も、きちんと終わった」と打ちかけた文字列を、削除して、保存する。

 そこにはすでに、何十件もの“下書き投稿”があった。

 どれも一行、あるいは二行の短い言葉たち。

〈今日、疲れた。誰か褒めて〉〈ちょっとだけ、泣きたい〉〈誰も見てないのに、なんで頑張ってるんだろう〉〈きちんとしていれば、誰かに見つけてもらえると思ってたのに〉

 画面をスクロールするたびに、自分の“弱音”が列を成して沈んでいく。

 でも、そのどれもが「公開」されたことはなかった。

(きちんとしていれば、誰かに見つけてもらえると思ってたのに)

 澪は、無言で画面を閉じた。

 投稿しなかった弱い自分。

 それすらも、誰かに見せる勇気は持っていない。

 ベッドに入る前、枕の位置を整えて、電気を落とす。

 部屋が暗くなった瞬間、スマホのスリープボタンを押して、完全に光を断つ。

 “きちんとした夜”が、静かに幕を閉じる。


 深夜〇時を少し過ぎた頃。

 ベッドに入っても、澪の意識は浮遊していた。

 うまく眠れないとき、彼女はよくスマホの通知履歴を見返す。

 無意味なスクロール。けれど、それは“何か”を探す行為でもあった。

(……あった)

 受信ボックスに、鷲尾からの新しいメールが届いていた。

 送信時刻は二十三時四八分。たった数行の、そして容赦ない言葉。

〉差出人:鷲尾 悠太(WASHIO Yuuta)

〉件名:明朝までに

〉本文:資料まとめて。各論点ごとに分類、構成案も添えて。

 その文面には、語りかけも、労いも、情緒もなかった。

 ただ「やれ」と命じているだけの言葉。

 でも――その無味乾燥な命令が、どうしてこんなにも心に残るのか。

(丁寧でも、優しくもないのに……)

 なのに、その“命令”が、脳内のどこかに焼き付いて離れなかった。

 文字の形、句読点の位置、送信時刻さえ、澪の思考の中で何度も反芻される。

 心の奥に、一瞬だけ、こんな幻想がよぎる。

 ――たぶん、先生はプライベートでもこんなふうに、きっちりしてるんだろうな。

 ――無駄がなくて、無理もなくて、理詰めで、自分にも厳しくて。

 ――でも、そんな人に「お前ならできる」って言われたら、どこまでも頑張れるのかもしれない。

 ……でも。

 現実にはそんな場面は一度もないし、これからも起きない。

 澪が妄想した“優しい命令”は、どこにも存在しない。

 鷲尾の命令は、ただの業務指示。

 そのメールを送ったあと、彼はきっとすぐ別の仕事に取り掛かったはずで、澪の感情なんて一ミリも想像していない。

 けれど、なぜか心はざわつく。

 “命令された”というその一点だけで、どこか“特別な存在”になれたような気がしてしまう。

(……私は、なんでこんなに期待してるんだろう)

 澪はもう一度、メールを読み返した。

 そして、静かにノートパソコンを開き、黙々と作業を始めた。

 頑張れば褒められるかもしれない――

 いや、褒められないとしても、“必要とされる”だけで、今はそれでいい。

「やれ」と命じられることに、どこか“安心”を感じてしまう自分がいる。

 これは依存か、それとも自己欺瞞か。

 わからないまま、澪の手は資料のファイルに伸びていた。


 午前一時二〇分。

 すべての作業を終えた澪は、静かにノートパソコンを閉じた。

 鷲尾からの命令メールに応じて、論点ごとに分類した資料を整え、構成案まで仕上げ、送信済みフォルダへと格納されていた。

 完璧。

 ひとつも手を抜いていない。

 明日の朝に、この仕事が「助かりました」と言われる可能性は、限りなく低い。

 けれど、「それでいい」と思えるのが澪だった。

 照明を落とし、やわらかなベッドに体を沈める。

 でも、心はふわりと浮かんだままだった。

(通知、来てない……)

 スマホの画面には、誰からのLINEも、SNSの“いいね”も、DMもなかった。

 澪はスマホを裏返し、テーブルの上に置く。

 もう見なくていい、そう思いながら。

 天井を見上げながら、思考がぽつりとこぼれた。

(完璧な私には、誰も寄ってこない――)

 頑張れば認められる。

 ちゃんとすれば、誰かに見つけてもらえる。

 そう信じて生きてきた。

 誰よりも、丁寧に、清潔に、美しく、穏やかに振る舞ってきた。

 でも、その“完璧”は誰も寄せつけない。

 むしろ、人を遠ざけてしまっているのかもしれない。

 “素”を出さない私。

 弱音も吐かない私。

 だから、誰も踏み込んでこない。

(でも、“命令してくれる人”なら……)

 勝手な妄想だとわかっている。

 でも、あの人は――鷲尾は、“完璧な私”にも容赦なく指示を出してくる。

 淡々と、余計な感情を挟まず、ただ「やれ」と言ってくれる。

 それが、なぜか救いだった。

 澪は目を閉じながら、ゆっくりと口を開いた。

「……鷲尾先生」

 名前を、口の中で転がすように、ひとり言のように呟く。

 その響きに、微かな笑みがこぼれた。

(意味なんて、ないのにね……)

 そして、朝が来る。

 また“完璧な私”を装う一日が、始まる。

 それでも澪は、目を閉じる。

 鷲尾の無表情な指示の残響を、心のどこかで心地よく抱いたまま。


          *


 火曜日の朝。

 凛嶺法律事務所が入る高層ビルのエントランスは、いつも通り清潔で静かだった。

 コーヒー片手のサラリーマン、資料を抱えた弁護士、スマホを見ながら歩くOL――澪はその誰よりも早く、真っ直ぐにエレベーターホールへと向かった。

 深呼吸ひとつ。

 澪は胸をそっとなで下ろして、鏡のようなエレベーターの扉に映る自分に、微かに微笑んだ。

 ――完璧な私、起動。

 扉が開き、三十二階。

 凛嶺法律事務所のフロアはまだ静かだった。

 淡いベージュとダークグレーで統一された空間に、朝の光が斜めに差し込んでいる。

 自席に着いてすぐ、パソコンを立ち上げ、受信メールを確認する。

〉差出人:鷲尾 悠太(WASHIO Yuuta)

〉件名:「資料整理の件」

〉本文:午後の打合せ、過去案件の資料を時系列で、添付の整理表を使用した構成。

 それだけ。

「……また、メールだけか」

 内線のひとつも鳴らさず、事務所内にいる相手にさえ、鷲尾は“声”を使わない。

 そもそも事務所に出社してるかも分からない。見たこともない。

 冷たい、と言うべきか。淡々としている、と言うべきか。

 けれど澪はその「声なき命令」に、なぜか少しだけ心がざわめいた。

(昨日の資料、ちゃんと届いてたんだ……)

(返信はないけど、これって一応――信頼されてるってこと?)

 ふと、背後から声がかかる。

「またメールだけだったんですか?」

 振り返ると、新人パラリーガルの紗希が小声で訊いてきた。

 くすくすと笑いながら、「先生ってちょっと変わってますよね〜」と続ける。

「でも、仕事はできる方ですよ」

 澪はつい、反射的にそう答えていた。

 それが本心なのか、それともただの擁護なのか、自分でもよくわからなかった。

 ――でも、「メールだけ」で済まされることに、ほんの少しだけ、特別感を覚えてしまう。

(……ばかみたい)

 自分で思う。

 なのに、指示がある。それだけで、また今日も“動ける”。

 書類をまとめながら、ミオは誰にも聞こえない声で小さく呟く。

「……了解しました、鷲尾先生」

 誰にも見せないその笑みは、淡く、けれど確かに、

 命令に対する“ときめき”の形をしていた。


 午前十時。

 凛嶺法律事務所のフロアはすでに慌ただしさを帯び始めていた。

 プリンターの駆動音、コピー用紙を抱えたアシスタントの足音、内線のコール音。

 だがその中で、澪はまるで機械のように静かに、正確に動いていた。

(契約書、昨日のバージョンと照合。修正入ってない……)

(顧客管理システム、更新済み……)

 椅子の背にしなやかに背筋を伸ばしたまま、無駄な動きひとつなく、彼女の指はキーボードの上を滑るように走った。

 人差し指、中指、薬指。

 正確な配列でキーを叩きながら、澪の意識は“無”に近い。

 ――仕事に没入することで、自分の輪郭を保っている。

「……はい、凛嶺法律事務所でございます。ええ、担当の者に確認いたしますので、少々お待ちください」

 顧客へのフォローコールも、声色も、抑揚も、完璧。

 表情一つ崩さずに電話を終えると、ふと肩に何かが置かれた。

「昨日の新作カヌレ、あるわよ」

 低くて、少しだけ掠れた優しい声。

 振り向くと、佐久間芙美子がコーヒーと小さな焼き菓子をそっと置いていた。

「ありがとうございます」

 言った言葉が、温度を持った笑みに変わった。

(……ああ、こういうの、沁みるな)

 誰も気づかないような小さな心配り。

 澪が唯一、心を緩められる相手。

 だが、それは一瞬だった。

「澪さんって、なんでそんなにちゃんとしてるんですか?」

 声をかけてきたのは、若手の岸本 梢(きしもと こずえ)

だった。岸本 梢、二十三歳、一浪した専門卒の契約パラリーガル。ポニーテールで大きめのメガネ。ネイルなどは一切なし、書類は無音で処理する。優秀タイプ。

 つぶらな目をきらきらと輝かせ、まるで「答えを教えてください」というような純粋な表情で見上げてくる。

 一瞬、澪は言葉を失った。

(なんで……?)

 ちゃんとしてないと、壊れてしまうから……。

 その言葉が喉の奥まで来て、すんでのところで笑みに変える。

「……性格、ですかね」

 そう言って肩をすくめる自分に、澪は小さく嫌気が差す。

 本当のことなんて、言えるわけがない。

 ランチタイム。

 いつものビル二十階のカフェ。

 予約席のように、澪のために空いている窓際の小さなテーブル。

 サラダとスープ、ホットコーヒー。

 誰とも話さず、スマホの画面をぼんやりと眺める。

(……通知、なし)

 鷲尾の名前が表示されていないことに、なぜかほっとする。

 けれど同時に、心の奥がわずかにきしんだ。

 安堵と物足りなさ。

 矛盾したふたつの感情が、胸の中で押し合い、引き合い、音もなく混ざっていく。


 午後二時を少し過ぎたころ。

 資料作業の区切りがつき、澪は一息ついていた。

 スケジュール管理ソフトを閉じ、ブラウザを切り替えると、ピロン、と通知音が鳴る。

〉差出人:鷲尾

〉件名:午後のアポイント資料の件、確認願い

 澪は、指を止めた。

 視線は一見冷静だが、心がゆっくりと“反応”していくのを、彼女自身が誰よりもよく知っていた。

 本文は相変わらずの無機質な文体。

〉本文:資料を確認、修正依頼。レジュメは15時までに提出

 短くて、的確で、温度がない。

 何の感情も交えない、命令としては完璧な文体。

 でも。

(……タイミング、良すぎ)

 まるで、澪の作業が一区切りつくのを知っていたかのような、ぴたりとした着信時間。

 偶然だと分かっていても、心のどこかがざわつく。

 澪はフォルダを開き、過去の鷲尾からのメールを無意識に辿っていた。

 件名、本文、タイミング、絵文字の有無、語尾の癖。

 ――ない。

 そこに「感情」や「意図」など探す余地はない。

(……それでも、私、見てる)

 資料整理のメール。

 納期確認のメール。

 「至急」「依頼」「確認」――どれも命令の連打。

 でも、彼の“命令”は、澪にとってどこか“承認”のように感じられてしまう。

(ちゃんと、使われている)

(私の能力を、必要としている)

 勝手に、そんな風に思ってしまう。

 それがどれほど危うい感情か、自分でも分かっている。

(だめだよ、澪。これはただの仕事……ただの指示……)

 けれどその“命令”が自分にだけ届いたような錯覚に陥る自分が、どうしようもなく哀しく、愛しかった。

「……やだ、何考えてるの、私……」

 ひとりごとのように、苦笑して小さくつぶやく。

 でも、心のどこかでは、こうも思っていた。

 ――感情を向けても、向こうはただの「業務対象」としか見ていない。

 そのことが、いちばん辛い。


 定時を過ぎた十九時過ぎ。

 澪はいつも通りの時間に退社した。

 自分の業務には一切の抜け漏れがない。完璧だった。

 ――でも、今日は鷲尾からの「終業後のメール」はなかった。

(……まあ、そんなもんか)

 スーツの襟元を直しながら、オフィスビルを出たその瞬間、スマホが震えた。

 LINEの通知。

 ――西園 遼。

〈今日もおつかれさま。ちゃんと食べた?澪は無理しちゃうから、心配なんだよね。〉

 ふ、とため息のような息が漏れる。

「……優しいなぁ、遼くんは」

 画面を見つめながら、呟く声は温かくも冷たくもない。

 ただ、乾いていた。

 優しい。嫌じゃない。

 でも、その言葉のすべてが、今の澪には「正解」じゃなかった。

(……違う、今ほしいのは、そういう優しさじゃない)


 帰宅後のルーティンには、無駄がない。

 澪は玄関で靴を揃え、上着をハンガーに掛け、洗面台へ直行した。

 メイクを落とす手の動きも、スキンケアの順番も、指先の力加減も――まるでマニュアルがあるかのように、無駄のない動作で淡々とこなしていく。

 白い洗面ボウルの中に、今日の自分が流れ落ちていく。

 ベースメイク、口紅、マスカラ。

 “完璧な職場の澪”が、静かに洗い流されていく音はしない。

 寝室に移動し、ベッドのシーツを整える。

 数センチのズレも許さないように、掛け布団の角を軽く引っ張る。

 整えるというより、儀式のようだった。

 そして最後に、スマホを手に取る。

 画面には、いくつかの通知が浮かんでいたが、無言で消していく。

 SNSアプリを開く。

 タイムラインには、誰かの幸せそうな笑顔、ペットの写真、ランチの写真、リア充たちのコメントの応酬が並んでいる。

そういったものを眺めてから夕飯を済ませ、そして、澪は長めに湯を張ったバスタブに身体を沈めた。

 じわじわと熱が皮膚を包み、ようやく体の緊張がほぐれていく。

 スマホを持ち込み、ぼんやりとSNSを開く。

 流れてくるのは、美しく着飾った人たちの“完璧な”投稿ばかり。

 映える部屋、美肌フィルター、理想のライフスタイル。

(……今日も、誰にも見つからなかった)

 澪は、誰かの投稿に「いいね」だけをそっと押す。

 コメントは書かない。書けない。

 それが、自分の“立ち位置”だと知っているから。

 画面を閉じるとき、ふと自分の指先がほんのわずかに震えていることに気づいた。

 ――それは、冷えではない。

 “期待”という名前の熱。

 知らず知らずのうちに、心の中に棲みつきはじめた小さな炎。

 自分でも気づかぬうちに、鷲尾のメールを、言葉を、そして“沈黙”さえも待ってしまっている。

(やだ……私、何してるの)

 声にならない声で、自分をたしなめる。

 優しさが、重い。

 命令のない夜が、空っぽすぎる。

 そして、自分の中に生まれた「欲」が、いちばん怖い。

 ――“完璧な私”でいるためには、そんな感情、必要ないはずだったのに。



賞に応募中の長編小説(約10万文字小説)なため少しづつ公開中、この続きは、第20回 小説現代長編新人賞(講談社)一次選考10月号にて結果発表、 発表……2026年3月号に掲載されるので、受賞作と選考経過を発表 のあと、載せるか決まります。

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存在バグな私 -sns時代にひっそりと生きてる心の中の自分- 夜白(やしろ)ゆき @yuki_no_yoru

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