時輪の記 第1話「雪の果てで」―2025年から明治へ、青年の旅立ち―

@Shinji2025

第1話

2025年、北海道出身の青年・新仁(しんじ)はAI企業の共同創業者として夢を掴んだ——はずだった。

だが仲間の裏切りで全財産と信用を失い、借金だけが残る。

家族にまで重荷を背負わせた自責の果てに、高層ビルから飛び降りた彼が目を覚ましたのは、雪に覆われた明治初期の札幌だった。


祖父の形見の懐中時計と、未来の知識を胸に。

新仁は、歴史の大きな流れは変えられないという制約の中で、小さな人々の運命を変えていく——。


【本文】

僕の名前は 北条 新仁(しんじ)。

北海道の、海と山の間に挟まれた小さな町で育った。冬は長く、雪は深く、気温は氷点下が当たり前。朝起きると家の窓は白く曇り、外へ出ると頬がきゅっと縮む。学校までの道のりは、膝まで積もった雪に足を取られ、息をするたび肺が冷える。けれど、あの冷たさは嫌いじゃなかった。静けさの中で音が澄み、遠くの除雪車のエンジン音さえ、生活を支える心強い鼓動に聞こえた。

家は裕福ではなかった。母は小さな店を切り盛りし、祖父と僕と妹の三人を支えてくれた。祖父は病を抱えながらも、いつも穏やかな目で僕を見ていた。囲炉裏の前で薪が弾ける音を聞きながら、祖父は決まって五つの文字を指に書いてみせる——仁・義・礼・智・信。

「新しく“仁”を求め、育てよ。それがお前の名、新仁に込めた願いだ」

祖父の声は低く、雪を踏む長靴のように確かな重さがあった。仁は人を思いやること。義は筋を通すこと。礼は秩序を守ること。智はものごとの道理を見通すこと。そして信は嘘をつかないこと。どれも当たり前のようで、守るのは難しい。だからこそ毎晩のように繰り返し、僕の中に沈めていくのだと祖父は笑った。

僕は勉強が好きだった。と言うより、好きにならざるを得なかった。町から見上げる空は広いが、選べる道はそう多くない。奨学金を得て、東京の大学へ進む道だけが、遠くへつながっている気がした。高校を卒業した春、祖父は僕の背中をぽんと押して言った。

「新仁。学びは寒さをしのぐ火種だ。火は人にも分けられる」

東京は人が多く、ネオンがまぶしかった。地下鉄のホームで肩がぶつかっても誰も振り返らない。僕は見知らぬ群衆の一人になり、ただ必死に前へ歩いた。大学ではAIを学んだ。夜通しコードを書き、重いデータを回し、失敗してはやり直した。アルバイトでつないだ睡眠時間は短かったが、研究室の蛍光灯の下でカップ麺をすする味が、ときどき遠い雪の匂いを連れてきて、胸が少しだけ温かくなった。

同じように眠そうな目をした仲間がいた。論文を読み合い、ディスプレイの前で議論し、深夜のコンビニで肉まんを分け合った。卒業前、僕たちは会社を作った。四人の共同創業。狭いシェアオフィスの机の上には、古いディスプレイとルータ、レンタルの観葉植物。資金は乏しかったが、志は大きかった。僕たちのAIは、人の意思決定を支えるためにある。人を置き換えるのではなく、人に“仁”を返すためにある——そんな理想を口にしても笑わない仲間がいることが、当時の僕には何よりの力だった。

プロダクトは少しずつ受け入れられ、大手の物流企業が最初の大口導入を決めた。そこからは坂を転がるように、取引先が増えた。現場の声を聞き、仕様を変え、また現場へ戻る日々。徹夜明けに見た春の朝焼けは、故郷の雪原の色を思い出させた。僕は胸ポケットに、祖父の懐中時計を入れていた。文字盤の外周に控えめな菊の文様。時間は誰に対しても公平だと祖父は言っていた。ならば、僕は時間の使い方で勝とう。そんな単純な自負が、たしかに体を動かしていた。

上場が決まったとき、僕は祖父の仏前に花を手向けた。小さな仏間に、春の光が差していた。

「じいちゃん、僕はようやく、仁を持って世に立てるかもしれない」

鐘を打つ日、東京証券取引所のフロアは、フラッシュの光で白く瞬いた。共同創業者の一人が僕の肩を叩く。「行け」。僕は木槌を振り下ろし、一度だけ、心臓の奥まで響く音を鳴らした。拍手。握手。記者たちのマイクが差し出され、「今後の目標は」と問われる。僕は緊張を飲み込み、ゆっくりと言葉を選んだ。

「AIで、社会全体の調和と幸福を支えること。それが僕たちの志です」

誰かが「綺麗事だ」と笑ったかもしれない。けれど、僕には綺麗事でいいと思えた。綺麗事は、持ち続けるのが一番難しいからだ。

——崩落は、静かに、しかし容赦なく始まった。

半年後、取締役会議室のスクリーンに、赤い矢印が並んだ。海外口座への不自然な送金。監査役の声は乾いていて、読み上げる数字に感情の起伏はない。視線は自然と、別の共同創業者へ向かった。彼は目を伏せ、唇を噛んでいた。僕は信じたかった。信じたい気持ちは、現実から目を逸らすとき最も強くなる。

翌日、株価は下へ下へと穴を掘るように落ちていった。記者会見ではライトが熱く、汗が額を流れた。僕は「真摯に調査し、社会への責任を——」と言いかけ、途中で遮られた。「あなたは関与していたのですか」。言葉が喉でつかえる。あの瞬間ほど、自分の声が遠くに感じられたことはない。

退社の夜、段ボールに私物を詰めた。メモ帳、ボールペン、試作品の基板、そして家族で雪の畑に立つ古い写真。胸ポケットから取り出した懐中時計を、そっと箱の隅へ滑り込ませる。金属の冷たさが、いっそ救いだった。裸電球の下、アパートの机には督促状が並ぶ。奨学金、起業融資、個人保証。銀行アプリは無言の「口座凍結」。スマホの連絡先に並ぶ「母」の文字。親指が発信アイコンに触れて離れ、触れては離れた。

迷惑はかけたくない。礼と信は、そんなときほど重い。

風の強い夜だった。高層ビルの屋上は、街の灯りを足元に集めている。僕は手すりに手を置き、深呼吸をした。遠くの高速道路を走る車の光が、規則正しく流れていく。胸ポケットから懐中時計を取り出す。菊の細工は、祖父の皺だらけの指先を思い出させる。

「ごめん、じいちゃん」

足が宙に離れる。落下は思ったより静かで、風の音が耳の奥に薄く伸びた。スローモーションの中、懐中時計がポケットから滑り出て、空中で回転する。ひび割れたガラス越しに針が逆回転を始め、光が爆ぜた。視界は白で満たされ、重力の向きがわからなくなる。僕は何かに包まれ、どこかへ運ばれていく——そんな感覚に身を委ねた。

——寒い。

白は雪だった。冷たい結晶が頬に触れ、体温を奪っていく。口元から白い息が漏れ、肺が驚いて咳をした。目を開けると、広い空に薄い雲がかかり、遠くに木造の家並みが見える。屋根の上には分厚い雪。煙突からは灰色の煙がまっすぐ上がり、風にちぎれて消える。

(ここは……どこだ?)

立ち上がると膝が笑い、足元の雪がぎゅっ、と小さく鳴いた。通りへ出ると、厚手の和服に外套を羽織った人々が忙しなく行き交い、馬そりが荷を運んでいる。雪で濡れた木の匂い、味噌と魚の混じった煮炊きの匂い、煤の匂い。看板の文字は筆致が整い、瓦版の売り声が遠くで響く。電線はない。自動車はない。聞き慣れた電子音は、世界から完全に消えた。

「坊や、顔が真っ青じゃ」

突然、近くの老人が声をかけてきた。背中は丸いが目ははっきりしている。

「すみません……ここは、どこですか」

「どこって、札幌さ。開拓使のお膝元よ」

札幌。開拓使。耳の奥で、古い教科書のページがぱらぱらと捲れる音がした。北海道開拓の主役。明治初期。僕は喉の奥が乾くのを感じた。死んだはずの僕は、知らない時代の真ん中に立っている。冷たい風が頬を切り、痛みが現実を刻印していく。

(死後の世界じゃない。ここは……明治だ)

ふらつく足で歩き出した。手袋がなく、指先が赤くなって痺れている。足は冷えて感覚が薄く、靴底から湿り気が上がってくる。角を曲がると、広場の向こうで人だかりができていた。雪をかぶった木造の庁舎の前で、数人の男たちが何かを運び出している。怒鳴り声と笑い声が交じって、やけに粗雑な響き。僕はそこへ近寄る勇気が出ず、逆方向の路地へ逃げ込んだ。

「——助けてください!」

澄んだ声が背中を撃った。振り向けば、薄紅の着物に黒いショールを巻いた若い女性が、雪を蹴ってこちらへ走ってくる。頬は寒さで赤く、瞳は真剣にまっすぐだ。誰かを探すように辺りを見回し、僕を見つけると一瞬ためらい、しかし意を決したように駆け寄ってきた。

「あなた、開拓使の方じゃ……ありませんね」

唐突な言い方に戸惑い、僕はただ首を横に振る。

「僕は……違います。道に迷ってしまって」

女性は小さく息を整え、深く頭を下げた。

「突然すみません。私、和子と申します。兄が濡れ衣を着せられて、このままだと——」

声は震えていない。焦りはあるのに、言葉はきちんと整っている。育ちが良いのかもしれない。けれど、その瞳の奥に張り詰めたものが見えた。助けを乞うというより、状況を正確に伝えて理解を求める人の目。僕は胸のどこかがじん、と温かくなるのを感じた。見知らぬ時代、見知らぬ町、見知らぬ人。けれど、この切実さだけは見過ごせない。

「……よかったら、事情を聞かせてください。僕にできることがあるなら、力になりたい」

言葉が口から出た瞬間、胸ポケットの懐中時計が、微かに音を立てた気がした。針は静かに時を刻んでいる。祖父の声が、雪の底からゆっくりと浮かび上がる。

——新しい“仁”を求めよ。

和子は安堵とも緊張ともつかない表情で、こくりと頷いた。雪は細かく、静かに降り続いている。遠くで馬そりが鈴を鳴らし、庁舎の方角からはまだ人々のざわめきが風に乗って運ばれてきた。僕たちは並んで歩き出す。彼女がどこへ僕を連れていくのか、その先に何が待っているのか、まだ何ひとつわからない。けれど、わからないままでいいと思えた。祖父の懐中時計は胸の中で重く、確かな温度を持っている。

この出会いが、僕の最初の「小さな歴史を変える一歩」になることを、僕はまだ知らなかった。

——第2話につづく。



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