連星の軌跡

咲林檎

さようなら、初めまして

 ─────夢を見た。

 いつもの、分厚い幕が視界を塞ぐような悪夢の向こう側に、一筋の光が灯った。

 それは、とても細くて小さい、砂粒の様な弱い輝きだった。


 ─────もういいよ。


 無理しなくていい。魂を削ってまで、俺の悪夢を照らさなくていい。そう、光に向かって話しかけた。

 太陽のように暖かいわけでもなく、月のように狂気に侵されていく感覚もない。ここから離れすぎていて、光源そのものの力が働かないのだろう。

 懇願しても、光は同じ場所から、俺を照らし続けている。……もう、その力は届かないのに。

 ふと、その光がカタチを変えた。

 放つ輝きは変わらないが、ただの光だったモノは、小さな生物とそっくりに変化していく。

 それは小さくて、愛らしい、愚かな駒鳥だった。


 ──────幸せの、青い鳥。


 眩しくて細部は分からないが、直感が光のカタチを駒鳥だと理解した。

 ………それ故に、納得出来なかった。


 どうして、今更、俺を導こうとする…?


 その問いは、現実への浮上と共に薄れてゆく視界で、段々とぼやけていく。


 ──────それが、『彼女』との最初で最後の、逢瀬だった。


 何でもない、年末が近い雪の日。

 俺はその日、やがて来る運命との永遠の別れを識った。








 西暦2015年12月14日。今日の天気は一日中雪という予報だった。こういう時の予報は外れるジンクス、みたいなものが発動するものだと、姉から教わった。

 だが、そのジンクスは二次元の中の話だったみたいだ。地面に積もった淡い白を踏みしめながら、病院の大きな門をくぐった。

 年末が近いからか、道路や病院のロビーにも自分以外の訪問者の影は見当たらなかった。ロビーの中心に飾られたクリスマスツリーは、まだオーナメント等の彩りはまだ無い。

 受付を済ませて、エレベーターで病室へと向かう。下りると、白く真っ直ぐの廊下の最奥に、扉がある。


 ──────とても静謐で、まるで墓場のようだ。


 廊下を歩きながら、マフラーやコートに雪が付いていないか確認する。扉の向こうに眠っている少女は、冬生まれのくせに寒がりだった。

 扉に三回ノックをする。帰ってくることの無い返事を期待しながら、少女へ声を掛けた。

「お姉ちゃん、来たよ」

「───────誰?」

 気付けば、思いっきり扉を開けて、病室の中に飛び込んでいた。長い間、期待していた光景を思い浮かべながら、少女を見て─────


「違う」と、確信した。

 今、目の前にいる少女は、今まで共に人生を重ねてきた「姉」と、全く違う存在だと。

 そして、同時に。

「姉」と、同一の存在であるとも。


「ソレ」は、「姉」と変わらない容姿をしていた。長く豊かな黒髪、白く細い腕(この腕が、数年前まで刀を握っていたとは思えない)、整った顔、そして、


 "蒼く澄んだ湖のような瞳"をしていた。


「何、ソレ──────」

 記憶の中の「姉」は、黒い瞳であらゆるモノを俯瞰している姿でしかなかった。掴みどころがなく、この世全ての現象を吸い込むような、肯定と否定を孕んだものだった。

 だが「ソレ」の瞳は蒼い湖のように冷えていて、ずっと見つめていることは出来そうにない。少なくとも自分にとって、苦手な視線だった。

「ソレ、か。ソレって、俺の目の事を言っているのか?」

「姉」の姿と声で、「ソレ」は僅かに笑った。

「この世ならざるモノを視界に収める、それを破壊する事が出来る、唯一無二の魔眼。──────『零眼』、だろ?」

「貴方は、誰」

「………そうだな。何者かと言われれば、答えはたった一つだ」

 病院のベッドの上に体を起こしている、「姉」と同一の存在である「ソレ」を、唯見つめていることしか出来なかった。


「ソレ」は言う。本来ならば有り得ない、無意識の呪いを。

 愛しい家族に何でもないという風に、生前と変わりない仕草で微笑んだ。


「俺は上杉彗蓮。─────彗仙の、もう一つの人格だ」


 そしてもう一つ、残酷な現実を突き付けてきた。


「上杉彗仙は、もう居ない。この世の何処にも、彼女は存在しない。残念だったな、綾華。………仲直り、出来なくて」


 …………………………もう、居ない?

 存在しない、ということは、死んだということ?

 じゃあ、目の前にいる彗仙の肉体は、彗蓮の物になったということなのか?

 結論に至った瞬間、脳が一気に熱を帯び始めた。

 悲しくて、やり切れなくて、しんどくて、自分の過ちに気付いてしまったから、彼にその怒りをぶつけてしまいそうになる。

 彗蓮は困ったように微笑んでいる。あの時の彗仙と同じ、抗う事を諦めたような笑顔だ。

「…………本当に、もう、会えないの?」

 その問いに答えたのは、彗仙ではなく彗蓮だった。

「うん。もう彼女は、誰にも会えない。今まで隠してきたもう一人の自分である、俺に後を託して、死んだよ」

「いつ、死んじゃったの?」

「彗仙が耐えられない程の攻撃を受けた、あの日に」

 …………つまり、肉体は生きていたが、彗仙の精神はほぼ即死に近かったのだ。

 並大抵の人間に耐えられない攻撃を肉体は耐え、精神は耐えられなかったが、別の自分に後を託せる程の余裕はあった。

 しかし、家族である綾華に、言葉を遺せる程の余力は残っていなかった。

「でもな、綾華」

 彗蓮は、ベッド脇に蹲る綾華の頭を優しく撫でた。もういない、姉を思い起こさせるものだった。

「俺はもう一人の彗仙でもある。元々、俺と彗仙はセットだったんだ。俺は男性の人格であるが故に、女性の肉体を持つ彗仙の裏に隠れている事しか出来なかった。彗仙が生きていく上で不必要なモノを持って生まれたから、ずっと、裏からお前たちを見ている事しか出来なかった。

 勿論、俺は彗仙としての幸せを尊重したし、彗仙も出来るだけ、俺の願いも叶えてくれた。俺達はずっと、それこそ生きて死ぬまで、二人一緒に過ごしていけると思ってたんだ。…それは、叶わなくなってしまったけど。

 俺にとって、お前はとても大切な存在だ。今ではたった一人の妹だし、何より彗仙の事を愛していてくれた。これからも、きっとそうだ。お前は、彗仙の事を忘れられない」

 そうだ。例え代わりが居たとしたって、彗仙のことを忘れられるわけが無い。何より、同じ肉体を持つ存在が生きているのだから。

 小さく頷くと、頭を撫でる手がまた動き出す。

「…だからね。俺は、彗仙として生きる。彗仙が叶えられなかった幸せを、今度は俺が叶えたい」

 ずっと、彼女の中から見ていた景色が甦る。

 妹と共に歩く、公園からの帰り道。

 友人達とふざけ合った、生徒会室。

 両親から受け継いだ刀を握って、戦場を駆けながら見た、夕焼け。

 そんな幸せな記憶を持って、これからの人生を歩んでいけるのなら。表に出てきた意味があるんじゃないか。

 自分のものでは無いけど、自分にしか触れられない記憶を、受け継いでしまったのだから。

「そういう訳で、綾華にお願いがある」

「………何?」

「あのな───────」


 我は呪い。

 身に宿した者を殺し、世界と意思を支配するもの。

 意思を持ち、己の欲の為にあらゆる存在を嫌悪するもの。

 だが、それでも───────。


 愛を識る事が出来たなら、それはとても。


 しあわせ、なのだろうか。







 上杉彗仙が退院してから、既に一週間が経った。

 更にいえば、日本最初の聖戦とも言われる戦いから、四年が経とうとしている。その凄絶な戦争の被害は尋常ではない。実際、吉良彗仙が終戦時間近に負った怪我のせいで、四年近くも昏睡状態にあったことも証拠になるだろう。

 東京の郊外に建てられた、真新しい武家屋敷である上杉邸に身を寄せ、暫く旧知の友達とも連絡を控えていた。

「どう、久しぶりの我が家は」

 彗仙の妹である浅野綾華に用意してもらった着物を纏い、居間に座ってテレビを眺めていた。

 どうにも、記憶の中の我が家と多少の差異があるような気がして落ち着かない。

 だが、その感覚を口にするのは憚られたので、暫く視線を漂わせた。

「……………畳、新しくした?」

 何とか口にした言葉に、綾華は笑った。

「当たり前でしょ、年末が近いんだから。もうクリスマスだし、お店もしまっちゃうとこ多いから」

「クリスマス、ね」

 紅と緑がチカチカする、聖ナントカの日。

 確か、キリストの誕生を祝う日だった気がする。しかし、日本人にとってはそこはどうでもいいらしい。

 今では恋人達の逢瀬に使われている、ちょっと近寄り難いイベントだ。

 彗仙は毎年、クリスマスに同級生達と学生寮の食堂を借りてパーティーをしていた。今年もやっているらしいが、俺と綾華は欠席することにしたらしい。

 テーブルの上に二人分ぐらいの小さなケーキが置かれた。この赤い帽子が聖ナントカってやつか。

「そういえば、プレゼントは無いの?」

「え、お姉ちゃんって、そういうの無欲な人だと思ってた」

 用意してなかったのか、コイツめ。

「折角退院したんだし、記念のプレゼントとかあるのかなって…」

「あー……それは、あるにはあるんだけどね………クリスマスプレゼントは、考えてなかったなー………」

 そうかそうか、では、この特注で作ってもらった綾華専用の着物は、手直しして俺のサイズに変えてもらおうか。

 立ち上がり、壁にかけてあったプレゼントを取りに行こうとすると、綾華が立ちはだかった。

「これは、もう貰った判定でいいんじゃないかな!?」

「でも、綾華は"お姉ちゃん"に、クリスマスプレゼントを用意してないんでしょ?」

「そ、そうだけど!これと同じぐらいの価値がある物を用意してるから!」

「ふーん?」

 必死にプレゼントを死守しようとしている綾華を見ていると、何だか可愛がりたくなる。なるほど、これがキュートアグレッション。

 …………いやいや、今のはそういうんじゃなくて。

「…まぁ、そこまでがめつい訳じゃないし、他に用意してあるんなら、いいや」

 俺が諦めて、畳の上に座ったのを見て綾華は胸をなでおろした。

「んじゃ、ケーキ食べよっか」

「甘いの苦手なんだけど」

「嘘。食べられるでしょう?」

「うん。本当は大好き。特に、綾華が作ってくれるお菓子は、もっと好き」

 照れ臭いが、きっと彗仙ならば、恥ずかしがらずに伝えるだろう。テーブルに頬杖をついて、綾華がケーキを取り分けている様を見つめる。

 白い小さなホールケーキを、スポンジやクリームに吸い込まれるような滑らかさで中心を断ち切るナイフ。

 使い手の意思と同じく、そっと優しい手触りで美しい断面を形作る。

 俺は彗仙と同じく、料理が得意だ。勿論彗仙の肉体越しに作ったという、本当に得意って言えるのか怪しいものだが………彼女と同じ料理を作れるだろう。

 何が言いたいのかというと、俺達が料理の工程で一番好きなのが「切る」場面だ。

 例えば、牛肉や豚肉、鶏肉といった生肉の部類は切りがいがあるというか、他の食材より手応えがあって好きだ。

 効率よく、食べた時に美味しさをより感じられるように工夫して「切る」。

 その美しさに、俺達は魅せられた。何より、食材を切っている間は、自分の中に眠る衝動を発散出来ているから落ち着く。

 綾華が切ったケーキにフォークを刺す。

 実は、「刺す」という行為も割と好きだ。対象が固ければ固いほど、心の奥底から仄暗い興奮が湧き出てくる。

 一口大にカットし、口に入れれば、もう至福の時。

 まともに味覚を感じられるのが甘味だけだからというのもあるが、柔らかなスポンジに甘酸っぱい苺。そして、甘すぎない滑らかなクリーム。

 ……やはり、覚えていてくれたのか。

 目の前でケーキを口いっぱいに頬張る妹に視線を向けると、きょとん、とした目で俺を見つめ返してくる。

「…………どしたの?」

「飲み込んでから喋りなさい」

「飲み込んでから喋ったよ!?」

「ふふ、そうだったわね」

「ひどーい………」

 不貞腐れた顔でそっぽを向く綾華を宥めながら、残りのケーキを平らげた。小さなケーキだったからか、そこまで時間はかからなかったけど──────

「お姉ちゃん」

 皿を洗いながら、隣から話しかけてくる綾華を無視するなど、俺にも出来なかった。

「何?」

「…………言わないの?」

「───────うん」

 短い返事を返すと、何とか自分の中で納得しようと努力している表情で、綾華は頷いた。

「了解」

 やがて後片付けが終わると、綾華は自室へ帰っていった。

 俺も自分の部屋に入り、全体を見回す。


 パステルブルーのベッド。

 綺麗に中が纏められたクローゼット。

 教科書と小説が収められた本棚。

 小綺麗すぎる勉強机の上の、蒼いリボン。


 その全てが、家に帰ってきたのだと実感させると同時に。

 この部屋は、俺の部屋ではないと理解させられた。


 込み上げてくるナニカを抑え、全ての感覚を視界に集中させる。

 少しずつ浮かび上がってくる虹色の線と、己の肉体から流れ出る金色の線。

 これが上杉彗仙の、運命である。


「………は」


 思わず乾いた笑いが喉から出た。

 金色の線は、彗仙の運命を示している。人格が彗蓮に切り替わっても尚、運命は切り離されていない。

 否、切り離すことは可能だ。

 上杉家が代々受け継いでいる『零眼』は、概念を観測し、場合によっては干渉や破壊が出来る。

 俺の記憶が確かならば、彗仙は一度、この線を切り離そうとしたはずだ。

 自分の破滅を示しているのだと、気付いていたから。

 しかし、未だにこうして繋がっているのは何故だろう。

「それもまた、俺が探すべきなのかな」


 ─────死人に口なし。

 もう彗仙は死んでしまったのだから、答えてくれる訳が無い。


 多分、同一人物である彗蓮が分からない理由は一つだけ。

 決定的に違うモノを識ったからだろう。


 何を思っていたの。

 何を感じていたの。

 その運命を識った時──────。


「虚しいとは、思わなかったんだな」


 その願い、叶えてやろう。

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