第21話『第二十章:最初の“道具”』



小説『存在しないわたし!と存在するわたし』

第二十章:最初の“道具”


橘アスカが必要とする『道具』。

それは、ハッカーが仮想空間で振るう武器ではなく、極めて物理的で、原始的なものだった。


第一の道具:磁石。

第二の道具:細い導線。

第三の道具:そして、小さな鏡の破片。


これらを、どうやって、この鉄壁の監視下で手に入れるか。

瑤子とアスカは、医療棟のベッドの上で、音なき対話を重ね、一つの計画を練り上げた。実行犯は、瑤子。陽動と技術的支援は、アスカが担う。


計画は、こうだ。

まず、瑤子が、再び「発作」を悪化させたふりをする。今度は、精神的な錯乱を伴う、より重篤な状態を演じるのだ。目的は、医療棟の医師に「鎮静剤」を投与させること。


鎮静剤の注射。その行為こそが、全ての鍵だった。


数日後。

瑤子は、監房の中で、突然叫び声を上げ始めた。

「来ないで! あっちへ行け!」

壁に向かって何かを叫び、見えない敵と戦うかのように暴れる。その狂乱ぶりは、看守たちを恐怖させるのに十分だった。


彼女は、すぐさま医療棟の隔離室へと運ばれた。

駆けつけた医師は、彼女の瞳孔が開ききっているのを見て(それも、彼女が意図的に作り出した症状だった)、即座に鎮静剤の投与を決断した。


「押さえつけろ!」

看護師たちが、暴れる瑤子の体を押さえつける。

医師が、注射器を構え、彼女の腕に針を刺そうとした、その瞬間。


瑤子は、最後の力を振り絞るかのように、腕を振り回した。

その手が、医師が胸ポケットに差していた一本のボールペンを、偶然を装って弾き飛ばした。

ボールペンは、床を転がり、ベッドの下の暗がりへと消えていく。


「ちっ…面倒な…」

医師は舌打ちし、まずは鎮...鎮静剤の注射を終えることを優先した。

薬剤が注入されると、瑤子の体の動きは、ゆっくりと収まっていった。やがて、彼女は深い眠りに落ちたかのように、静かになった。


医師と看護師たちは、彼女が完全に落ち着いたことを確認すると、部屋を後にした。

床に落ちたボールペンのことなど、誰も気に留めていなかった。


深夜。

医療棟の全フロアが、静寂に包まれている。

瑤子は、ゆっくりと目を開けた。鎮静剤の効果は、計算通り、もう切れている。


彼女は、監視カメラの死角になるように、慎重に体を動かし、ベッドの下へと手を伸ばした。

指先に、冷たい金属の感触。

(…あった)

手に入れたのは、医師が落とした、ごく普通のノック式ボールペン。


彼女は、そのボールペンを、シーツの下に隠すと、静かに分解し始めた。

中から出てきたのは、小さなバネ。そして、インクの入った細い芯。

彼女は、バネを慎重に引き伸ばし、まっすぐな一本の針金にした。これが、アスカの要求した『導線』の代わりになる。


次に、彼女はベッドから抜け出し、部屋の隅にある小さな洗面台へと向かった。

鏡はない。囚人が自傷行為に使わないための配慮だろう。

だが、蛇口は金属製だった。

彼女は、先ほど作った針金の先端を、コンクリートの床に擦り付け、鋭く尖らせた。

そして、その鋭利な先端を使い、蛇口の根元の、誰も気にしないような小さな製造会社の刻印プレートを、根気よく、少しずつ削り始めたのだ。


何時間も、気の遠くなるような作業。

指先から血が滲む。だが、彼女は止めなかった。


夜が白み始める頃、ついに、米粒ほどの大きさの、薄い金属片が剥がれ落ちた。

彼女は、それを囚人服の縫い目に隠し、ベッドへと戻る。

その金属片の表面は、粗いが、確かに光を反射していた。アスカが要求した『鏡』の、代用品だ。


最後の『磁石』は、どうするか。

その答えは、アスカが既に見つけていた。


翌日、清掃係の囚人が、医療棟の廊下をモップがけしていた。

その囚人は、アスカの息のかかった仲間の一人だ。

彼女は、瑤子の隔離室の前を通り過ぎる際、わざとらしく、持っていた磁石式のドアストッパーを「誤って」床に落とした。そして、それを拾い上げると、ほんの一瞬だけ、隔離室の食事口の前に置いたのだ。


その一瞬を、瑤子は見逃さなかった。

食事口の隙間から、素早く手を伸ばし、その小さな磁石を奪い取る。

清掃係は、何事もなかったかのように、その場を立ち去った。


全て、揃った。

磁石、針金、そして、鏡の代わりになる金属片。


その日の午後、瑤子は「回復した」とされ、監房へと戻された。

堂島は、彼女がおとなしくなったのを見て、自分の心理作戦と薬物治療が功を奏したのだと、ほくそ笑んでいた。


彼は、まだ知らない。

瑤子が、その囚人服の内に、この島の支配を根底から覆すための、最初の『道具』一式を、静かに隠し持っているということを。

そして、その道具が、天才ハッカー・橘アスカの手に渡った時、この島の鉄壁のシステムに、最初の亀裂が入るということを。


静かなる反逆は、ついに、実行のフェーズへと移行した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

『存在しないわたし!と存在するわたし』 志乃原七海 @09093495732p

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る