残された手のひら
@tanakasatoshi48
『残された手のひら』
私の人生は、父さんのごつごつした大きな手と、母さんの温かい手のひらに包まれて始まった。手のひらは、私にとって世界そのものだった。
父さん:「この手は、いつだってお前を守るぞ。」
私はその言葉を、父さんの手のひらの温かさで知った。
母さん:「泣きたいときは、ここにおいで。手のひらは、涙を受け止めるためにあるのよ。」
私はその言葉を、母さんの手のひらの柔らかさで知った。
それはまだ言葉を持たない私にとって、世界を繋ぐ最初のスクリーンだった。友と肩を組み、未来を語り合った放課後の教室。仲間と汗を流し、優勝だけを夢見ていたグラウンド。そんな、かけがえのない時間と交わした約束の数々は、あの日のまぶしい光景をそのまま切り取ったフィルムのように、私の心に鮮明に焼き付いている。
しかし、次第に私は、親の手のひらから離れていく。かつては父さんの大きな手を頼りにしていたが、いつしか自分の手で何かを掴むことに夢中になった。母が「手のひらは、涙を受け止めるためにある」と言ってくれた意味も、ただの優しい言葉ではなく、自分で自分の涙を拭うことのできる大人にならなければならない、という静かなエールに聞こえるようになった。
中学の入学式の日、緊張で震える私の手を、父さんは力強く握ってくれた。その手のひらの温もりが、私を新しい世界へと押し出してくれた。高校の卒業式、友と別れる寂しさに涙が止まらなかった時、母は何も言わずに、ただ私の背中をさすってくれた。その手のひらが、初めて私の涙を拭ってくれることはなかった。私は、もう親に頼るだけの子供ではないと知ったのだ。
人生が色づき始めたのは、愛する妻、ミドリに出会ってからだ。初めて見つめ合った瞬間、心に閉じ込められていた鍵が、カチリと音を立てて開くのを感じた。
私:「君に出会ってから、世界が急に鮮やかになった気がするよ。」
ミドリ(微笑んで):「あなたの目に映る景色が、私の世界になったの。」
雨の日のカフェ、窓の外を流れる景色は、二人だけの映画になった。ミドリが淹れてくれたコーヒーカップの温かさが、私の手のひらにじんわりと伝わってくる。そのぬくもりは、いつしか安らぎの代名詞となり、私たちの人生の輪郭を優しく縁取っていった。この幸せなセットが、永遠に続けばいいと願っていた。
やがて、小さな足音が響くようになった。子供の笑い声は、凍てついた大地に春を告げるさえずりのようだった。
子供が生まれてから最初の冬。私は、手のひらからはみ出してしまうほど小さな、娘の足をそっと包んだ。その時、この小さな命を、この手で守り抜くと誓った。
そして、娘が十歳になった冬。私とミドリは、娘が初めて一人で編んだ、少し不格好なマフラーに顔をうずめた。それは、確かに成長の証だった。
しかし、ふと気づくと、その足音はいつしか私より速く、先を歩くようになっていた。小さかった手が、いつの間にか私の手を握らなくなり、私の手の届かない場所で、自分だけの世界を広げていく。
娘:「父さん、もういいよ。私、一人でできるから。」
娘の声が、やけに遠くに聞こえた。その言葉を聞いたとき、私が見つめた自分の手のひらは、もう娘を守るだけの役割を失っていた。
私:「そうか……もう、そんなことを言う年になったか。」
寂しさと、誇らしさと、戸惑いが、胸の奥で渦巻いていた。私はただ、無言で、娘の背中を見つめていた。
そして、ある日のこと。娘が、真っ白なウェディングドレスを纏って、私の前に現れた。
娘:「父さん、見て。似合うかな?」
私:「ああ……ミドリに、そっくりだ。」
そう答えるのが精一杯だった。バージンロードをゆっくりと、その小さかった手を引いて歩く。その手は、もう守るべき存在ではなく、新しい人生へと向かう、力強い一人の女性の手だった。祭壇で待つ彼に、その手を託したとき、私は初めて、彼女の親離れを、そして私の親としての役割の終焉を、実感した。
娘が結婚して数年が経った頃、小さな命が我が家にやってきた。
私は、ミドリと共に、生まれたばかりの孫を初めてその腕に抱いた。手のひらからはみ出してしまうほど小さな、その温かい命。ミドリは静かに言った。
ミドリ:「あなたの手のひらに、また新しい命がやってきたわね。」
ユウタと名付けられたその孫が、私の指を小さな手で強く握ってきた。その瞬間、私は、自分の中に父さんの手の温もりを、ミドリの中に母さんの手の優しさを見つけた気がした。命の連鎖は、途切れることなく続いていくのだと知った。
だが、人生の帳は、音もなく下り始める。愛するミドリは、まるで遠い星へ還るように、静かに、私のもとを去っていった。最期の夜、彼女の体温は、私の手のひらに残された最後のぬくもりだった。
私:「ミドリ……寒くないかい?」
ミドリ:「あなたの手があるから、平気よ。」
私は、その言葉を信じたかった。
私:「ずっと、こうしていたいな。」
ミドリ:「私も……ありがとう。」
しかし、彼女の手は、私の手から、少しずつ冷えていくのだった。
それからというもの、私の世界はモノクロームになり、時間は止まった。
なぜ、私だけが、この色彩のない世界に閉じ込められてしまったのだろう。
ミドリを失ってから、家はあまりにも広く、静かになった。遠くで鳴る車のクラクションの音だけが、私と世界の間に引かれた境界線を強調する。ミドリがよく使っていたマグカップの冷たさが、彼女の不在を物語った。彼女の香りが染み付いた古いセーターに触れるたび、それは、もう二度と解けることのない、凍りついた思い出の塊となった。
そんなある日、受話器から聞こえた孫のユウタの声は、そのガラスの壁にひびを入れた。
「おじいちゃん、報告があります!僕、結婚したんだ。」
久しぶりに会うユウタは、もう立派な大人になっていた。はにかみながら見せてくれた写真には、ミドリが愛した春の光のような、優しい笑顔があった。言葉を失った私に、ユウタは何も言わず、ただ静かに寄り添ってくれた。
別れ際、ユウタが私の手を両手で包み込んだ。その若くて温かい手のひらに触れながら、私はふと、遠い昔の母やミドリを思い出していた。
ユウタ:「おじいちゃんの手、お母さんの手と似てるね。」
その言葉に、私の固く閉ざされていた心が、ゆっくりと開かれていくようだった。
私:「そうか……君の手も、あたたかいな。」
それは、ミドリの最後のぬくもりに、再び触れたような感覚だった。
その手の温もりが、私の手のひらに残された最後のぬくもりと重なり、再び時が動き始めたのを感じた。
私の目から、止めどなく涙が溢れ出した。それは、過去を洗い流し、未来への道筋を照らす、静かで、しかし力強い命の雫だった。
家に帰り、私は写真立てにユウタの家族写真を飾った。そして、古びた電話帳を手に取り、ミドリの名前の隣に、ユウタの名前を記した。それは、過去から未来へ続く、私なりの愛の継承だった。
私は、再び手のひらを見つめた。そこには、過去のぬくもりと、これからの希望が、確かに残されていた。その手のひらに、新しい季節の訪れを告げる風が、そっと吹き抜けていった。
残された手のひら @tanakasatoshi48
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