エピローグ
二年後の五月、小さなベランダから初夏の風が吹き込んできた。
美咲は水やりを終えたばかりのスズランの鉢に、満足そうな微笑みを浮かべた。白い釣り鐘状の小さな花が、緑の葉の間に可憐に咲いている。
「美咲、お疲れさま」
キッチンからコーヒーの香りと共に、山田さんの優しい声が聞こえてきた。去年の春に結婚した二人は、駅から少し離れた静かな住宅街の小さなマンションで新生活を送っている。
「スズラン、今年もきれいに咲いてくれました」
美咲がリビングに戻ると、山田さんが二つのコーヒーカップを手に待っていた。テーブルの上には、あの日二人で作った花器が置かれている。
「この花、あの時話してたやつですね」
美咲がスズランの茎を優しく持ちながら言うと、山田さんの顔がほころんだ。
「ちゃんと覚えてましたよ。『清楚で上品で、桜田さんらしい』って」
「今は山田さんでしょう」美咲は少し照れながら訂正した。
夫婦になって一年が経つが、まだ時々旧姓で呼ばれることに照れてしまう。でも山田さんの口から自分の名前を呼ばれるたびに、愛されていることを実感する。
美咲はスズランを花器に挿した。小さな白い花が、二人が心を込めて作った器の中で、静かに微笑んでいるように見えた。
「完璧ですね」山田さんが感慨深げに言った。
「あの頃の私たちが見たら、びっくりするでしょうね」
美咲はコーヒーを飲みながら、花器を見つめた。
「まさか本当に一緒に住んで、一緒に花を育てて、こうして飾ることになるなんて」
山田さんも同じように花器を見つめていた。
「でも、あの時から分かっていたような気もします。自然に、こうなるべくしてなったというか」
美咲は頷いた。確かに、二人の関係は常に自然だった。急かしたり、無理をしたりしなくても、季節が移り変わるように、愛が深まっていった。
「陶芸教室、今日も行きますか?」山田さんが尋ねた。
結婚してからも、二人は週に一度、あの陶芸教室に通っている。高橋先生は二人の結婚を我が事のように喜んでくれて、今でも温かく見守ってくれている。
「ええ。今日は新しい湯呑みを作る予定でしたね」
美咲は立ち上がって、ベランダの花たちに目をやった。スズランの他にも、小さなバラや、カスミソウ、季節の花々が咲いている。
「来年は、もう少し大きな庭のある家に引っ越せたらいいですね」山田さんがそっと言った。
「そうですね。もっとたくさんの花を育てて、たくさんの花器を作って」
美咲の声には、未来への希望が込められていた。子どもができたら、その子と一緒に花を育てて、陶芸も教えてあげたい。そんな温かい家庭を築いていきたい。
陶芸教室への準備をしながら、美咲は鏡の中の自分を見つめた。三年前、「もう恋愛なんてこりごり」と言っていた自分とは、まったく違う表情をしている。
穏やかで、満たされていて、そして何より愛されている喜びに満ちている。
「美咲、準備できた?」
山田さんの声に、美咲は振り返った。彼もまた、幸せそうな表情をしている。
「はい、行きましょう」
二人は手を取り合って家を出た。スズランが飾られた花器は、午後の光を受けて静かに輝いていた。
恋をやめたら、愛が来た。
美咲は今、その言葉の本当の意味を理解している。恋は相手を求める気持ちだが、愛は相手を大切にする気持ち。恋は激しく燃え上がるが、愛は静かに、深く、長く続いていく。
山田さんとの愛は、まさにそんな愛だった。お互いを尊重し、理解し合い、共に歩んでいく。急がず、焦らず、自然のペースで育まれた愛。
陶芸教室への道すがら、美咲は空を見上げた。雲がゆっくりと流れていく。時間も、愛も、人生も、すべてが穏やかなペースで流れている。
「今日は何を作りましょうか?」山田さんが尋ねた。
「家族で使える大きなお皿はどうでしょう?」美咲は微笑んで答えた。
「いいですね。将来のために」
山田さんも微笑み返した。二人の未来には、まだまだたくさんの可能性が待っている。新しい花器、新しい家、そして新しい家族。
すべては自然に、愛と共に育まれていく。
スズランの花言葉は「再び幸せが訪れる」。美咲にとって、それは的確な言葉だった。恋愛に疲れた心に、本当の愛が訪れた。そして今、毎日が小さな幸せで満たされている。
陶芸教室の扉を開きながら、美咲は心の中でつぶやいた。
ありがとう、あの時の私。恋をやめる勇気を持ってくれて。おかげで、こんなに美しい愛に出会えたから。
土の匂い、木の香り、そして愛する人の温もり。美咲の新しい人生は、今日もまた静かに、美しく続いていく。
”この物語を読んでいるあなたへ”
この物語は、誰かを激しく求める恋ではなく、誰かと静かに育てていく愛の物語です。
もし今、心が少し疲れているなら、美咲のように「恋をやめる勇気」を持ってみてください。
その先に、きっとあなたらしい愛が待っています。
—完—
恋をやめたら愛がきた マスターボヌール @bonuruoboro
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