運命の500円弁当 ── 待つことの喜び、手に入れる幸せ

@syubi01

第1話 推しは冷蔵庫の中に

仕事を終えた夜の空気は、昼間の熱気をまだ少しだけ残している。

肩に掛けた鞄が、今日一日の疲れをそのまま押し付けてくるように重い。

財布を開くと、中には500円玉が一枚と小銭が少し。

──明日の食費、これだけ。


頭の中で自分に釘を刺す。「今日は安いもので済ませよう」。

それでも、ふと脳裏に浮かんでしまう。

あの豪華弁当の姿──

分厚いステーキ、黄金色に輝く玉子焼き、

副菜は彩りも盛り付けも完璧で、まるで弁当界のステージ衣装のよう。

値札には「1500円」。

思い出した瞬間、私は首を振った。

「無理だ」と、低くつぶやく自分の声が胸の奥でこだまする。


スーパーの自動ドアが開く音と同時に、冷気と惣菜の香りが押し寄せる。

弁当コーナーに目をやると──いた。

たった一つだけ、ガラスの中で静かに私を待つ“推し”が。

近づく理由なんてないはずなのに、足はわずかに減速し、

視線はその上に貼られた「1500」の文字と、

プラスチック越しの艶めく肉の表面に吸い寄せられる。


その時、店員がスッと近づき、手慣れた動作で「半額」の青いシールを貼った。

1500円が750円に。

まだ高い。それは分かっている。

だが、心臓の鼓動がほんの少し速くなるのを抑えられなかった。


そして、隣に一人の中年男性が立った。

彼の視線が、私の推しに突き刺さる。

胸の奥がぎゅっと縮み、手のひらに汗が滲む。

伸びていくその手に、私は一瞬、目を閉じかけた。

──しかし、彼が掴んだのは隣のもっと安い半額弁当だった。

「……ふぅ」

長く息を吐く。

それは、心の安全弁が開いた瞬間の音だった。


不意に、別の店員が現れる。

その手には、真紅の「3割引」シール。

ゆっくりと、それが私の推しに貼られる。

赤い数字を見た瞬間、脳内で自動計算が走る。

1500 × 0.3 = 450円。

──500円以内。ドンピシャ。


「……これは運命だ」

息の奥で呟くと同時に、私の手は反射的にケースへと伸びていた。

一瞬、他の誰かが手を動かした気配があったが、

次の瞬間には、冷気を帯びたプラスチックの感触が掌を包んでいた。

その冷たさは、まるでステージ終演後の握手会で触れる推しの手。

長く待った分だけ、ひんやりとした重みが愛おしい。


レジで会計を済ませ、袋に入れた弁当を何度も覗き込む。

これは節約ではない。

一ヶ月以上、毎日のように視線を送り続け、

ようやくステージから降りてきてくれた推しとの、初めてのデートだ。


帰宅後、冷蔵庫の一番奥──他の誰にも触れられない特等席へ。

「明日まで、絶対に無事でいてね」

扉を閉めた瞬間、冷蔵庫の低い唸り声が、

推しを見守る警備員のように心強く聞こえた。

その夜は、妙な満足感と共に眠りについた。

夢の中で、推しはライトを浴び、肉汁を輝かせていた。


翌日の昼、電子レンジの「チン」という短いファンファーレが響く。

蓋を開けた瞬間、湯気と共に広がる香りが、部屋を一瞬でライブ会場に変える。

箸を入れると、肉汁がじゅわっと玉子焼きの甘みと絡み合い、

最初の一口で、昨日までの疲れも節約生活の苦味もすべて溶けていった。


──500円の幸福は、数字以上の価値を持つ。

それは単なる食事ではなく、

「待つことの尊さ」と「手に入れる喜び」を教えてくれる、私だけの推し活だ。

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