批評家に捧ぐ

卯柿魯安

第1話 批評という鏡――小林秀雄に学ぶ「自己を知る」技法

 今日、「批評」という言葉は驚くほど安売りされている。

 SNSや雑誌、或いはカクヨムにおいても、誰かが作品や人物について何らかの評価を述べれば、それがすぐ「批評」と呼ばれてしまう。だが、その多くは、減点方式の採点表か、あるいは悪口雑言に近い印象を受ける。

 作品を「斬る」ことが痛快で知的な行為であるかのように語られ、他者の創作を断罪することが、自らの価値を証明する手段のように見えてならない。


 私は、こうした「自称批評」のあり方に、かねてから強い違和感を覚えていた。

 それは果たして、ほんとうに「批評」と呼べるのだろうか。

 評価や論評、好悪の表明をすべて「批評」と名付けてしまう風潮のなかで、小林秀雄が語った本来の「批評の精神」は、今やほとんど忘れられているのではないか。

 そう思ったとき、どうしても一度、自分の考えを書き残しておきたくなった。

 それがこのエッセイを書いた理由である。


 小林は、昭和三十九年の正月に発表した随筆「批評」でこう述べている。


「批評とは人をほめる特殊の技術だ。人をけなすのは批評家の持つ一技術ですらなく、批評精神に全く反する精神的態度である」


 そして、別の箇所でこうも言う。


「ほめるところには創造がある、だが、けなすところからは何も生れない」


 この「創造」という語が、まるで刃のように鋭い。

 人をほめるということは、ただ賛辞を並べることではない。安易なヨイショでもない。

 相手のなかに光を見出し、それを自分の言葉で描き直す行為だ。

 つまりそこには、自分の視点を通して、他者の世界を再構築する努力がある。

 それが「創造」であり、「ほめる」ということの困難さでもある。


 この意味で、批評とは常に自己告白に近い営みである。

 作品という他者を語りながら、実のところ私たちは、自分の感性、価値観、判断力、そして内面そのものを晒している。

 批評のなかで問われるのは、作品の質ではなく、自分の目の質であり、自分が何に感動し、何を恐れているかという、生々しい精神の形なのだ。


 小林秀雄が「批評とは竟に己れの夢を懐疑的に語ることではないのか」と書いたとき、彼はまさにこの自己告白の性格を示していた。

 作品を語るとは、己の夢――理想や主義の輪郭を、そっと水面に映すような行為なのだ。

 そして、それを懐疑する。つまり、疑いながら語る。

 無防備に、だが逃げずに、自分という器の歪みを認めながら、なお他者を理解しようとする。


 この視点から見れば、現代の「自称批評家」の多くは、批評家ではない。

 彼らは自分を一切語らず、対象の欠点を並べ、あるいは好悪を表明するにとどまる。

 そこには「対象を通して自己を省みる」という批評の本質が欠けている。

 むしろ、己れを映す鏡として他者を用いるどころか、他者を殴る棒としてしか扱っていないように見える。

 彼らは「批評家」ではなく、せいぜい「評論家」、あるいはただの「感想家」に過ぎないことがわかるだろう。


 なぜこうなったのか。

 一因は、「批評」を創造的営為ではなく、判定競技だと勘違いしている風潮にあるだろう。

 減点法で不備を探し、それを突きつけることが“正しい批評”だと思い込む。だが、そのような態度は、作品の背後にある人間や文化を照らし出すことも、自分自身の内面を掘り下げることもない。

 ただ「欠点のコレクション」を作って悦に入るだけだ。


 真の批評には、対象への敬意が必要だ。

 これは甘やかすことではない。むしろ厳密な観察と深い理解を伴う敬意である。

 その敬意を基盤として、対象を語ることで自分をもさらけ出す。

 何度でも言う。批評とは、他人という鏡に自分の姿を映し、その像を通して自らの無知、限界、価値観を探る営みだ。


 小林秀雄は、批評家であって評論家ではなかった。

 だからこそ彼の文章は、単なる事実の羅列や論理的分析を超えて、書き手自身の内奥をも読者に感じさせる力を持つ。

 批評とは、他者と自己とのあいだに架ける橋であり、橋を渡る中で自分の足元を確かめる行為である。


 だから私は、批評とは作品であり、自己を暴く営みだと考えている。

 言葉を通して他者の像を描きながら、その背後に自分の影を忍ばせること。

 あるいは、その影に気づかれることを、少しだけ恐れながらも、それでも書くこと。そこには勇気が要る。だが、その恐れを超えたとき、言葉はようやく「批評」になるのだと思う。


 最後に、ひとつ付け加えておきたい。

 このエッセイは、決して誰か特定の「自称批評家」を非難したいがために書いたものではない。

 表現の自由がある以上、どんな意見や感想があっても構わないし、それらが「評論」や「感想」として世に出ること自体に、私は何の異論もない。

 むしろ多様な視点こそが表現の世界を豊かにしているとも思う。


 ただ、私が問題にしたかったのは、それらが「批評」という言葉にすり替えられたときに生じる、意味の摩耗である。

 批評とは本来、他者を語りながら己を映し出す営みであり、そこには深い自己省察と創造が伴うはずだ。だからこそ、単なる断定や感想に過ぎない言葉を「批評」と呼ぶのは、やはり違うのではないか——そう述べたかったにすぎない。


 ほめることの難しさと、それに伴う勇気を忘れないために。

 批評という名の創造を、もう一度、静かに見つめ直したいと思うのだ。


♢  ♢


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