表裏一体

のる

第1話 ただいま

第一話 「ただいま」


 村の時間は止まっていた。

人が減り、子が生まれず、老いだけが積もるはずの場所。

けれどこの村は、奇妙に形を保ち続けていた。


風習、建物、人の顔──なにもかもが変わらず、むしろ“凍りついたように”そこにある。


それが、俺の生まれた村だった。




俺が村にかえってきたのは、十五年ぶりだった。


母が亡くなった。

その知らせは、村から届いた。

役場を名乗る老人の声は湿っていて、言葉がどこか曖昧だった。


「遺言で、村へかえしてほしいと。……それが最後の希望でした」


そう言われたとき、俺の中で何かが引っかかった。


 


母は――あんなにも、村を嫌っていたのに。

毎晩のように夢に見てうなされていたのに。


 


小学生の頃、真夜中に目を覚ますと、母が俺を布団ごと抱えていた。

家を抜け出し、雨の中を走った。

振り返れば、父と母が口論していた。怒鳴り声。割れる音。

……そして、母の笑い声。


 


「大丈夫よ。ここを出れば、元通りになるから」


そう言って、泣きながら笑っていた母の顔を、俺は今でも覚えている。

でも――あのあと、母はどこか壊れたように無口になった。


そしていつの間にか、何の前触れもなく、また村に戻っていた。


 


まるで、最初から「かえる」ことが決まっていたみたいに。


 


 


車を降りた瞬間、空気が変わった。

雨が降っているはずなのに、村の中は濡れていない。

風もない。葉も揺れない。音がしない。


すべてが、止まっていた。


 


俺の足だけが、ぬかるみを踏んでいた。


 


村の家並みはほとんど変わっていない。

その中にあった、俺の生家――後藤家の門をくぐると、父が出てきた。


 


「理恵は、よく、かえってきたよ」


そう言った父の顔は、変わっていないはずなのに、どこか違って見えた。

言葉も、聞き慣れたはずなのに、ひとつひとつが古びていた。


 


仏間に通されると、遺影が飾られていた。

その瞬間、心臓がひやりと凍った。


 


遺影の女は、知らない女だった。


確かに、母に似てはいる。

年齢も、雰囲気も、違和感があるわけじゃない。


けれど、俺の記憶にある母の顔とは、決定的に違っていた。


 


「これ、母さんじゃない」


俺は思わず口に出していた。

父は何も言わず、線香に火を点けた。


 


「理恵の遺影だ。間違いないよ。名前も……ちゃんと、ある」


 


位牌を見た。

「後藤理恵」と、確かに刻まれている。


でも、俺は困惑していた。

……母の名前って、本当に“理恵”だったか?


当たり前に覚えていたはずのことが、頭の中で霧のように薄れていく。


 


もしかして、俺の記憶の方が間違っているんじゃないか。

そう思わせるような“何か”が、家中に満ちていた。


 


 


家の中には、生活感が残っていた。

食器。洗濯物の匂い。お茶の湯呑み。


けれど、母の部屋だけは完全に空っぽだった。

引き出しの中すら、何もない。


 


風もないのに、障子が揺れていた。


その向こうに、一輪の白い花が置かれていた。

母が生前、好きだった花だった気がする。けれど、名前が思い出せない。


 


その夜、耳の奥で、鈴の音が鳴った。

ちりん、とかすかに。


 


音を辿って廊下に出ると、濡れた裸足の足跡が、点々と続いていた。

子どもの足跡だ。小さくて、浅い。

雨は止んでいたのに、なぜかそれは生々しく濡れていた。


 


足跡は、祠の方へと続いていた。


無意識に、俺はそれを追っていた。


 


 


村の奥に、小さな祠がある。

草に覆われ、半ば崩れたような建物。


扉は半開きで、中は真っ暗だった。


 


覗こうとした瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。

目を凝らすほどに、“何か”がこちらを見返してくる気がした。


見えないのに、わかる。

中に、誰か――いや、“何か”がいる。


 


俺が身を引こうとしたときだった。

背後から声が聞こえた。


 


「おかえり」


 


優しい声。

どこかで、聞いたことのあるような。


俺は条件反射のように、返事をしていた。


 


「……ただいま」


 


でも、それは――俺の声じゃなかった。

口が動いていなかった。


 


俺の意志とは無関係に、誰かが“俺の声”を使った。


ぞっとした。

けれど、身体は動かなかった。


 


 


翌朝、父は何事もなかったように朝食を出してきた。

祠のことを訊くと、笑って言った。


 


「まだあったか、あれ。懐かしいなぁ」


その言葉が嘘か本気か、判別がつかなかった。


 


俺は、もう一度遺影を見た。


やはり、あれは――母じゃない。


 


でも、「後藤理恵」とはっきり記されている。


 


……母は、本当に、自分の意志でここに“かえって”きたのだろうか?


それとも、

最初から“かえされるために”生きていたのだろうか。


 


ふと、床に目を落とすと、昨日見た足跡が、まだ濡れて残っていた。


 


 


第二話へ(近日公開)

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表裏一体 のる @Noru_self-made

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