車輛トラブル

仁木一青

車輛トラブル

 まだ残暑の厳しい九月の夕暮れ、高校からの帰り道だった。


 駅のホームにやってきた車両に乗りこもうと、足を踏み出した瞬間。ふと、ホームと電車の隙間に目が留まった。「ひぃ……」という悲鳴が喉から漏れ出た。


 黒い髪が線路の上に広がっている。


 最初は人が倒れているのかとドキリとした。

 そうではなかった。髪だけが地面にべったりと張りついている。


 それにしては髪の量が尋常じゃない。五人分、いや、それ以上はあるだろうか。漆黒の髪が、線路の枕木を覆い尽くしている。


 まるで巨大な海藻が海底に沈殿しているような異様な光景だった。顔を近づけると、髪特有の甘ったるい匂いとどこか生臭い臭いが鼻をついた。


 そして、その髪が動いていた。


 蛇の大群のようにうねうねとうごめく髪の毛。かすかに「さらさら」という音を立てながら車輪にからみつこうとするような動きに、私は言いようのない吐き気を覚えた。


 本能的に放置できないと思った。気が動転していたせいだろう。近くにいた車掌に向かって、そのまま口に出してしまった。


「あの、線路に……大量の髪の毛があります」


 若い車掌は、意外にも平然とした様子で「わかりました」と一言。私についてきた。


 線路の隙間をこわごわ指さすと、彼はちらりと覗きこみ小さく頷いた。慣れた仕事を淡々とこなすような物腰で表情にも変化がない。


 私の頭の中は混乱していた。なぜこの人はこんなにも冷静なのだろう。私が見ているものが見えていないのか、それとも……。


 よっぽど不安そうな様子だったのだろう。


「やっぱり塩ですよ。あいつらには」


 安心させるように言って、車掌は腰のポーチから小さなビニール袋を取り出した。そして迷いなく、髪の群れに向かって白い粉を振りかけ始める。粗い粒状のそれは、彼の言うとおりどうやら塩のようだった。


 塩の粒が髪に触れた瞬間、「ジュウ」という小さな音が響いた。


 髪の束は殺虫剤をかけられた虫のように細かく震えた。束になった髪がまるで生き物のように身をよじり、苦しむかのようにのたうち回る。


 車掌は顔色一つ変えずに、さらに塩を振りかけ続けた。髪の毛たちの動きがだんだんと弱々しくなり、やがて煙のように薄くなって、ばらばらと散り散りになって消えてしまった。


 線路には、わずかに塩の結晶が残っているだけだった。


 電車は十分ほどの遅れで発車した。


 車内のスピーカーからアナウンスが流れる。


「車輛トラブルのため、この電車に遅れが生じております」


 私は窓の外をぼんやり眺めながら考えていた。

 あの髪の毛の怪異を、車輛トラブルと呼ぶのか。


 車掌の手慣れた様子。常備している塩。きっと彼らにとって、ああいうことは日常茶飯事なのだろう。表向きは機械の故障として処理されるが、実際は……。


 そして、ふと思い至る。


 毎日のように聞く電車の遅延。「車輛トラブル」「信号機故障」「安全確認」。


 その中には今日出会ったような怪異が原因のものが、いくつもまぎれているに違いない。

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