父のバイクと風になる日
山猫家店主
風になった日
倉庫に響く「ドンッ」という爆発音に、十年分の記憶が揺れた。
乾いた排気音が空気を震わせ、微かにガソリンの甘い匂いが鼻を刺す。
低く続くアイドリングは、胸の奥でくぐもった太鼓のように響き、薄暗い倉庫の壁を振動させた。
赤いタンクの塗装は所々に小さな傷があり、そのひとつひとつが時を刻んできた証のようだった。
この音を、もう二度と聞けないと思っていた──。
十年前、父は事故で突然この世を去った。
形見のホンダCB750は倉庫の奥に押し込まれ、タイヤはひび割れ、チェーンは茶色く固まっていた。
触れれば何かが壊れそうで、高瀬は整備士でありながら、あえて見ないふりをしてきた。
ある日、母がふと口にした。
「もう処分しない? 誰も乗らないんだし」
その一言が、高瀬の中で静かに燻っていた火に風を送った。
捨てるぐらいなら、せめてもう一度、あの音を響かせたい。
工具を握る。
錆びたボルトは固く、スパナをかけても動かない。
オイルの匂いが立ち上がり、指先は油で黒く染まる。
タンクを外すと、ガソリンの残り香がふっと漂った──父のガレージの匂いだった。
まだ小さかった自分に、父はレンチを渡して言った。
「エンジンは楽器みたいなもんだ。いい調律をしてやれば、ずっと歌い続ける」
あの低い声が耳に蘇る。
キャブレターを分解し、固まったガソリンを洗い落とす。
ピストンを磨くたび、メタルの冷たさと指に伝わる細かな傷が、父の長距離ツーリングの記憶を物語っていた。
数週間かけて組み直し、ついにその時が来た。
キーを回す。セルが唸り、コンロッドが回転し、シリンダーの奥で混合気が爆ぜる。
「ドンッ」という音と共に、マフラーから白い息が吐き出された。
長い眠りから目覚めた相棒が、再びこの世界に存在を示す瞬間だった。
高瀬は迷わず跨った。
タンクの冷たさが内腿に伝わり、グリップからは微かな振動が指先をくすぐる。
クラッチを握ると、ケーブルの張りが指に確かな手応えを返した。
アクセルをひねれば、排気音がひとつ高い音階に跳ね上がる。その響きに背中を押されるように、海沿いの道へ走り出した。
春の潮風がヘルメットの隙間から入り込み、頬を撫でて過ぎる。
エンジンの鼓動は、まるで後ろに父が座っているかのように、タンク越しに伝わってきた。
途中、小さな港町で停車し、缶コーヒーを開けると背後から声がした。
「……それ、高瀬さんのバイクじゃないか?」
振り返れば、白髪の老ライダーがいた。
日焼けした手でタンクを撫でる指が、小刻みに震えている。
「間違いない。あの人の相棒だ」
港のベンチで、老ライダーは語った。
二十年前、父と共に宗谷岬から与那国まで走り抜けた旅。
雪に閉ざされた峠でエンジンが止まり、凍えかけた夜に父が寝袋を譲ってくれたこと。
「俺はあの時、あの人に命をもらったんだ」
最後に一緒に来たのが、この港町だという。
海沿いの古びた食堂で、父は「ここが俺のゴールでもいいな」と笑っていたらしい。
夕暮れの海岸線。
水平線が金色に染まり、波音がかすかにエンジン音に混じる。
スロットルをひねれば、マフラーから低く深い唸りが溢れ出す。
その響きは、横で父が笑っているようだった。
風の中で、父と自分の鼓動がひとつに溶けていく──このまま、もう少し走っていたいと思った。
了
父のバイクと風になる日 山猫家店主 @YAMANEKOYA
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